7. 仮想現実空間 ラーズグリーズ

 ミラの目の前にはラーズグリーズがいた。

 ラーズグリーズのアバターは黒髪に黒い目の白人で、溌剌とした美しい女性の姿だった。ラテン系の雰囲気を感じる。

 本名はアイダ・ガルシア・ロドリゲス。階級は准将だ。

 斜め向かいにはホークアイ、右隣にはレイがいる。

 全員ソファに腰掛けている状態である。


(目がハッピー過ぎる……)


 今回はいつものようなモニター越しではなかった。ミラがゴーグルをつけて仮想現実空間にお邪魔しているのである。

 ここはホークアイの部屋らしい。


 ホークアイが言った個人的な話とは簡易アバターを作って仮想現実空間に来ないか、という話であった。

 当たり前だが首を右に回すとレイが見える。触れられはしないが、同じ空間にいる。


 位置のトラッキング機能もあるのでその気になれば動けるが、実際歩き回って現実空間の壁やら何やらにぶつかる恐れがあるので歩かないようにと言われている。


「なんだ、ホークアイがついに真実の愛に目覚めたのかと思って期待をしたが……」

「残念ながら違います。ですが、状況が状況でしたが、彼女くらいの才能のあるパイロットなら専属ではありませんでしたがコントロールを受け渡すことにそれほど抵抗はありませんでしたね」


 ラーズグリーズはホークアイをいじっているつもりなのかもしれないが、ホークアイは冗談とは受け取らずに真面目にそう返事をした。


「ホークアイ、褒めすぎだよ」

「実際、ミラがいなかったら俺もとっくに死んでいた」


 レイの声が右側から聞こえて、はっとそちらを見る。


(格好よすぎる……)


 モニター越しで見るのとは訳が違う。現実世界の3Dホロ映像とも違って透けてもいない。手の届くような距離にいるレイが動いて喋っている。

 彼の一挙一動から目が離せない。


「ドルフィンの命の恩人とホークアイの命の恩人がイコールになっていなかった。そうか、ラプターとは君のことだったんだなと改めて思った。あまり戦闘機パイロットは把握していないんだ」

「無理もありませんよ。サイボーグシップの戦闘機はレイだけですし」


 ミラがそう言うと、ラーズグリーズは苦笑してみせた。


「全サイボーグと自分の乗組員を把握するだけで精一杯だ。ドルフィンを救ったラプターというパイロットを男性だと思っていた。自分の中にもこんな偏見があるとは思わなかった。私のような立場の人間がこれではダメだな」


 レイは指を口元に当てて考え込むような仕草をし、口を開いた。


「私も初め、ミラを男性だと思ってました。ブラボーⅠでは女性パイロットも多いですが、ブラボーⅡは圧倒的に少ない。サイボーグへの偏見もあちらより酷いと感じます」


 ドルフィンの口調は、サイボーグ仲間への言葉ではなく、協会の会長に対するそれであった。


「変えていかなければならないな……」


 ラーズグリーズの言葉に、ホークアイが重々しく頷いた。


***


「もっと真面目な話をするのかと思ってた。制服はやりすぎかと思ったがジャケットは着るべきかとスーツ着てきたんだが……そうでもなかったな」


 フローリアンの向かいに座っていたドルフィンは、わずらわしそうにネクタイを緩めてワイシャツのボタンを一つ外してみせた。


(おお、見てるな見てるな)


 フローリアンの狙いはこれだった。

 ラプターの視線はドルフィンに釘付けなのである。


 ある日気づいた。自分が彼に釘付けになるのは彼の所作があまりにも洗礼されていて、いやらしさを一切感じさせないのにセクシーだからなのだ。

 結構悩んだが、結果として彼は恋愛対象にはなり得ない、だが、とにかく格好いいので同性として憧れる。目を離せない。


 それに気がついた時、彼女にこれを教えてやらなくてはと思ったのである。

 今日のドルフィンの服装は、光沢の艶やかな濃紺のスーツにベストという完璧なスリーピースだった。


 先ほどごちゃごちゃと言い訳していたが、ホークアイにはわかっていた。この男はガールフレンドをこちらに呼ぶゆえめかしこんできたのだ。

 ドルフィンはもったいぶったように緩やかな動作で足を組んで、ラプターにゆるりと視線を移した。


(芸術品を見ているようだな……)


 人類史上最も巨大なコングロマリットのトップの令息として教育を受けた、人を惹きつける視線運びと動作。ブラボーⅠの至宝、朝倉一族の御曹司の姿がそこにはあった。


「どうかした? 小鳥ちゃん」


 緩やかに口の端に笑みを刻む。ラプターはわかりやすく真っ赤になった。


(やめてやれよ……気の毒すぎるな)


