第27話 見知らぬ自分
高台寺へナビを登録。京都市内へと向かった。約束の時間まで余裕があったので、高速を使わず下道を選んだ。
途中、舞鶴港へ立ち寄ったが、疫病の影響で、自衛隊の船を間近で見ることは出来なかった。春人は軍艦にも興味があり、あの日、舞鶴に来ることを相当、愉しみにしていた。間人や伊根町などは、春人の中では「ついで」だったのかも知れない。
18時少し前、高台寺の裏木戸に到着した。夕方になり気温が下がり寒い程だ。晋之介を車に残して行こうと思ったが、晋之介にしては珍しく、車中に残ることを断固拒否し暴れたので、仕方なく連れて来た。
高台寺の裏木戸に行くには、長い石段を上がり、正面入り口を右方向に進まなければならない。足取りが重いのは石段のせいではなく、紗耶香と笑顔で対面できない事情からだろう。登り終えたところで、わたしは大きなため息をついた。身体を前に倒し両手を膝にあて背中で息をした。体力には自信がある方なのに、不思議な程、疲れた。裏木戸のある方に顔を向け、睨む様にして見たのは、近眼特有の癖の様なものである。
「行こう」
そうつぶやき、晋之介のリードを引っ張った。
土塀に沿って歩くと、手入れをされた緑の中に立つ、女の姿を確認した。紗耶香だった。紗耶香はこちらに背中を向けた格好で裏木戸から見える庭園を眺めていた。普通の声でも聞こえる位置まで来てから、紗耶香の名前を呼んだ。上下黒のトレーナー姿の紗耶香はゆっくりと振り返った。黒いマスクをしていたが、顔は強張って見えた。
「黒づくめだね」
わたしが言うと、「白づくめやね」と言下に答えた。
紗耶香の言う通り、わたしは白いレースのブラウスに、白の七分丈パンツを穿き、白い不織布マスクをしていた。ちなみに靴は水色のローファーだが、紗耶香は黒いスニーカーを履いていた。
「旅行気分でいたから」
「白が似合うんとちがう。看護師なんやし」
紗耶香の口調は、友好を求めるものではなく、対立を明確に表していた。この紗耶香の態度を見て、わたしの気は楽になった。
「話、あるんちゃうの?」
紗耶香が関西弁でわたしに話す事は殆どない。この言葉の感じも紗耶香流の距離の取り方なのだろう。紗耶香は両手をズボンのポケットに入れていた。わたしはいつもの様に、両手を前で重ね、晋之介のリードを握っていた。
「そうね、日も落ちて暗くなって来ちゃったし、もうはっきり言うね。紗耶香さ、わたしに隠れて春人と会ってた?」
「えっ、何言うてんの?」
「何って、紗耶香の両親がそう言ってたよ。京都に来たんでしょう春人」
わたしと紗耶香の間は2メートルほど離れていたし、薄暗い中だったが、眉の動きや眼差しの変化は、はっきり見えた。
「それ、もう聞いたやろ、この前。ええ加減にしよし」
「えっ、どういう意味」
「惚けんといてよ」
紗耶香は右足を地面に踏みつける様にして地団駄を踏んだ。激高した口振りで、声も高くなっていた。幸い、周囲に人気はなく、人の目を気にする必要はなかった。
「前回、あんたが京都に来た時、真夜中のこの場所で、わたしに同じ質問したやろ。覚えてへんの?」
「待って、わたしが真夜中に?」
「そうや、わたしは会社の打ち合わせで外出してたのに、あんたが真夜中に電話してきて、話したいことがあるさかい、帰って来てって言うたんやんか。この場所を指定したのもあんたやで」
そう叫ぶと、ポケットから出した手で、紗耶香はわたしを指さした。
実際には距離もあり、ありえない話だが、紗耶香の人差し指が目に刺さる様な気がして、わたしは咄嗟に手をかざした。
「なに?」
紗耶香の「指さし」が合図だったのか、裏木戸の奥から男がひとり出て来た。背が高く色黒のその男には見覚えがあった。紗耶香の大学の同級生だ。わたしは思わず会釈をした。
「こんにちは」
男は小声で言うと、「あっ、こんばんはかな?」と頭を掻いたが、わたしと視線を合わせない。
「なに言うてんの?」
呆れ顔の紗耶香に嫌われないか心配そうに、男は目をしばたたせ、背中を曲げて紗耶香の背後に立った。前に出会った時も感じていたが、この男は紗耶香のことが好きなのだ。紗耶香もそれを知っていたが、気づかないふりをしている。その気がないのだ。
「わたしが何を聞いたって?」
紗耶香の言ってることの全ての記憶がなかった。あの夜、紗耶香の家族と夕食をとった後、旅館の部屋で寝ていた。夜中に外出する訳がない。
「惚けてるの?」
「惚けてなんかないよ。ここに来たことはあるけど、それは昼間の話しで、夜中なんかじゃない。第一、夜のお寺は怖いし、いくら晋之介と一緒だっていってもむりだわ」
「どういうこと!」
紗耶香が大きな声を出すと、隣に立つ男は大きな身体を縮めて萎縮した。
