配信詐業

織部泰助

第1話 たった十分の空白

 コチ、コチと――。

 秒針が時間を噛む。

 耳障りなのは壁に掛けられた時計ばかりじゃない。

 夜陰にはしる車。誰かが乱雑にドアを閉めた音。耳腔で渦巻く血流の耳鳴り――。普段気にしなかった些末事が、今日ばかりはいやに鮮明になる。まるでカーテンコール直前の、静寂を破るしわぶきに似て、些細な音に眼を眇めたくなる神経質な感覚。

 当然だろう。

 人生で最も最悪な瞬間が、訪れを待っている。

 刻一刻と弥増す不安を目前にして、菊池雅美きくちまさみに出来ることといえば、いつものようにゲーム機とオーディオキャプチャーをHDMIケーブルでつなぎ、Open Broadcaster Software――通称OBSを立ち上げることぐらいだった。

 キャプチャ画面には、茶虎毛の猫耳をつけた愛らしい少女が、かすかに肩を上下して、命が吹き込まれるのを待っている。

 可愛い少女。

 可愛いアタシ。

 ライブ2Dは正常に起動して、スマートフォンのフェイスキャプチャから顔の変化を読み取り、瞬きをして、口をもごつかせ、身体を左右に揺する。

「あ、い、う、え、あ、あお。か、き、く、け、こ、かこ」

 声をうわずらせて、高い声に調整する。

 ひとによっては様々な調整の仕方があると聞くが、菊池はギターのネックを絞るように喉に心地よい過負荷をかけていくのが常だった。少しずつ菊池雅美から茶斑アリアになっていく。書き割りに過ぎない絵が、自分を肯定する一要素になっていく。

 演じるとは又違う、まるで愛着ある衣服を纏う感覚。愛しい服、自分を隠さず、されど暴かれることない貴重な装飾――それを汚し、剥ぎ取ろうとする悪意が、菊池のもとに迫りつつある。

 ディスコードを立ち上げ、大淀伸也おおよどしんやのトークルームを確認する。以前に介された会話は二ヶ月前。それ以降は履歴の残らないSNSを介している。陰湿で、それでいて狡猾な大淀は、けっして自分の手垢を残さない。証拠を一切残さず、直接その邪な意思を伝達する。

 一ヶ月前、意を決して警察署に駈け込んだ際、なんら被害を証明する証拠がないから請け合えないと一顧だにしなかった生活安全課の署員の、その木で鼻を括った態度を前にして、ようやく大淀の思惑に気づいた。

 自分のなんと愚かなことだろう。

 しかし、いまに見ていろ大淀伸也。

 貴様は狡知に長けた陰獣そのものだが、それが後の仇になるのだ。――暗然とした意思に細められた菊池の眼は、奇しくも描画されたアリアの双眸にも、ヒリつくような鋭い眼光となって現れていた。


 今晩の配信は、つつがなく始まった。

 四方を吸音材で囲まれた一畳にも満たない個室で、彼女は世界と交信する。

 今日の配信はゲーム配信で、メジャーなFPSシューティングのゲーム内ランキングをあげるために腕を磨いていく。画面内の戦果に一喜一憂しながら、コメントビューにながれていくリスナー達の反応に答え、ときにチャチャをいれつつ過ごしていた。

 幸福だった。

 日々に膿んでいた昔の顔が、解像度をおとし、とおい記憶となって褪色していく。何の古典だったか。目頭をあつくする感傷に呼応して、出典の判然としない名句が浮かんだ。

「留まれ、お前はいかにも美しい」

 不意にもれた声に、コメント欄のリスナーが沸き立つ。驚きの感嘆符をつけるもの。短文で困惑を示す者。最初はそのようなコメントが訪れ、ついで自らの見識をほこるように著者と作品名を書き込まれ、真に通じている人は翻者と出版社まで言い当てようとする。

 反応は濁流のように堰を切って流れ出す。それをいなしながら配信実況の態にもどしていくのも、配信者の腕の見せ所だった。

「いやー、急に思い出して。ファウスト? へー聞いたことあるかも。何人? え、あーこれ作品名なんだ。うわ、恥ずかしい。書いた人は? それが皆が言ってるゲーテって人なんだ。へー。で、何人?」

 反応と対話。配信の時間的なラグで、会話のようなスムーズなキャッチボールは出来ないが、それでも満たされていくものがあった。

 だがそれも玄関のチャイムがいやらしく鳴るまでだった。

 心拍のリズムが不愉快に跳ねる。彼女が住んでいるのはオートロックマンションで、グランドフロアに来訪者用のチャイムが別途ついている。それを介さず部屋のチャイムが鳴ると云うことは、喜ばしい来訪者ではない。

