第28話 整形した友人、由加里
慎二のことを考えていた。慎二が、わたしと紗耶香との関係を修復したいと思うのは、紗耶香があの夜の全てを語っていないからだろう。親しい付き合いをしてきた紗耶香の、敵意に満ちた視線を見れば、あの夜に、わたしがどれだけ酷いことをしたのか想像がつく。
紗耶香は震えていたと言った。男勝りな紗耶香が仔犬のように震え、泣いていた。そしてその時に起きた内容を近しい友人に話すのさえ憚られた。紗耶香にとって、それはそれは悍ましい出来事だったに違いない。
京都市内にある古民家をリノベーションした一軒家の宿に、今夜は宿泊する。
僅か2組限定のこの旅館に、わたし以外にもう一組滞在していた。
「思ったよりいい旅館だね」
30代前半に見えるその男性は、雄のバーニーズマウンテンドッグを2頭連れていた。あとから奥様が合流すると、フロントでホテルの従業員に話しているのを聞いた。彼と目配せ程度の挨拶を交わし、わたしは晋之介と共に部屋に向かった。酷い疲労を感じながら、部屋にある露天風呂に入ったが、夕食の時刻が迫っていたので、ゆっくりは出来なかった。夕食は1階にある囲炉裏部屋に用意されていた。午後6時から7時半までの間で宿泊者の夕食の用意がされる。わたしは7時半を予約したのだが、それでもギリギリになってしまった。
囲炉裏部屋は、ネットで検索して見た画像よりも、狭く感じた。写真での部屋は薄暗く、ランプの灯りが協調されていたが、実際は家庭のリビングほど明るかった。宿泊客の夫婦ふたりと犬2頭は、わたしたちよりも先に囲炉裏淵に座っていた。
「こんばんは」
夫婦に挨拶をし、晋之介を炉縁の角に作られたリード用の金具に繋ぐと、わたしは正座し、囲炉裏で焼かれている川魚や、並べられた四季の色どり鮮やかな料理を見ていた。
ーこんなに食べられるかなー
ふだんならペロリと平らげる量の料理だったが、今宵は食欲がない。仲居さんに飲み物を聞かれても、ソフトドリンクを注文した。酒を飲む気分でもなかった。
「お酒は召し上がられないのですか?」
手前に座るご亭主に声を掛けられた。
きりりとした顔つきで、慎二を色白にした様な男性だった。これは俗にいうハンサムなのだろう。わたしは苦笑する顔を隠す為に、左手を頬にあてながら答えた。
「いつもは大好物なのですが、きょうはなんだか疲れてしまって」
「そういう日は飲んで、すっと寝るといいですよ。どうですか一杯?」
ご亭主が冷酒のボトルを片手に立ち上がろうとした。
「無理強いしては失礼よ」
妻らしき女は、「ごめんなさいね、ご迷惑ですよね。この人悪気はないのですが、寂しがり屋で、人恋しいのね、わたしでは物足りないみたいで」
そこまで言い終わると、女ははじめてわたしと視線を合わせた。そして強張った顔し、「桜花なの?」と言った。
「えっ、はい。そうですけど」
いきなり名前を呼ばれ、動揺した。
「わたしよ、だれだかわかる?」
「いえ、すみません」
やわらかいレイヤーの入ったロングヘアー。目の縁を強調したアイライン。頬がこけ、尖った顎。
「忘れたの、わたしのこと。そうそう」
女は、人を探す仕草で部屋を見渡した。部屋にはわたしたちと犬しかいない。
「春人くんは?」
「春人……春人のことを知ってるのですか?」
「えっ、どういうこと?そりゃ知ってるわよ。わたし桜花と同じ病院に務めていたんだから。ほら、夏にみんなでバーベキューしたじゃない、お台場で。あのお、そうそうテレビ局のイベント祭りに行った後に。その時はじめて春人くんを紹介されたんだけどね。主人ですって」
「バーベキューって」
「酷いな、覚えてないなんて。なんなの」
「すみません」
女は声色を変えた。高めのトーンが一気に低くなったのだ。わたしはホラー映画でも観ている気分がした。
「由香里よ、覚えてるでしょう」
その名を聞いても、ぴんと来なかった。しかし声には覚えがある。
「由香里……元気だった」
いま目の前にいる女は、わたしの記憶の中の人とは、まるで別人の様に派手で痩せていたが、小動物の様におどおどした気質は消せないでいた。紛れもない、わたしの知る由香里だった。
「由香里の友達だったの?」
ご主人は冷酒のボトルを片手に持ったまま、その場に腰を下ろした。
「そうね、友達というよりも同僚かな?ねえ桜花」
「あっまあ、同僚ですね。むかしの」
友達ではないと即答され、わたしは余計に居心地の悪さを感じた。