その時、紗耶香が「あっ」といって手で口を覆い、悲しげな顔を見せた。紗耶香の視線の先には晋之介がいた。晋之介はお座りをしている状態で背中を曲げ、首を垂れていた。
「ごめん」
紗耶香は首をふりながら泣き出した。
「晋之介、怖かったね、ごめんね」
わたしは晋之介を抱きしめ、震える身体を撫で続けた。辺りが暗闇に包まれると、わたしたちは帰宅することを選択した。
「疲れた」
と紗耶香は言い放ち、その場を後にした。
「待って紗耶香、さっきの話しだけど、メールでもいいし、詳しい内容を送ってくれない。わたしも気になることがあって。もしかしたらその話に繋がっているのかも知れないから」
紗耶香は何も言わず、片手を上げた。その横顔は、さっきよりやつれて見えた。
車に晋之介を乗せた時、遠くから近づいて来る足音を聞きいた。振り返ってみると、足音の主は紗耶香の友人の男だった。
「すんませんね」
男は頭を下げながら走って来て、わたしの前で止まると、膝に両手をおいて腰を曲げた。ほんの少しの距離を走っただけで息切れをしている。
「なにか?」
「あっあの申し遅れました。僕がその、紗耶香の大学時代の同級生で、慎二といいます」
「知ってます。前に会ったことが」
「あー、そうそう覚えてて下さいましたか?」
慎二は曲げた腰を一気に元に戻して笑った。日焼けした顔に白い歯。ひと昔前ならモテただろう。
「それで、なにかご用?」
「すんません。どうしてもお伝えしときたいことがありまして」
「はい」
「紗耶香の右頬の傷のことで」
「紗耶香の右頬の傷、そんな傷ありました」
わたしが疑うと、慎二は自分の右頬の耳のすぐ傍を指さした。
「ここら辺に、切り傷みたいなの」
「見えなかった。最近の傷」
「そうです。それ」
慎二は言葉をためてから、息を吹きだすのと同時にこう言った。
「それ、桜花ちゃんがつけた傷らしいんです」
慎二がいい加減なことを言っている様には思えなかった。出会ったのはこれで2度目だが、真面目さがそこらじゅうに溢れている。脱力したわたしは車のルーフに置いた腕に顔をうずめた。
「桜花ちゃん、本当に記憶がないんだね」
「ええ、全く……」
「あの、桜花ちゃん?」
「なんですか?」
慎二を見ると、身体の手前で絡めた指先を弄びながらもじもじしていた。
「何か?」
「さっき、紗耶香と話したいことがあるって」
「ああ、それね」
実はわたしには以前から不思議に思っている出来事が幾つかあった。例えば紗耶香の旅館で目覚めた時、左手首に筋肉痛のような違和感があり、その痛みは数日後には腕全体に広がった。長時間の運転による影響なのか、それとも当時、職場でパソコンの入力作業をする仕事を多くしていたので、そのせいかと考えた。いまはその痛みは緩和されているが、思い起こせば、過去にも何度か同じ痛みを感じたことがあった。しかしそのことを思い出そうとすると、不快な感情が先に立ち、考えるのをやめてしまう。もし仮に自分が紗耶香を肉体的に傷つけたのなら、あの筋肉痛の様な痛みの原因も納得できる。
「紗耶香の旅館に泊まらせて貰った朝のことなんだけど、手がね、ここからここまで痛くて、筋肉痛のような」
わたしは自分の腕をさわり、慎二に見せた。
「もし、紗耶香の言う通り、わたしが暴行を加えたのなら、その筋肉痛の理由もわかる……」
「僕も驚いて。あの夜、紗耶香から電話があり、酷く泣いてたから、大急ぎでここまで走ってきたのやけれど。ああ、僕の家はこの近所なので」
慎二は身振り手振りを加え、家の方向を指さした。
「5,6分で着いたら、その時、紗耶香はもう泣いてなくて、そやけどブルブル仔犬みたいに震えてて、あの気ぃの強い紗耶香が震えてて、おまけに頬から血が流れてて、事情を聴くのは後にして、いちど僕の家に連れ帰り、車で救急病院まで連れてった。4針くらい縫ったって言ってたかな?あっでも気にしないで、傷は次第に薄れて、いつかは消えるらしいから。話を戻すね。紗耶香、病院の帰りに傷が痛むと文句を言い出して、おまけに腹減ったとか言うから、しゃーないし、近くのファミレスで飯を喰ったのよ。そこで怪我をした理由を聞いたら、そしたらなにも言いたがらず、顔の傷も転んだものだから心配せんといてって。はっきり嘘だとわかっていたけど、本人がそう言うし、話す時期を待とうと思ってたんや」
「それで、真相というか、いつ聞いたのですか?」
「ほんのさっき」
「さっき?」
「桜花と会うことになったし、怖いからボディーガードになってくれって」
「それで、わたしが暴力を振るったと聞いた」
「うん。嘘を言ってるとは思えなかった。ごめん」
慎二は深々と頭を下げた。そして人の好い笑顔を見せると、紗耶香と仲直りして欲しいと何度も懇願し、帰って行った。
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