第2話 そこにあった悲嘆

 殺人を犯した彼女が、まず行うべきことは大淀のズボンの後ろポケットから、新型のスマートフォンを引き出すことだった。

 御首をあげる武士の如く、大淀の頭髪をつりあげて、携帯でそりあがった顔を映す。パスコードの機密性と利便性を兼ね備えたはずのフェイスIDは、恐怖で白目に剥いた眼や、力なく垂れた下顎をみても、その生死を判別できない。

 計画どおり、彼のアカウントからウバーイーツを呼び出し、決めていたメニューの配送依頼を送信する。場所は大淀のアパート。支払いは現金払い。これでアリバイは堅牢なものになる。だが、手抜かりはないよう、事前準備の際に彼のアパートから盗み出したベッドシーツを、彼の頭部に敷いておく。血はベージュの起毛のあいだに滴り、赤くろく広がっていく。こうした下準備が真実を覆い隠していく。

 大淀伸也は、自宅のアパートで強盗によって殺される。

 今より遅く、わたしの配信が終わったあとに――。


 大淀伸也に出逢ったのは、Vチューバーを始めて半年が経った頃だった。

 菊池は個人配信者として、当然のことながら伸び悩んでいた。Vチューバーの黎明期と言われた一七年後半から、コロナ特需とも呼べる二十年をすぎて、いまや大手プロダクションや以前から知名度のあった人物でなければ、一向に見向きもされない爛熟期に、なんの後ろ盾もなく、興味と憧れに押し出されて突発的に始めたせいもあって、登録者は三百人にも満たず、ライブ配信をはじめても、視聴者数が五、六人が関の山だった。

 そんなことが何ヶ月も続いていた或るとき、何気ない呟きがバズったのを切っ掛けに、登録者が一昼夜で千人を越え、めくるめく奇跡に喜びの声をあげると、それを後押しするようにツイートが共有されて、さらに登録者が伸びてきた。――そんなときだ、DMにひとりの人物から連絡が来た。

『始めまして。弊社は動画配信業に関して、機材トラブルや配信企画などのコンサルタント業務を執り行っております、ダイナーコーポレーションと申します。以前から茶斑アリスさんの配信を、いちリスナーとして楽しんでおりまして、今回是非とも御社が茶斑アリスさんにお力添えできないかと思いまして連絡させて頂きました――』

 いまでもコンサルタントやアドバイザーと名乗る勧誘が来るが、このときは始めてで、こと企業勢と呼ばれるタレント達に憧れていたこともあって、企業という言葉に弱かった。DM主が並び立てた経歴には、多くのVチューバー企業の名前が燦然と輝いて、そんな相手の眼に、自分がとまったことが喜ばしく、安直に返信をしてしまった。

 ――好事魔多し。

 もし過去に戻れるなら、二の腕に彫りたい言葉であった。


「――それじゃあ、おつにゃー」

 蓋絵で閉じ、配信終了ボタンを押す。時刻はぴったり零時――。

 リスナーたちは、茶斑アリスとして配信している彼女の足元に、男の死体がうつ伏せで転がったままであることなど知る由もない。おつにゃー、とコメントを送って、一時の別れを惜しんでいる。――彼女はそれを慈しむように眺めた後、作業を開始した。

 死体の出血が止まったのを確認すると、菊池は大淀の頭部をビニールで包み、台車の上においてある、口のひらいた桁付き機材搬入用の大きい段ボールの側面に寝転ばせ、両口をガムテープで閉じた。

 部屋には台車に乗った、段ボールの棺桶が鎮座した。

 彼女はそれを横目に着替えを始めた。上下をアディダスの黒のスエットでそろえ、灰色のナイロンマスクで顔をかくす。

 有り難いことに、エレベーターのカメラは故障中らしく、一階におりて裏口から駐車場にでた。駐車場は屋外で、他人の視線を浴びる危険性もあったが、周囲のビル陰によって暗闇が隅でうずくまっている。彼女が用意していた車は、その闇の吹き溜まりにあった。

 機材の搬入で一晩使わせて欲しいと知人に借りておいた乗用車の後部座席に段ボールを積み込もうとするが、如何せん、細身とはいえ大の大人は重い。車のステップに段ボールを斜めに横たえ、それを背負うように背をつけて、肩と背中の力で押し込んでようやく積み込みが完了した。菊池は台車を助手席に入れこみ、失念したことがないことを確認すると素早く運転席に座り、イグニッションキーを差し込んで、死体の搬送を開始した。


