12. 仮想現実空間
文字通り肉体を失い、サイボーグとして神経接続が完了したばかりの頃。
零は初めて、サイボーグの会合に赴いていた。仮想現実、つまりVR空間が舞台である。
不思議だった。散々痛みやらなんやら、苦しんだ挙句手放した肉体としての感覚がそこにあった。もう失われたはずの手を握ったり開いたりして、ああ、仮想現実の感覚はこうも優れているのだなと感心した。
全く知らなかった。今まで五体満足として過ごしてきた零にとっては、話に聞く仮想現実の世界なんて絵に描いた餅も同然だったからである。
「よくできてるな……」
ぼそ、と零はつぶやいた。視覚も聴覚もなんら違和感ないことはすでに体感済みであった。触感だとて以前と何も変わらない。
指定された椅子に腰掛ける。そうして、目の前に出されたコーヒーカップを手に取った。
香りは、コーヒーそのものだ。
恐る恐る口をつける。温かい。深い苦味。焙煎の深いコーヒー特有の味。零の好みだ。鼻腔に広がるのは香ばしい香り。懐かしすぎて笑みが溢れた。
「味はどう? 本物に似てる?」
隣の席に座っていた女性に、零は目を向けた。栗色のふわふわとしたセミロングの髪、いかにも欧米人といったような青い目。
「申し遅れたわ。私はエリカ。サイボーグシップで、タックネームはカナリア。あなたが新入りのドルフィンね。よかったらカナリアと呼んでね」
パイロットの時のタックネームで呼ばれて、零は苦笑した。サイボーグシップはたいてい軍の所属だ。自分も一時的に基地内のシステムに組み込まれ、機械の身体が与えられたがまだ事務仕事をこなしながらアーム操作などのリハビリ中である。いつか彼女のようにサイボーグシップとなり正規の軍人として復帰できるだろうか。
「あ、ああ。レイ・アサイだ。俺はもうパイロットじゃないがな。好きに呼んでくれ」
タックネームで呼ばれ、なんと言っていいかわからなかった。戸惑ったということもある。
「私はノン・サイボーグの友達が多いからちょっと気になって。本物のコーヒーと、ここのコーヒーが同じ味なのか」
なるほどな、と零は思った。基本的に、この仮想現実の世界に暮らすフル・サイボーグは現実世界を生きたことがない人間ばかりだ。たいていが、生まれた時から肉体に何かの障がいがあったが、その後の知能検査でずば抜けた成績を叩き出し、成績優秀者だと認定されて機械の身体を持つことになった者ばかり。よって、ほとんど……いや、自分以外の人間は、基本的にコーヒーなどという嗜好品を飲んだことがないはずだ。
「そっくりだ。違和感ない」
「そう。私たちは嘘をつかれていない、ということね」
カナリアはそう言って笑みを浮かべた。びっくりするほど人形じみた美しい姿だったが、右を見ても左を見てもそんな人物ばかりであった。
虚構の空間ではあったが、騙されているとは零は思っていなかった。祖母は、零が肉体を失う恐れを医者から聞いてより、私財を投げ打ちここの環境を良くすることに力を入れたと知人経由でつい最近聞いたばかりだ。
だが、疑いを持つことは悪くない。彼女はなかなか柔軟な頭をしている。
「どうだい、脆弱な肉の器から解放された気分は?」
会合がお開きになった時。何人も取り巻きを連れた金髪のオールバックに碧眼の美しい男からそう声をかけられ、零は耳を疑った。
脆弱な、肉の器?
「ああ、失礼。サイボーグ協会の副会長のフローリアンだ。統合海軍にて
「フロー、やめなさい。彼は成人するまでずっとノン・サイボーグとして暮らしてきたのよ」
隣にいたカナリアがピシャリと嗜めた。フローリアンは片眉を上げる。
「エリカ、何を言っているんだ? 彼は選ばれし人間だ。これ以上喜ばしいことがあるか? だが、たとえノン・サイボーグといえどもだ。あなたのおばあさまには敬意を評している。数少ないノン・サイボーグの尊敬に値する人物だ。よければこれから私の家に来ないかい?」
五十年前、地球に侵攻した未確認飛行物体撃破の立役者、相川一香。それが零の祖母であった。こっちの世界に来てもこの手の輩がいるのだな、と零は内心辟易とした。
「すまないが気が乗らない。今日は勘弁願いたいな」
「そうか、ではまたの機会に」
またなんてあるか、と零は足を組み替えた。冷め切ったコーヒーを啜る。ちら、と横目で隣を見ると、申し訳なさそうな顔をしたカナリアがいた。
「彼は親戚なの。気を悪くしていたら申し訳ないわ」
「謝ることない。君は悪くないだろう」
一部のサイボーグの思想については話に聞いていた。少し、彼女に教えてもらってもいいかもしれない。
「私たちはあなたも知っての通り、生命維持装置の中で基本的には痛みも感じず、肉体を損傷することも少ない。機械の身体はパーツを変えればいい。それに、一般人より寿命だって長い。だから肉体を持つノン・サイボーグを下に見る傾向があるのよ。彼みたいに」
彼はサイボーグシップなので余計その傾向があるだろう。フル・サイボーグでも宇宙船の身体を与えられる者はほんのひと握りの成績優秀者のみ。施設や設備に組み込まれ、その管理や運営に携わっているサイボーグの方が圧倒的に多い。例えば、自力では動けない宇宙ステーションや、管制塔、それからメインアイランドの路面電車の管理ステーション。
