5. ブラボーⅠ メインアイランド 中央病院
(そろそろドルフィン、帰ってくるかな……)
ミラは布巾で壁を拭きながらぼうっと考えた。
今、キャシーはサミーの機体整備で仕事中。なのでサミーもキャシーと一緒。
ドルフィンは生命維持装置のメンテナンスで同じく不在。一部機材を最新式に変更するらしい。夕飯前には帰ってくると言っていた。
ミラは壁に手を這わせながら言った。
「まだちょっとベタベタしてるな」
先程、気がそぞろだったミラは壁にジュースをぶちまけてしまったのである。
零の目であるカメラにこそかかっていないが、その下の金色のタッチパネルっぽい切替え部分にかかってしまった。
普段はこれを使って何かすることもないから多分大丈夫だと思うが、ドルフィンが帰ってきたら確認しなければ。
ドルフィンが帰ってきたらどうしよう、今日はどうも夕飯を食べられそうにない。全く食欲がなかったのだ。
あまりにも壮絶すぎたのだ、例の治療記が。
読む勇気がわかなくて、ミラはしばらく放置したそれをこの日ついに手に取った。
基本的には亡くなった患者の治療記録が書いてあった。そこに、一人の生き残りの事例についても書いてあった、仮名でサイトウとあったが、きっと彼がドルフィンのことなのだろう。
そして、記載してあったジェフの忘れられない一言。「人工呼吸器を付けたら言葉を発せなくなります。その処置の前、俺は実験動物じゃない。早く殺してくれってサイトウが言った、あの台詞が耳から離れません」
(実験動物……)
ミラは自分の異形の手を見つめた。まさか、ドルフィンもそんな思いをしたことがあっただなんて。
***
(信じられない……こんなふうに状態が悪化してしまうなんて)
ベッドに横たわった同級生、朝倉零の状態は絶望的であった。
運ばれてきた時、見た目になんの症状もなく普通に受け答えをしていた若き御曹司の姿はそこになかった。
皮膚の状態は極めて悪くなっていた。
通常、人の表皮は一番そこの部分が常に細胞分裂を繰り返して作られ続けている。作られた新しい皮膚がどんどん表面に押し出されていって、古くなった表面は垢として剥がれ落ちていく。
しかし、零の皮膚を作る細胞は放射線により根こそぎダメージを受け、全く再生ができない状態であった。それは放射線を浴びた身体の正面部分に現れていた。
この症状が出始めてから、全身の激痛に彼は常に襲われているのだ。
肺の中で出血も起こり、呼吸状態の悪化も拍車をかけた。胃腸は表面の粘膜を失い、ほぼ機能を停止。
全身の体表、体内に重度の火傷をして、常に溺れかけている状況である。
家族のことを思うと不憫であった。
祖父母、母に仕事があったので、零は代打として現場に赴いていたのである。そこでテロに遭ったのだ。
「きつい……絶望的すぎる」
ジェフはコーヒーメーカーに愛用のマグカップをセットしてボタンを押した。
マスコミも大勢押し寄せてきて、家族の疲弊は目に見えて感じていた。
現在、零はすでに人工呼吸器を装着して話もできない状態だった。鎮静剤と医療用麻薬によって意識レベルを意図的に下げている。
唯一順調なのは、幹細胞移植の成功だ。
零は幸運なことに、現地に赴く前、気まぐれで献血をしていたので状態の良い本人の血液があったのだ。テロ事件を聞いた零の祖父である朝倉龍教授が容体を確認する前に各所に働きかけ、血液から万能細胞を作成、造血幹細胞を急速培養させたのである。
被曝後すぐに血液内の白血球やリンパ球の量がどんどん下がっていったので、龍はこうなることを見越していたのだ。
そう、零の細胞はもう新たに分裂することができなくなっていたのだ。
被曝すぐに採取された彼の骨髄細胞の染色体、これの顕微鏡写真を見せてもらったのだが、バラバラに破壊されていた。これが放射線の恐ろしさだ。
身体の設計図を破壊し、再生能力を奪うのである。
もう、残された選択肢はかなり少なかった。
被曝された直後に爆発事故にも巻き込まれ、四肢に骨折や無数の傷があった零はそこの壊死も始まっていた。
なんとかして、培養槽に入れるまで持っていく。
もう大気中ではそれ以上の治療は無理だ。全てが管理できる培養槽に入れたほうがいい。そうすれば、サイボーグシップになれるはずだ。
それが、当面のジェフの目標であった。教授は当初の目標をICUから出すこと、などと言っていたが、それではきっとパイロットに復帰はできない。
休憩を終えて、ジェフは零の集中治療室に足を向けた。近づくと現在の心拍数や血圧など、身体の状態がモニターされた画面が見える。
ジェフは目を見開いた。血圧が百を切っていた。脈も異常に遅い。
彼は治療室に駆け込んで叫んだ。
「
そこにいたのは研修医だった。そうだ、今からX線検査をしようとしていたのか。ああ、なんてことだ。だから心電図も切っていたし、人工呼吸器も手動に切り替えていたのか!