 思い返せば、危険信号はあった。

 コロナの感染者が減ってきたとはいえ、担当者の大淀は外で会いたがった。その理由を彼自身は、面と向かって熱意を伝えたいだとか、一度は面通しをしておいたほうがこちらも安心だとか、会う根拠としては精神論に傾きがちなきらいがあった。正しき論理は文面でもそれと分かるが、邪な理屈はそれと悟られないように、思案の暇を与えないほど夥しい夾雑物を面と向かって投げつける必要がある。

「お待たせして申し訳ありません。菊池さん」

 最寄りの駅ちかくの喫茶店で会うことになって、大淀は五分おくれてやって来た。

 ノーネクタイのカジュアルスーツにボーダーの薄い碧のシャツを着て、スマホ越しに誰かと親しげに話しながら訪れた時、彼が他の仕事にもせっつかれている、ひどく有能な人物に思えた。大淀もそう見せるように、

「ちょっと前のひとがね」

 と、苦笑気味にわらった。年齢は同年代のようで、髪はジェルワックスで、ゆるやかなパーマ髪を丹念につまんでととのえ、カーブさせている。

「何か食べた? おれ、また食べてなくて。ちょっと注文してきていい?」

 気安い口吻も、緊張を与えない気楽な口ぶりととってしまった。この時点で、すでに大淀の目論見の大半は完了していたと云えるだろう。かれはカルボナーラを食べきると、矢継ぎ早に自分のコンサルティング計画について話し始めた。

 専門的な語彙と度々挟まる精神論。

 こちらに話しを差し向けるときは、つねに熱意や将来の展望の確認で、それに一言、二言こたえると、「それを確認したかったんだ」「そういう熱意がないとやっていけない。それが菊池さんにはある」と、傍から聞いていれば、あまりにも稚拙で、典型的なマルチ商法のやり口だった。

 そしてこういう、中身の薄さを言葉の濁流で押し込むような目眩ましは、たいした展望も熱意もない人間に良く効いた。

 もし昨日の自分に殺したい人物がいるか? と訊かれたなら、第一は今夜殺した大淀伸也であっただろうが、第二位は猿でも掛からない愚かな罠にとびついた、あまりにも無知蒙昧な自分であった。


 環状線の下を、黙々と車を走らせて暫く。

 いくつかの枝道に入りこみ、反射帯がなければ、人と自転車も、その輪郭さえとらえられないほど狭く、暗い一方通行の道沿いに大淀のアパートはあった。

 路上に車をとめ、すばやく台車に死体の段ボールをのせる。

 大淀のアパートは二階建ての安アパートで右の道路と左のマンションの小さな隙間に、ブロックを差し込むような形で建っている。部屋の窓は道路をむき、彼の部屋は一階の角部屋だった。

「不気味だけど、有り難い」

 うなぎの寝床のような奥まった通路は奥の壁を覗けないほどに暗い。灯りすら点いていないボロ屋だが、それに加えて、二階の通路が一階の庇となり、よこのマンションとの境界を仕切るブロック塀が月光さえ弾き返している。

 部屋の扉は施錠されておらず、菊池はするりと台車を玄関に入れ込んだ。

「・・・・・・よし」

 玄関から冷めた天津飯と唐揚げの匂いが立ちのぼっていた。配達されて一時間ほど経過しているだろうか。ウーバーイーツの店員の置き配は計画どおり、三和土の先の廊下におかれている。

 配達員がどのような容姿年齢かは知らないが、そこに置いたのなら、当然、そこに置かれていた現金を回収しただろうし、その先で寝転がっている人影を目撃したに違いない。

 部屋は1Kの狭いアパートで、長い廊下の先に六畳ばかりのフロアがある。

 そこにマットレスの上に身体を伏せて、掛け布団をかけて、四肢を伸ばすひとりの男。

 そこに『大淀伸也』は眠っていた。


「ちょっとそこまで来たから」

 大淀伸也はそういって、たびたび菊池のマンションに訪れるようになった。

 流石の菊池も、次第に大淀伸也につよい懐疑心を覚え始めていた。こうして親切の押し売りの如く会いに来ることもさることながら、彼の云うコンサルティングというのが、あまりにも不透明で、なんら活動の足しにならなかったのだ。

