妻、再生 【一話完結】

大枝 岳志

妻、再生

 連れ添って四十年になる最愛の妻が、先日死んだ。

 癌だと判明してからは実に呆気ないもので、齢七十を越えた今になって、命の残酷さをまじまじとこの心で実感した。


 おかげで、私の日常はガラリと変わった。妻のいない部屋。音のしない台所。風呂から上がり、おーいと思わず声を掛ける瞬間に、私は毎度胸の奥にたまらない痛みを感じた。


 もぬけの殻のような日常を過ごしていたある日、私は近所に出来たばかりの「酒井商店」という雑貨屋へ足を運んでみた。


 たまの気分転換にでもなれば良い、そう思いながら古びた貸し店舗の薄暗い店内をそっと覗いてみた。店内は鍋やゲーム機、古本、何に使うかも不明なガラクタが天井につきそうな勢いで積まれていた。

 引き戸を開けて中へ入ると、キャップを逆さに被った吊り目の男が無愛想な声で私を出迎えた。


「いらっしゃーい」


 店主だろうか。歳はまだ三十半ば、といった所か。細面の鼻の下にヒゲを蓄えている。お洒落で生やしている、というよりも伸ばしたまま、といった印象を受ける。


 物で溢れ、埃の舞う雑多な店内をぐるりと見渡していると、棚に置かれたあるモノにこの目が食い付いた。その途端、私は私の心臓が激しく波打つのを感じた。


「あ、あの! これは売り物ですか!?」


 それを手に取り、店の奥の店主に声を掛けると、彼は思いの外優しげな眼差しと声でこう答えた。


「あー、命の素ですよね? もちろん、売り物ですよ。どなたか再生されますか?」

「…………妻を、妻を再生させたいのです」

「奥さんを亡くされたんですねー。辛いですよね、僕も昔ね、子供を亡くしたんですよ」

「お子さんを……? その、再生はされたのですか?」

「いいえ。しませんでしたよ」

「それは……何故ですか?」

「いやぁ。僕の子じゃなかったんで」


 そう言って笑った彼の姿に、私は大きな安堵を覚えた。あけすけに自分を語るこの男は、信用に足りる。

 私は命の素を手に、急いで自宅へ帰った。


 台所に大きめのバットを敷き、その上に妻の髪の毛を数本並べる。水を三十cc注いで、その中へゆっくりと粉末状の命の素を振りかけた。

 このまま動かさず、薄暗い環境で小さな灯りを当て続ければおよそ一週間で芽が出るのだと説明書には書かれていた。

 私はその言葉を信じることにした。


 それから一週間が立った。


 妻の髪の毛はグズグズに崩れ、親指大ほどの黒い塊になり始めていた。

 これが正解なのか否か、私は分からなかったがとにかく様子を見続けてみる事にした。


 さらに二週間後。


 親指大ほどの黒い塊だったものは、四cm幅ほどの茶色いヘドロにまで成長していた。これを成長と言うのが果たして正しいのかは不明だが、私はこのヘドロが妻の欠片なのだと信じる事が出来た。