「気分悪くしないで。ごめん、こいつ言葉の使い方が雑で」
夫はわたしに気を使っている様だった。由加里とわたしを交互に何度も見た。
「お気になさらないで」
わたしは束ねた髪からこぼれた前髪をかき分けた手で、晋之介の頭を撫でた。晋之介は他の犬にも、料理にも興味のない風に眠っていた。
「それで春人くんは?久しぶりに会ってみたいわ」
「春人は」
「ん、春人くんがどうしたの?ねえ、きょうは一緒じゃないんだ。仕事の関係で来られなかったの?それとも、まさか」
この女、知ってる。由香里は春人が他界していることを知ってて、春人の話題を出し、面白がっている。すぐにも席を立ちたい気持ちを抑え、心で6秒数えた。こうすると大抵の怒りは治まる。
「ねー、離婚したとか?」
「おいおい突っ込みすぎだよ由香里。春人さんて、桜花ちゃんの旦那さんなんだね。お会いしたかったなあ?」
「春人くんハンサムなのよ~。まあ、健次郎さんの方がすてきだけど」
由香里は言いながら、健次郎を手招きし、自分の隣に座らせた。
「ふふふ、おかしいね」
由香里は髪の毛を指先に巻いて弄んでいる。
「当時ね、わたしより桜花の方が、ずっーとしあわせで、いつかは春人くんの子を宿し、産み、育て、そうしたら春人くんと本当の家族になってしまうんだろうなって」
「なってしまうって、なんだか家族になるのを望んでないみたいに聞こえるよ。妬けるなあ、その春人くんとかいう人に」
健次郎は由香里の鼻の頭を、人差し指の先でつついた。するとふたりは顔を近づけ、なにやらにやにやと笑い合っている。
「ごめんね、あまり体調が良くないから、やっぱり部屋に戻って寝るね」
わたしは晋之介を連れ、自室へ戻った。
部屋に着くとそのまま洗面所へ駆け込んだ。あの囲炉裏部屋を出て、短い廊下を歩き、階段を昇り、部屋に辿り着くまでのほんの数分が、永遠に感じるほど長かった。途中で仲居さんに声を掛けられたが、頭を下げることしか出来なかった。トイレの便座に上体を預け、暫くその場から動けないでいた。
洗面台で顔を洗い、タオルを手探りでさがしていると、鏡に映る自分の顔に愕然とした。そういえば、以前にも感じたことがある。鏡の中の自分が他人に思えるのだ。それは瞬間的なことではなく、長い間、見つめていても、鏡の中の女は自分以外の誰かだった。その顔はいつも狂気に満ちている。殺人鬼とか、そういう類の狂気というより、荒んだ狂気。
わたしは幼少期から母にこう教わって来た。「女の子は笑顔がいちばん。愛嬌よ」わたしは母の教えを守り貫いた。いつも笑顔を絶やさない。家の中でも口角は上がっていた。悲しい時も、怒りの時も、意識して口角を上げた。しかし鏡の中の女の唇の端は下がり、本来垂れ目がちの目は上がり、瞳孔が開いていた。
「つかれている」わたしはその顔を、疲れのせいだと信じ込み、人前では決して見せないと誓った。春人が生きている時、そういう自分を晒さない為に、仕事の疲労が極限に達した時などは、家には帰らず、病院に泊まることを選んだ。何があっても春人だけには見られたくない顔だったからだ。
きょうわたしは実感した。この顔の女は疲れているわたしではなく、わたしの心の奥底に潜む自分なのだと。鏡に手を当てると、自分の手が震えていることに気づく。わたしは必至に笑顔を作ったが、その歪んだ笑顔は、更に恐ろしかった。洗面所を飛び出し、居間に敷かれた布団に突っ伏した。晋之介は布団横の畳の上で伏せていた。顔は見えないが、きっと寝ていない。飼い主の狼狽を受け止められないでいる、静かで寂し気な背中だった。
「しっかりしないとね晋之介」
手を伸ばし、晋之介を撫でた。手の震えは止まっていた。
怒り、嫉妬。
由香里とご主人の様子を見て、わたしは怒りと嫉妬を覚えていたのだ。紗耶香と慎二にも似た様な感情を抱いたと思う。慈悲の気持ちを大切にとの思いで看護師を続けてきたわたしは、本当はとても心の狭い持ち主で、常に人と自分の境遇を比べ、心のどこかで、相手の破滅をイメージしている。そいう所を春人に見抜かれたのかも知れない。だからわたしは嫌われ、春人は他の人を選び、そして自殺した。
「そうだった」
思い出した。死ぬ間際の春人は、わたしと別れたがっていたのだ。
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