 相談会と称して会うのだが、その大半は雑談に占められ、その雑談もVチューバー市場に関するものではなく、時事問題をえらく権威高に論駁することに終始して、一向に本題に入る気配がない。

 ようやく本題に入ったかと思えば、活動始めたての菊池でも分かるような、周辺のネット記事を拾い集めて語るような底の浅いものばかりで、ためしに機材に関するレクチャーを求めると、それは自分の担当じゃないと言ってのける。――にも拘わらず、月に三万の相談料を請求することだけは、けっして手抜かりはなかった。

 アルバイトをふたつ掛け持ちしながら、一方で二種教員免許を取ろうと奮闘している最中に、更に茶斑アリスとして活動している菊池にとって、三万円という大金を遊ばせている余裕はなかった。

 にも拘わらず、それを少なくとも四ヶ月、律儀に手渡しで払い続けていた理由は、大淀が度々持ち出す大手事務所の口だった。

「あの事務所は結構自由な気風でね。来月には3Dスタジオを新宿に構えるって話」

 大淀はそれがどれほど凄いもので、なおかつ資金調達を担っている所属ライバーがどれほど才知あふれる人物で、菊池もそのひとりになれるのだと、さんざん焦らしていた。

「あの、大淀さん。それで、オーディションの件なんですけど」

 おずおずと切り出すと、とたんに彼は口を尖らせる。

「云ってるでしょ。今じゃないって」

「でも、もう三ヶ月も」

「だからさあ、あっちは最大手なんだから、もうデビュー予定の子で半年は埋まってんの。それにねじ込むってんだから、かなりの根回しが必要な訳よ? 分かってる?」

「ええ。ですが――」

「はい、それ。そのですがってのなし。そういう菊池さんのネガティブなところ、おれ嫌いだな」

「・・・・・・すいません。ですが」

 大淀はこれみよがしに舌打ちをする。

「なに? なんなの。云いたいことがあるなら、ちゃんと云ってくれない?」

 菊池は謝罪を口にする。

 彼と出逢って何度、意味をなさない謝罪を重ねただろう。話している内容も理解しようとすればするほど泥濘にはまる。とりとめのないものばかりで、つかみどころがないというより、つかむべき取っ掛かりすら、つぎの瞬間にはなかったことになっている。

(このままでは駄目だ)

 菊池は意を決した。

「あの!」

 おもわず出した声のために、それは大きくなる。酔眼のように眼をほそめて、ひとをなじることに余念のない大淀も、これには眼を丸くして言葉をのんだ。

「契約を終えたいと思います」

 契約といって、心の中で失笑がもれた。かれは契約や信義則を口にしたが、一向にまっとうな書面を出したこともない。

「は、なんで?」

 大淀は眼をほそめ、やや顔の輪郭を引き締めた。彼が嘲笑と怒鳴りを発するとき、その予兆はいつだって顔に出た。――それが菊池の意思を、わるい方向に歪ませた。支配されていた子羊が、すぐさま狼に変わることなど、万に一つもないのだ。並べたてれば切りがない不満の数々を述べるつもりだった菊池の心胆は、みるみるうちに干した杏子のように縮こまっていった。

「その、お金が厳しくて」

「は? 所属、もうすぐだよ。あと少しなのにチャンスを棒に振るの? は、俺にはまったく意味が分からないね。そもそも何がしたいの、君?」

 ――そもそも、そもそも、ぎゃくに、ぎゃくに。

 大淀と関わるようになって、嫌いになっていった空虚な言葉たち。

 それに対して返す言葉は侮蔑の唾であるべきなのに、いつだって口から洩れるのは謝罪だった。

 謝って、謝って、謝り続ければ、この誤りから脱することができるかもしれない。そういう浅はかな認識が菊池にあった。だから急に黙りこくり始めた大淀の次なる罠に気づくことができなかった。

「・・・・・・・・ちょっと離席するよ」

 彼はそう云って、喫茶店の外にでると植え込みを囲む縁石に腰をおろした。誰かに電話しているらしい。会社のひとだろうか。急に担当していた顧客が下りると言い出したことに、本部と対策を練っているのか。あるいは違約金の話しだろうか。

