第23話 お犬様と新幹線

どうにか昼前には新幹線に駆け込めた。いつもは事前に指定席を取るが、急なことだったので、車内で指定席券を買うことにした。コロナ禍なので、きっと空いているだろうから大丈夫だろうと。その思惑は哀しい程、当たってしまった。新幹線はガラガラで、指定席どころか、自由席も空いていた。

「ここでいいか」

晋之介はカートの中にいる。ジッパー式でフードを被せるので、車内に持ち込めるのだ。晋之介はカートに乗るのを相当嫌がったが、宥めすかし、最後はおやつで釣ってむりやりカートに閉じ込めた。いつもは晋之介の指定席代も用意しなければならないのだが、自由席なのでペット持ち込み料金だけで済んだ。

2人掛けの窓際に晋之介入りカートを設置すると、彼は不服そうにわたしを見上げた。ジッパーを少しだけ下げ、手だけを入れて晋之介を撫でた。ペットボトル式の水を確認したが、飲んでいないようだった。元気がないのかと心配になり、おやつの袋を探ると、カサカサ音を察知した晋之介は立ち上がり、大きく伸びをしてわたしの指先にあるクッキーを凝視した。

「元気で良かったよ。京都駅に着いたらレンタカーを借りるから近くの広場で遊んで、それから間人たいざに行こうね。宿も予約したしね」

間人温泉、結婚前に春人と行った、思い出の場所である。


「年に一度は、この旅館に来ようね」

未だ寒い4月、海に沈む夕日をふたりで眺めていた。旅館の前の道路に面した堤防から見る日本海がどこか虚しいのは、演歌と、母が良く見ていた2時間サスペンスのイメージが大きいからだろうか。しかし春人が横にいるだけで、その印象は一変した。春人の底抜けの明るさは、ただそこにいるだけで、周囲の人を魅了する。生まれながらの人徳を、彼は備えていた。

「またここに来よう」という春人の言葉が実現することはなかった。お互いに仕事が忙しく、普段の生活でさえ、すれ違いが多いのに、旅行なんて叶う筈もない。勿論、わたしたちは長い人生を描いていた。この先の何十年も一緒にいるのだからと、わざわざ急ぐ必要はない。少なくともわたしはそう思っていた。春人はどうだったのだろう。亡くなる半年程前だったか、家の中がとても嫌な雰囲気になったことがある。決して悪態をつく訳ではない。互いに不満も口にせず、ただそこにいるだけなのに相手を受け入れない威圧的な空気を漂わせた。その時ばかりは、職場に出掛けるのが楽だと感じた。意識的に春人を避けていたのだろうか。その頃のある晩、深夜に帰宅したわたしは、そっと寝室を開けてみた。春人は起きていると思っていた。帰宅時に、家の窓を見上げたら電気がついていたからだ。それもリビングの電気である。そろそろ仲直りがしたくて、早足で玄関のドアを開けたが、その時、奥の部屋のドアが閉まる音が聞こえた。布団に入るのだと思い、足音を立てずに廊下を歩き、寝室の扉をそっと開けた。照明は落とされていたが、月の明かりに照らされた春人の横顔が浮かんだ。春人は、わたしの枕がある方とは反対側を向いて横向きになっていた。眠っているのに、決して近寄ってはいけない雰囲気を春人から感じる。

「嫌われた」そう思った。ほんの数秒で寝入る筈もなく、わたしが帰宅したのを知って寝たふりをしたのは明らかだった。その証拠に、リビングのテレビと電気がついていた。お粗末だ。

わたしはその夜をきっかけにソファアで寝ることにしたが、春人が朝まで帰って来ない日が続いたので、わたしの抵抗は意味を持たなかった。

いま思い出しても、あの時、一体、何のことで怒っていたのかもわからない。仲直りの切欠を見つけた後も、その話題に触れたことはない。傷が深くならない様に、わたしたちは互いの心を隠蔽した。わだかまりは消えていないのに、次第に日常を取りも戻すことは叶ったのだが、喧嘩の前とは、どこか違った。早くあの日に戻りたい。そう思っていたのは、実はわたしだけなのかも知れない。春人の闇はあれから深まった。思い返すと、明らかな変化が春人にはあった。どうして気づいてあげられなかったのだろう。

「人殺し」と、夫の葬儀の場で春人の母親に罵られ、言葉を詰まらせてうつむくことしか出来なかった自分は、人殺しを自覚していたからなのかも知れない。

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