カナリアも、それからあのフローリアンとかいう男もおそらくIQ130を超えているエリートの中のエリートなのだ。そうでなければサイボーグシップにはなれないのである。
「君は違うようだな。肉体持ちの友人もいるようだし」
「私は異例で六歳まで普通に暮らしていたから、肉体にも愛着があるのよね。脊髄に腫瘍ができて首から下が麻痺。ジュースは飲んだことがあるから味を知っているけど、コーヒーは飲んだことがなかったからあなたにさっき聞いてみたの」
「なるほどな……。これ、冷めても冷めたコーヒーって味がするよ。酸味が強くなって、苦味が深まった。よくできている。違和感ないな」
「コーヒーは冷めないうちにって言うのはそういうことなのね。ありがとう、勉強になったわ」
興奮気味に彼女は言った。うん、悪い娘ではなさそうだ。家族が有名で資産家だったおかげで、零は昔から人付き合いに人一倍気を使っていた。場所によっては外出時に護衛を付けることも多かった。金目当てで近寄ってくる人間も多かったからかなりその辺り鍛えられている。人を見る目はあるつもりだった。彼女に色々と教わるのも悪くないかもしれない。
「交換条件と言ってはおかしなものだけど、俺にもサイボーグ界隈のあれこれを教えてくれないだろうか? さっきのあれも驚いた。正直、知り合いも誰もいなくて、何もわからない。文字通り初心者だ」
「なら、さっきのフローのお誘いに乗らなくて正解だったわね」
「そうなのか?」
冷め切ったコーヒーを飲み干してソーサーの上に戻した。かちゃ、と食器同士が接触する音が耳に飛び込む。実によくできている、と妙なところで感心した。
「ええ、私たちサイボーグはお茶に行くような感覚で男女関係なくベッドインするから気をつけて。まあ、フローがどういうつもりであなたに声をかけたのかはわからないけど、五分五分だったんじゃないかしら?」
「はぁ!?」
「あなたにフリーセックスの趣味があるんならともかく、そうでなくて『普通』の感覚なら気をつけることね」
カルチャーショックとはこういうことを言うのだろう。いや、確かに。仮想現実の身体がどのようなものか気になって髪を一本抜いたりだとか、手にペンを突き立てたりだとか、零も色々気になって試してみたが神経リンクは完璧にできている。味覚も嗅覚もなんの違和感もない。ならば人間、コミュニケーションとしてそういうことに走るのもなんら不思議ではない。しかも、病気やら妊娠やらのリスクがない。
「なるほどな……覚えておく。そういう趣味はないからな。正直、こっちの人付き合いが疎遠になりそうだ」
「私もこんな感じだから変わり者として通っているわ。ま、何かあれば遠慮なく聞いて」
彼女が人差し指を立てると、空中に連絡先が現れた。零の腕を指差すと、端末に連絡先が飛び込んでくる。
「恩に着る」
「私も何かあればアドバイスをいただきたいわ」
「ああ、喜んで。それにしても……君はどうやら俺が誰だかわかっているのに俺の祖母や母のことを聞かないんだな?」
それは不思議な感覚だった。零はどこにいてもだいたい二の次。背後にいる祖母や、同じく有名人の祖父、それから大企業のトップである母のことばかり聞いてくる人間が多かった。
「目の前にいるあなたには多少興味があるわ。仲良くできそうだし。でもあなたのご家族には興味ないわね。しかも、あなたブラボーⅡに移籍してファミリーネームをアサクラからアサイに変えたのでしょう? 私はただのドルフィンとして扱うわ。私の友人にはもっと出自の吹き飛んだ人がいるからまあ、驚かないわね。じゃあ、午後から演習があるの。失礼するわ」
彼女はそう言って颯爽と去っていった。
(吹き飛んだ出自の友人なぁ……)
カナリアと初めて言葉を交わしたあの日のことをふと思い出した。あの時、絶対にラプターのことを思い浮かべていたのだろう。彼女が実験で生み出されたこと聞いていたが、詳細を調べるのはなんだかはばかられ、ずるずると先延ばしにしていた。
かと言って本人に聞くのもなぁ。零は読んでいる最中の漫画を放り出した。画面を閉じてカメラに視覚をリンクさせる。
スクランブル待機室だ。二番機であるソックスは端末で電子書籍を読んでいる。ズームレンズで拡大して覗いてみたがトルコ語なので意味がわからない。
四人がけのテーブルには三番機と四番機のパイロットもいた。三番機であるリュウ・セイ。タックネームはシューター。四番機はサイモン・ベルナール。タックネームはスマイリー。
緊急スクランブルがかけられるように待機しているので、皆フライトスーツは着ているが室内で割と自由に過ごせるのがこの待機室というものだ。
(まあ今日もスクランブルなんてかからないだろうけどな)
零が想像した通り、結局スクランブル要請はなく、その日皆仲良く帰路に着いた。
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