「ごめん一寸離席するね」

 音声をミュートに切り替え、画面上のアリスも退席したかのように画面外まで移動させる。

 それは不規則なリズムにのせてドアを叩く。扉越しに聞こえるのは大音量で垂れ流される耳馴染みのあるメロディ。――わたしの配信を垂れ流しているBGM。

「お、いい部屋住んでんじゃん」

 扉をあけると開口一番、大淀は身体をすべりこませてきた。

 人間には、見ただけで眼をすがめる邪悪な人がいるが、大淀伸也という男はその最たる例で、ほそい眼はいつだって人の劣った部分を捜しだそうとキョロキョロとして落ち着きがなく、近くにいれば周囲の空気を汚さないではいられない黴菌のような男だった。

 大淀は断りもなくリビングに侵入する。その汗染みの浮かんだ黒いシャツの背中をみつめて、菊池はある日の悍ましい地獄を思い出した。

 屈辱と悲嘆の夜。尊厳を踏みにじられた幾多の行為。

 当時の彼女が甦ったように、喉をかりて、躁病めいた悲鳴を叫び上げそうになった。

 それをぐっと抑えたのは、魂の奥底から滲みだしてくる冷たい殺意に他ならず、それを執行する時間も極めてかぎられていた。

「こっちが配信部屋?」

 リビング手前の右隅にぬっと立つ、灰色の衝立で囲った公衆電話のような一劃に、無断にも手をさしいれて覗く。

「このコンポーザー、辞めた方がいいって云ったじゃん」

「入らないで。配信中なので」

 慌てた声をだしつつ、後ろ背にかくしてたトンカチを右手で抜き出す。

 わざわざ配信中にやってきたのなら、配信部屋を覗くのも見え透いていた。他人を動揺させようとする、いやらしい示威行為の機会を彼が逃すわけがない。

「大丈夫だって。これミュートにしてるでしょ」

 にたにたと笑う。防音室に入って更に増長した彼は携帯を介したフェイスキャプチャに、じぶんを反映させようとする。

「どうもー。アリアですー。どう似て――」

 言い切る前に、その愚かな脳天に金槌を振り下ろした。わたしの聖域と知りながら、嘲笑をこめて踏みこんだ無作法者を殺す一撃は、しかし、咄嗟に振り返ったかれの右こめかみを縦に削るにとどまった。

 大淀は配信用のピンクのゲーミングチェアーにもたれ掛かるように倒れた。

 陸に揚げられた深海魚のように目玉を大きくかっぴろげ、痛みの最中に成されんとする兇行を理解出来ず、茫然とながめている

 殺し損ねた菊池にとってまたとないチャンスだったが、彼女もまた彫像と化していた。トンカチを介して伝わった肉と骨との感触があまりにも生々しく、強い忌諱感として全身に鳥肌を立たせた。

 両者の凄まじい双眸が、わずか一畳に満たない距離で、見つめ合い、そして弾けた。

 最初に動いたのは大淀だった。

 死に直面した動物の異常なまでの瞬発力と凶暴性は菊池の頭を掴むにいたり、PCデスクに身体を抑え込んだ。

 左目がとらえた大淀の表情は、病的な痙笑を浮かべていた。それが次第に好色的な色をおびてきたのは、配信部屋という壁に囲われた、音のひびかない狭い空間に、おさえつけた女が自分の股ぐらに尻をむけている扇情的な光景ゆえだろう。いま彼の脳内を占めつつあるのは、殺人行為を働こうとした女に対する懲罰としての強姦であり、淫欲を貪る免罪符を得たという興奮だろう。

 菊池にもそれが十全にわかった。怖気というには凄まじい寒気が身を突き刺す。

 だが、一方で彼女は冷静だった。或いは大淀がここぞという時に発した人の道にもとる振る舞いによって、冷酷無比な感情が、凄まじい速さで彼女の魂に涵養されたというべきだろう。

 涎を垂らさんばかりの大淀を前に、しずかに右脚の爪先で防音室を閉じる。

 そして肩の力をぬいて、あきらめて恭順したかに見せた次の瞬間、右手にもった鈍器で振り向きザマに殴りつけた。

 にぶい音は、後頭部の底を確かに砕いた音だった。

 感触は一度目とは異なる痛烈な、死の手触りがあった。大淀は脳震盪を起こしたボクサーのようにふらつき、そして防音室を押し開くようにして、うつ伏せに転倒した。そこへ彼女は馬乗りになり、駄目押しの痛撃を、後頭部めがけて打ち込んだ。

 赤い飛沫がとび、命が枯れていく。

 凶器を片手に起き上がった菊池は、はたと気づいた。

 手にしていた鈍器は、茶斑アリスのグッズだった。一周年を記念してつくったアクリルブロック。記念として配信部屋においた一基。遠浅の海を移し込んだような淡い碧色のクリア素材に、愛らしい少女が片足をあげて喜びに飛び跳ねているものだが、その透明な碧は、赤い粘液と飛沫に覆われていた。

 菊池は居たたまれなくなり、赤黒くなっていく血液を指でぬぐう。

 唾液のように血が糸を引く。その奥にアリスの顔が見える。

 その顔はどこか、別人のように思えた。

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