第4話 妻と夏の終わりの花火

 8月になる前にやっておかなければならなかったことを忘れていた。

「妻、カラオケ行こう」

「いつもながら唐突だねえ。別にいいけど」

 反重力ダイオウグソクムシのTシャツを着てぼくは主張する。そして妻は苦笑しながらも応じてくれる。ありがとう、いい妻です。


 駅前のカラオケ館で2時間。DAMかJOYSOUNDを選べるがぼくはJOYSOUND派である。

 妻もぼくもどちらかと言えば陰キャの方なので無理して鳴り物を持ち込んだりはせず、順番にしめやかに好きな歌を歌う。

 ユニゾン、スキマスイッチ、時雨、リョクシャカ、syrup16g、岡崎体育、『スペースコブラ』の主題歌……。

「『めぐりくるはずもない Peace & Love』って歌詞、いいよね……」

 意外かもしれないが、妻は割とこういうロマン寄りの歌詞が好きだったりする。

 そしてぼくは、妻のそういうところがかなり好きだったりする。

「なんでニコニコしながらこっち見るの?」

「かわいいよ」

「わーい」

 ベタ甘な空気が流れている。

 それはさておき、そろそろ終わりの時間である。ここに来た目的を果たさねばならない。ぼくは最後にこれを歌うと決めていた曲を送信した。キーボードの美しいイントロの後に、どこか物悲しいギターの音が重なる。

 amazarashiの『隅田川』。

 内気な主人公と憧れの少女の、もしかしたら叶ったかもしれない片想いを題材にした、一途なラブソングだ。

「花火かぁ」

 歌い終わった後、お愛想で拍手をくれた妻が、何でもないように言った。

「多分、今年も見られないんだろうね」

 それは本当に、ただの事実を述べているだけ、という口調だった。

 毎年7月最終土曜日に開催されていた隅田川花火大会は、ここ3年ほどずっと中止が続いている。陰キャの夫婦であるところのぼくたちは祭りのひとつやふたつ潰れたところで大して痛くもかゆくもないし、おうち時間だとかニューノーマルといったものだってほとんど苦にならないのだけど、そうでない人々にとっての寂しさや喪失感といったものは、きっとぼくの想像以上に深く重たいものなのだろうと思う。

『隅田川 花火が咲いて 散るまでには会いに行きます――』

 頭の中で『隅田川』の歌詞がリフレインする。

 限られた時間の中でしか生きられない人々から、そんないじらしい願掛けの機会さえ奪われてしまったのだとしたら。

 全くもって、やるせない話だ。


 少し早い晩酌を終えて、妻はすやすやと眠っている。

 別に妻は酒呑みではないが、最近よわない檸檬堂というノンアルコール飲料にはまっているのでよく呑んでいる。時々ぼくもご相伴に預からせてもらうのだが、そこはさすがのコカ・コーラ社、缶入りとは思えないおいしさがある。

 どぉん、どぉん――と音が聞こえる。

 呑み過ぎたかな、とぼくは苦笑し、水を取りに行こうと立ち上がったところでふらついた。音は断続的に鳴り続けている。血流の音にしては大きくて不規則だ。

 ……。

 外から、聞こえる……?

 花火の音だろうか。だったら大方、いつものやつだ。このマンションは地味に東京ディズニーランドの近くにあるので、毎日20時30分に花火の音が聞こえる。

「いや……」

 スマートフォンを手に取り、液晶に触れる。

 ……20時14分。

 ぼくは大慌てで妻を揺さぶった。

「つ、妻! 起きて早く!」

「え……? なに……?」

「窓の外!」

 ぼくはぴったり閉じたベランダのカーテンに飛びつく。勢い任せにシャッと開いた景色の向こうで――

 

 花火が上がっていた。

 赤と緑と紫と、青と薄紅とオレンジと。

 ひゅるひゅると音を立てて、光る蛇のように、時には螺旋を描いて、炎が揺れて闇夜を照らす。

 咲いては散りゆく炎の祝宴。目まぐるしく移り変わるスターマイン。

 街の景色とぼくらの姿を、七色に染め変えていく。


「サプライズ花火……」

 それはコロナが塞いだ世界で、誰かが始めた文字通りのサプライズ。

「時々あるんだ。今日だったんだ」

 ささやかな、時間にして数分の、短いお祭りだったけれど。

「見れたね、花火」

「うん」

「なんか、ちょっぴり嬉しいね」

 光の消えた夜の中で、妻がやさしく微笑んでいる。

 ――綺麗なものを目にすると、ただそれだけで泣きたくなる。

 ぼくは時々そういうふうに思うことがある。

 きっと妻もそうだったのだろう。

 勿論ぼくもそうだったのだ。

 出来過ぎた物語のような綺麗な花火で。

 そして、世界一可愛い、きみの笑顔で。


「妻……」

「夫……」


 遠くの空で、遅れて上がった最後の花火が、アンコールのように強く弾けた。

 ぼくらは見つめ合い、どちらからともなく目を閉じた。

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