11. 朝倉邸 由紀とミラと零

 松山由紀は朝倉邸の玄関に足を踏み入れた。ミラと再会して、はや二週間が経過していた。


(なんて大きいお屋敷……)


「あ、由紀さん。初めまして。朝倉龍です。すみません、娘と妻は仕事で忙しくて……」


 出迎えてくれたのは、研究で数々の賞を受賞し、たまにテレビにも出演している朝倉龍博士だった。

 由紀は息を飲んだ。テレビで見て想像したよりも大柄。ダンディで端正で優しげなルックスは実物の方が断然格好いい。

 研究者というより俳優でもやっていそうな容姿端麗な男が目の前に颯爽と現れたのだ。


「初めまして、松山です」


 玄関には家族写真が飾ってあった。着物姿の女性二人とスーツを着た龍、それからもう一人、龍に似た端正な容姿の青年の姿があった。


(こんなに格好いい男の子が……あのテロで……)


 その時だ、一足遅れてミラが姿を現した。


「ユキ! よかった! 大丈夫、くつろいで行ってね。ここは安全だから!」


 ミラの言葉に由紀は胸を撫で下ろした。本当に、昔から本当にかわいくて、場の雰囲気を癒す子だ。朝倉の御曹司は見る目があるなと心から思った。

 実験室の被験者の中では戦闘能力、攻撃性ともにピカイチと言われているが、そんな雰囲気は微塵も感じさせない。

 ひとえに彼女のおっとりした性格ゆえと思っていた由紀であった。


 案内されたのは広大な客間だった。壁には油絵がかかっているし、暖炉もあって赤々と薪が燃えている。上流階級ゆえに許される贅沢を見せつけられて、由紀は言葉を失った。


「すみません、遅れました!」


 ドローンが一機、プロペラファンの音を響かせながら飛んできた。

 彼が噂の朝倉零だろう。カーナビのような抑揚のない声だ。


「初めまして、朝倉零です。由紀さん、どうぞリラックスしてくださいね」

「顔が見えた方がいいよね。零、ログインして!」

「了解!」


 フィルムのような超薄型モニターに姿が映った。玄関先の写真にあった姿そのままだ。


「初めまして、時間をとってもらってありがとう。私が松山由紀です」

「わざわざご足労いただいてありがとうございます。貴重な休みの日に申し訳ないです」


 モニターに映った噂に名高い朝倉の御曹司の第一印象。それはとても礼儀正しいというその一言に尽きた。

 ミラもいたので話は弾んだ、しかも彼も日系人だ。共通の話題も多い。


「あ、緑茶なくなったね。次は紅茶でもどう?」

 

 由紀はミラの提案に一瞬逡巡した。


「紅茶もフレーバーティも色々ありますよ。あと、フルーツタルトともありまして……どうですかタルト、大丈夫です? ダガー……あ、フィリップが帰ってくるまであと30分ありますし、いかがです?」


 フィリップは軍に顔を出してからここに来ると聞いていた。あと30分あるのだ。


「ええ、大丈夫だけど……あの、いいのよ、高いものは」

「気にしないでください。せっかくですから! 俺のポケットマネーなので本当に気にせず。こんな身体だと金を使う当てもなくて。ミラと楽しんでください」


 戸惑いながらも承諾する。紅茶はアールグレイを頼めば、「持ってくるね!」とミラは飛んでいった。

 由紀はごくりと唾を飲み込んだ。この男の目論見は二人きりになることではないかと思ったからだ。

 次の瞬間、飛んできたのは予想通りの日本語だった。


「日本語が母語だと聞いてます」

「ええ、そうね……」

「あの、お願いがあるんです。料理を教えてくれませんか? ミラが子供の頃好きだった料理を。ああ。もちろん由紀さんが現在料理で生計を立てているのは知っているので謝礼は払います」

「え、料理?」


 由紀はあっけに取られてモニターの向こうの青年の目を見た。日系人ながら、欧米人の血も入った堀の深い端正な顔つきだ。彼は人懐っこい笑みを浮かべた。


「はい。もちろん、送迎もつけます。場所はここのキッチンで。でないとアームもなくて自分は手を出せないので……お願いします。休日のバイトだと思っていただいて結構です。一時間一万。いかがですか?」

「時給一万円!?」


 由紀のひっくり返った声が客間に響いた。

 でもそれと同時に彼がここに自分を呼んだ意味が少しばかり理解できた。零は、ミラが幼い頃に食べた料理を作ってあげたいのだ。

 彼自身はおそらく満足に食事ができないことは由紀にもわかっていたが、そこに触れるべきではないと当然に思い何も言及しなかった。だが思った。なんとまあ、健気なのだろうか。


 自分はかつてこの男を機械の身体にした原因を作った組織に身を置いていた。自分の知らないところで何人もの子供たちが殺され、やっと救えたのだってわずかだ。

 だから顔を少し合わせるだけ、そう思っていたのに。

 由紀の決心は砂の城の如く簡単に瓦解してしまった。ミラを大事にしてくれるこの男に、自分ができることをなんとしてもしてやりたいと思ったのである。


「謝礼は結構。だってミラは家族だもの」

「いいんですか? では別のもので礼をさせていただくまでですが……」

「本当にいいの、気にしないで。だってミラの好物教えるだなんて造作もないことだし……それに、ここに来ればミラやフィリップに会えるということでしょう?」

「本当ですか! ありがとうございます!」


(きっと別途謝礼をしてくるわね……)


 おそらく拒否しても、この男は絶対に曲げない。だが、いい男を捕まえたなぁとミラに感心した。

 レストランではない場所で供される料理を仕事と認め、それに謝礼をしようとする男だ。なんて言ってたって、この身分なのに! 調理師やハウスキーパーは往々にして下に見られるものである。


「ありがとうございます、自分はこの身体ですし……ミラに美味い飯を作ってあげるくらいしかできない……ほら、あの子食いしん坊じゃないですか。あの子を繋ぎ止める術が他にないんです」

「零君、そんなに思い詰めなくていいのよ。ミラはわがままを言わない子だった。あの、警官が突入した時までは本当に大人しくて、個性もなくて……でも、あんなに零君に会ってほしいって言ってきて、本当に大好きなんだと思う……大丈夫。安心して」

「そうですか……」

「そうよ、自信を持って」


 彼はきっと、この二人きりになる瞬間を待っていたのだろう。だからわざと小さめの急須で緑茶を提供したのだ。ハウスキーパーに追加の茶を持ってくるように指示するのではなく、ミラが席を外すように自然に仕向けた。なかなかの策士である。


「ありがとうございます。ずっと会いたいと思ってたんです……ミラに名前を与え、人として育ててくれたのはあなただ。それから、ニコのことも……感謝してもしきれません。どうぞこれからもよろしくお願いします」


 なぜこの男と握手ができないのだろう。

 由紀は己がかつて末端とはいえ所属していた組織を思い出し、胸にキリで穴を穿たれたような痛みを覚えた。

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