 日中は台所を薄暗くしてスタンドライトを当て続けているのだが、ライトの向きを変えるとそのヘドロはゆっくりと動き出すのであった。

 私は、目に涙を滲ませながらその光景を眺めていた。


 さらに二ヶ月が経った。


 台所のバッドの中では三十cm大の茶色いゼリー状の物体が出来上がっている。

 そのゼリー状の物体を見詰めてみると、目玉がひとつ、そして小さな口が出来上がっているのが見て取れた。

 私が目玉を見下ろしながら右や左に動けば、目玉もゼリーの中でその視線を動かし続けている。


 三ヵ月後。


 五十cm大のゼリー状の物体には所々、毛が生え始めている。

 口も完全に出来上がり、歯は無いものの水を与えればそれを飲むようにもなった。相変わらず目はひとつのままで私を見詰めている。

 ゼリー状の物体は時々、不要な水分をバッドの中に垂れ流すようになった。その際はまるで赤子のような鳴き声を漏らすので、思わず私は抱き締めたくなった。 


 寒暖差の大きい季節のせいか、昼夜問わず赤子のような声で鳴くようになった。

 あまりにもその鳴き声がうるさいので、近所の者に何か言われるかもしれないと感じ始めた。


 家の前を掃除していると、案の定世話好きの隣の家の主人に声を掛けられた。


「いやぁ、最近はお孫さんがよく遊びに来られておるんですかな? 子供の泣き声が聞こえて来ると、なんだか自然と嬉しくなりますなぁ」


 つまり、うるさいと言いたいのだろう。私は頭を下げながら、こんなことを言ってみた。


「いや、あれは猿なのですよ」

「猿、ですか?」

「ええ。なんでもアフリカの、ヤンケルテバナザルとか言う新種の猿で、学者の悪友から預かってくれと頼まれましてね。あぁいう泣き方をするのが珍しく、研究対象なんだそうですよ。おかげで世話が焼けて大変です」


 隣の主人は「そうですか」とか抜かしながら、それ以上は何も言えずに家の中へと入っていってしまった。


 これでいいのだ。


 最愛の妻の鳴き声を、私は人にとやかく言われる筋合いはないのだから。


 五ヶ月目。


 ぶよぶよだったヘドロはある程度の硬さを保ちながら、鳴き声を上げることをしなくなった。

 その代わり、ひとつ目を動かしながら、人のように出来上がった口をパクパクと動かして何かを伝えよう、という意思を私に感じさせてくれるようになったのだ。


 私は妻を愛でていた頃の記憶を遠慮なく反芻しながら、その物体から生えた長い髪を撫でるのが日課となった。

 撫でているうちに生涯大人しかった妻の記憶が際限なく思い出され、私は時折涙すら流した。

 妻は私を信じ、また私も妻を信じていた。

 病に倒れ、意識を失くし掛けた最期の瞬間。妻は私の名前を呼んでいた。

 口をパクパクと、三文字。必死に私の名を呼ぼうとしていたのだ。


 こうやってまた二人の静かな時間が帰ってきたと思うと、私はたまらない気分になった。過去ではなく、今という時間を愛しく感じ始めていたのだ。


 それから、妻になり掛けている物体が声のようなものを発するようになった。


「ア……アー、アー……」


 その声を耳にした途端、私は猛烈に押し寄せた感情の波に飲まれ、止め処なく涙を落とした。

 間違うはずも無かった。それは何度も何度も追い求めていた、亡くなったはずの妻の声だった。


 たまらなくなって私が髪の毛を撫でていると、声の輪郭が段々とはっきりして来るのが分かった。


「イ、オ、イア、アイ、イエーウ」

「恵子……恵子! 私だ、私が分かるのか!? 私の名を呼びたいんだろう!? さぁ、呼んでくれ、せいいっぱい、呼んでくれ!」

「イ、オ、イ、アン」

「そうだ、そう、ゆっくりでいいぞ。大丈夫だ。私はここにいる。さぁ、ゆっくりでいい。ヒ、ロ、シさん、と……いつものように呼んでくれ……さぁ」

「イ、オ、イ! アン」

「いいぞ、いいぞ! 私はここにいるからな、恵子……愛しい、恵子」


 すると、妻に成り掛けた物体は突然叫び声を上げ、ハッキリとこう言ったのだ。


「キヨシ、サン! アイシテル! キヨシ、サン! アイシテル!」


 私は、そう叫び続ける物体を見下ろしながら、力を込めてバットを持ち上げ、台所のシンクに向かって放り投げた。

 妻に成り掛けていた物体の形はシンクの中で呆気なく崩れ、私の名ではない名を呼び続ける舌は、シンクの中で釣り上げられた魚のように跳ね回っていた。

 スタンドライトの灯かりを反射しながらビチビチと跳ね続ける舌に、私は熱湯を掛けた。三秒も経たない内に舌は跳ねるのを止め、そうして、二度と動かなくなった。


 それからしばらくお湯を流しっぱなしにしていると、舌と目玉をひとつだけ残し、妻に成り掛けていた物体は跡形もなく消え去った。


 キヨシ、サン。


 それは隣家の主人の名前だった。妻が最期に呼ぼうとしていたのは、私の名ではなかったのだ。


 私は台所の棚から、妻が日頃よく研いでいた包丁を一本取り出した。

 手元を動かしてみると、包丁はまるで興奮を抑え切れない若者のように、スタンドライトの光をぎらぎらと反射した。

 早く切りたくてたまらない、と聞こえた気がしたので、私はその声の言う通りにすることに決めた。

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