 やれやれ、とフローリアンは腰を上げた。


「ドルフィン、気分転換に紅茶はどうだ?」


 フローリアンの提案に、彼はわかりやすく目を輝かせた。


「珍しいな、紅茶か!」

「イングリッシュ・ブレイクファストとアールグレイ。どちらが好みだ?」

「アールグレイ! いいな紅茶、久しぶりだ」


 きっとこの男は地球から取り寄せた本場の紅茶を飲んでいたはずだ。

 仮想現実空間の紅茶がどれほど作り込まれているかフローリアンに知る由もなかったが、彼の口に合えばいい。そう思ってキッチンに足を向けた。


***


「サイボーグではない人間が頭を直にネットワークに繋いだり、こちら側に五感を接続してログインするには頭にチップを埋め込まなきゃならない。一般的にインプラント手術って言うけどそれは知ってるよね?」

「うん」


 ホークアイがドアの向こうのキッチンに消えるとレイは唐突にそんな話を始めて、ミラはそれに頷いてみせた。


 一般人でインプラント手術を施し、端末を使わずとも電話をしたりネットに接続したり、いちいち声を出したりリモコンのスイッチを押さなくてもテレビや家電のオンオフなどをできる人間は上流階級に存在するらしい。


 彼らは仮想現実空間にもサイボーグと同じように足を踏み入れられるが、それを望むものは少ない。

 変わり者のサイボーグばかりの世界に足を踏み入れなくても、十分楽しめるリアルの生活があるからである。


「健常者のインプラント希望者は昔から許可されてたけど、最近、サイボーグ試験に突破できなかった先天性の身体障がい者や中途障がい者もインプラント手術をすることがブラボーⅡ政府から正式に許可された。こちらの人口が増えそうだ」

「なるほど」

「だから彼らを受け入れるためにもラーズグリーズはこちらの環境をよくしたいと思っている。もちろんホークアイもだが。インプラント手術を施した一般人に仮想現実空間が不人気なのはなぜなのだろうなとな」

「レイはどう思ってるの?」

「圧倒的に娯楽が少ない。環境もそれほど良くない。君も知っての通り未だに固形物の食べ物というものはこちらにはない……コーヒーや紅茶、酒なんかの口にできる嗜好品が増えたのもごく最近だ。香水だってアロマだってそう。俺がこっちにきたからだろうな、予算がついたって聞いたよ。外を歩いても鳥の声すら聞こえない。季節で花が変わるわけでもない。雨上がりの湿った空気の匂いだって感じられない」


 あまりにも意外だった。

 ホークアイやエリカはそんな世界に生きていたのか。


「そうだったんだ」

「だからかサイボーグは人との触れ合いを求めて即物的な快楽に走る。幼少期に親と引き離されているのも原因の一つだろう。サイボーグのほとんどがセックス中毒なのはそんな理由なのではないかとこの前ホークアイとも話した」


 普段の生活ではなかなか聞かないような単語がレイの口から聞こえて、目を泳がせた。

 彼女は言葉を選びながら口を開いた。


「ホークアイやラーズグリーズはそれを変えたいと思ってる……ってことか」

「そういうことだ。またドローンのあいつと出かけてやってほしい。一般人がどんな生活をしているか知るだけで変われるはずだ。違いを知れば、こちらを改良できる。ホークアイは副会長だからな」

「パン屋に行った時の、あの香ばしい匂いも知らないんだ……夕飯時の住宅地の匂いもケバブ屋の前を通った時の香ばしい匂いも」

「そう、もしかしたらサイボーグ化する前に経験しているかもしれないが、正直ほとんど覚えてないだろうな。教えてやってほしい、今どんな匂いがするとかね。外に連れ出すだけで、たとえば日陰から出たら眩しさとかも感じる。そんな刺激でさえ奴にとっては新鮮なはずだ。こっちじゃ全然ないからな」


 先ほどのホークアイの言葉、「サイボーグなんてそんなものだ」と言っていた意味を理解した。

 レイとエリカ以外は、きっと皆そうなのだ。普通の世界を知らない。


「ホークアイは子供の頃トンボだのセミだの追いかけ回したこともないんだ。広場のハトや野良猫にちょっかいを出したこともない。信じられない。食事だってそうだ。あいつ、絶対に甘いもの好きだと思うんだよな。いつもコーヒーに砂糖入れてるし、いつかコーヒーフロートを飲ませてやりたいな。あとはケーキとかラーメン食わせてやりたいよ。絶対ハマるって」

「ラーメンいいね。ラーメンは最強だから」


 ミラは追加でニンニクを入れまくった豚骨ラーメンが好きだ。

 他にも太めの縮れ麺も好みで、醤油ラーメンや味噌ラーメンもよく食べる。


「だよなぁ。本当……俺がラーメン食べたくなってきた。そうか10年食べてないのか」

「絶対に作れると思うんだけど、難しいのかな?」  

「日系の中途障がい者がこっちきたら絶対ラーメン食わせろって言うだろうな。作れるとは思うよ。要望がないから作ってなかっただけだと思う。俺はあんまり主張しなかったし。なんか立場上難しいんだよな……」


 この男が、「ラーメン作れ!」と声高に言ったら皆それを開発しに走るだろう。彼が何か発すると、それこそ鶴の一声になってしまう。


 ミラがなるほど、と考え込んだその時、茶器一式を手にしたホークアイが戻ってきた。

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