 延々と悪いビジョンが浮かんでは、暗雲がとぐろまくようにして脳天に自罰的な感傷の雨を降らしていく。いまの菊池なら分かる。これは心裡的駆け引きだ。内向的な人間は、一度距離をあけて自問させることで、相手の欠点より自分の不手際を数えてしまう。世の中に早々、10・0でこちらが無過失な事など稀だ。だが菊池のような思考に陥った人間は、無過失以外の出来事は、たとえ過失が一でもあれば、相手に同情をよせて、自分に非難の矛先を向けたがる傾向にある。

 他人を傷つけたことを過度に怖れる。

 生きていれば、誰しもが誰かを傷つけることを認めず、それが誰にも嫌われたくないという幼いエゴイズムだと自覚しない故に、ここでも彼女は大淀に隷属されることになった。――いくつも想定していた状況より、もっと俗悪な形で。

「電話してきた」

 席にもどってきた大淀は、開口一番にそう云った。

「・・・・・・はい」

「どこだと思う」

「会社、ですか」

「うん。でもウチの会社じゃない。掛けたのは――」

「え?」

 耳をうたがった。彼がだした名前は、菊池が憧れているタレントが数多く所属している大手事務所だった。

「ことわりをいれてきた。予定してたライバー枠、取り消すように」

「え、そんな」

「おれ云ったよね? あそこにお願いしてるって」

 聞き分けのない子どもを詰問する親の如く、重々しい声色でいう。

「あっちも期待してたのに。止めるって云うから、おれ、このあと謝りに行かなきゃなんないし。うちも信頼でやってるから、かなりの打撃受けてるの、菊池さん分かる?」

「え、でも、それ、そんな」

「――嘘だと思ってたでしょ?」

 席には飛沫防止のアクリル板が挟まっているが、それに顔を擦り付けるように、彼は身体を前のめりにして、心を読んだような言葉を吐く。

「嘘じゃないから。おれ、本気で菊池さんを押し上げようとしたんだよ?」

「あの、わたし、そんなことだと、おもわなくて」

「だから、俺を見くびってた?」

 大淀は鼻でわらい、席を立った。

「じゃ、お望みどおり、契約は終了と云うことで」

「――待って下さい!」

 今思えば、この言葉こそ、大淀が出逢ってこの方、もっとも求めていた一言だっただろう。彼はあれほど落ち着きがなく、忙しなく動かしていた身体を、目一杯どんじゅうに捻って、「なに?」という。

「わたし、頑張りますから。ですから――」

「でも、お金、ないんでしょ?」

「それなら――」

「それならさ」

 大淀は被せるようにいう。

 気づけば、彼は隣に立ち、雁字搦めにした蝶を撫でるように、その手をこちらの手の甲に重ねた。

「良い方法があるんだけど」

 

 この世は全く満ち足りていない。

 菊池は寝転がっている『大淀伸也』の掛け布団を剥いだ。

 そこには切り離されたマネキンの四肢と頭部、そして胴体のかわりに簀巻きにされた毛布がある。

 菊池はそれを脇によせて、シーツの上に、自宅から運んだ血のついた掛け布団を敷き、段ボールから引き出した大淀伸也を、偽の『大淀伸也』と同じ形に寝転ばせた。

 昔、女だてらに運送のバイトをしていたこともあって、段ボールの片付けは早々と終わり、台車も車輪の音がしないように折り畳んだ。――あとは、これが強盗による殺人に見立てるため、犯行につかったトンカチを死体の脇において、道路側の窓の鍵を静かにあけた。

 できることなら、強盗の犯行と見立てるために、ここにある大淀の遺品たちを微塵に破壊しつくして、血文字で罵声の数々を書き殴りたかった。

 ここは、菊池がこの世でもっとも厭う場所。

 地獄のひとや。無知と汚辱と、そして復讐による殺人現場。

「ああ、まったくの嘘ね」

 菊池は独りごちた。

 復讐を遂げたにも拘わらず、こころの汚泥は拭えなかった。

 怒りはまだ熾火のようにくすぶり、たえず大淀の人格を滅多打ちにしたいと叫ぶ。

「もしも願いが叶うなら・・・・・・」

 すべての仕事を終えて、車に乗り込んだ菊池は云う。

「もう一度、ヤツを殺してやりたかった」

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