「医者を集めろ!」
ジェフは声を上げた。
普段は手洗いとうがいをして、ガウンを着ないと入室できない集中治療室であったが、その時はそのような状況ではなかった。
中央管理棟でモニターの異常を感知した医者や看護師が押し寄せてきた。
こんなところで死なれるわけにはいかない。
ジェフは心臓マッサージを始めた。
(……またこの夢か)
ベッドの上、目が覚めたジェフは十年前の悪夢の再来にうめいた。時間を確認すれば、朝の6時半。
出勤には少しばかり早い。だが、とりあえず起き上がった。
洗面所に向かって顔を洗い、とりあえず歯を磨く。
(ミラはあれ、読んでくれたかな……)
あの時、零はもう自分の状態を理解していた。自分の口から話せるうちにその当時の婚約者には別れてくれと言っていた。
だが、無駄に希望を持たせるようなことを言ったあのお嬢様がくせものだった。自分はずっとそばにいる。だから治療に専念して。そう言って、零が人工呼吸器を装着して、会話もできなくなったら見舞いにもこなかったあの女。
きっと朝倉一族の嫁になれば将来安泰だと思ったのだろう。
なぁんで零はあんなお嬢様と婚約していたのだろう。
「ミラの方がよっぽど度胸があるからなぁ……」
別に今の零を見ていると見る目がないとは思えないのだが、如何せん、ジェフはテロに遭う以前の零をあまり知らなかった。
高校の頃の成績だの、噂話だのでしか知らないのだ。
件の婚約者殿は、零に希望を持たせるようなことを抜かした挙句、彼が意識不明な間遊び回っていたらしい。
零は処置を重ねて安定したし、これからサイボーグとして生きていける、そうなった時に婚約者のその女は複数の男と関係を持っていたことがバレた。
彼は直接彼女に言うことはなかったが、ジェフにだけは愚痴を漏らしてきた。「だから別れようって言ったのに」と。温厚な零でも静かに怒り狂っていたのである。
零は零なりに悩んでいたらしい。自分はこんな身体だ、だったら黙認するべきなのではないかと。だがジェフは言ったのだ「それが嫌だから別れてくれって五年前に言ったんだろ?」と。
零がたとえ許せたとしても、ジェフはとてもではないが許せなかった。ジェフからすると、零は患者であり友であり、共にテロに立ち向かった同志で家族のようなものなのだ。
あのギリギリの状態でどんな思いで別れてほしいと零が言ったか、誰よりもわかっているつもりであったから。
挙句、これからは心を入れ替える、零の本当の姿を見たい。そう言って悲鳴を上げて気を失ったのである。
「胸糞悪いもん思い出しちまったなぁ~」
あの状態で覚悟を決め、自分から別れてくれなんてきちんと言える男はそうそういない。
色々と難ありな男ではあるが、結局自分はあの男が好きなのだ。だから故郷を捨ててここブラボーⅡまでくっついてきた。
軍にまで、入隊して。
(今日は零の生命維持装置の部品入れかえだな……)
朝飯は出勤してから食べるか。
夢見が悪かったせいかあまり食欲がない。
コーヒーを飲んで身支度をしたジェフは、ビジネスバッグ片手に家を出たのであった。
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