第3話 妻と大久野島

「ウサチャンに逢いたい」

「どしたん、藪から棒に」

 ぼくが反重力ウサギのTシャツをパタパタさせながら言うと、妻はぼくをうちわでパタパタ仰ぎながらそう返してきた。なんでそんな偉そうなことになっているかと言うと、目下ぼくと妻との間で《侍らせた女に団扇で扇いでもらう皇帝ごっこ》の最中であったからだ。5分後に交代する約束をしている。ちなみにエアコンはつけていない。数日前に直射日光でリモコンが溶けたので。(※1)

「ウサチャンと言えば大久野島おおくのしまじゃん」

「どこそこ」

「日本のどこかにある、ウサチャンがいっぱいいる島らしいよ。詳しくはググれ」

「理解が雑」


 ググった結果、大久野島は広島県にあることがわかった。

 ちょうど夏休みで暇を持て余していたぼくたちはこれ幸いにと大久野島を目指すことにした。関東からは新幹線で4時間程度。福山駅で呉線に乗り換え、島の最寄りの忠海ただのうみ駅まで。駅から数分歩くとファンシーな外観のお土産屋兼チケット売り場があり、そこで島行きのフェリーのチケットを買った。

 世間的にも夏休みなだけあって、フェリー乗り場には親子連れやカップルが行列をなしていた。ちゃんと乗れるか心配だったが、結構巨大なフェリー(定員300人らしい)だったので大丈夫だった。

 未だ続くコロナ禍の中、それでもぼくたちは――いや、主語を大きく取るべきではない、正しく『ぼくは』と言うべきだ――人としての営みを止めることができない。

 ある人間が他者のために、その人がまた別の他者のために、ひいては社会全体のために、少しだけ何かを我慢する……それが望ましくあるはずの時代に、その通りに生きられないのは、およそ美徳からは程遠いことだろう。

 それでも――と、ぼくは妻の横顔を盗み見る。

 フェリーの舳先のフェンスにもたれて、セミロングの髪を潮風になびかせる妻の表情は、明るくキラキラと輝いている。

 周りにいる人々も似たようなものだ。大人も子供もみんな、ウサチャンと遊びたくてワクワクしている。

 ――こんな表情かおを見るためだったら、ちょっとくらいは美徳も曲げるさ。

 そんなふうに言い訳をしなければ旅行ひとつ気軽にできない時代の息苦しさを――ぼくは嘆くことなく受け入れなくてはならないのだと思う。己のエゴで美徳を曲げる人間の、せめてもの責務として。

 たとえそれが詭弁であり、身勝手な正当化に過ぎないとしても。

 ぼくは潮風にずれてしまったマスクを引っ張り、あるべき位置に戻した。


 15分程度の短い船の旅だった。島に降り立つと、『瀬戸内海国立公園 大久野島』の看板がぼくらを出迎えてくれた。総面積0.7km程度の小さな島に推定500匹のウサチャンが棲んでいるらしい。さぞかし人口密度、いや兎口密度が高かろう。

 陽射しが強いので妻が日傘を差しかけてくれる。ありがたい限りである。5分くらいしたら代わろうと思う。

 しばらく道なりに歩いていくとちょっとした広場があり、ウサチャンがいた。

 2分も経ってないのにもうウサチャンがいた。

 ぼくは終わりになった。

「ウサチャン!!!!!!!!!!!!!!!!」

「夫、うるさい」

「ウェヒヒヒヒヒウサチャンカワイイネェ……カワイイネェェ……」

「どうしよう、夫がキモい生命体に成り果ててしまった……まあ最初からか……」

 ぼくが差し出した餌を餌にウサチャンを永遠に撫で続けていると、ウサチャンの方も慣れているのかされるがままにしていた。抱き上げて頬擦りとかチュッチュしたいのはやまやまなのだが、ウサチャンが怪我をする恐れがあり望ましくないため撫でるだけにする。

 ずっと撫でていると視線を感じる。チラチラと妻が物欲しそうにこちらを見ている。

「後ろにも来てるよ」

「!?」

 妻が振り返る。ウサチャンはよく見れば至る所にいる。すぐそこの芝生の上に、涼しげな木陰の下に、設えられたベンチの下に。

「ウサチャン……」

 妻の目がちょっとだけ潤み始めてきた。

「ウ……ウサ……ウサ……」

 すっ、と一匹のウサチャンが妻に寄っていく。

 おずおずと伸ばされた妻の白い指に鼻を近づけ、つんつんと鼻先でつついている。

「……ウサ……」

 そして最後に、すり、と頭をこすりつけた。

「ウサチャン!!!!!!!!!!!!!!!!」

 妻も終わりになった。


 その時の様子は到底ぼくの筆の及ぶところではないので省略する。

 後日tiktokで「観光地にキモいカップルいた笑」という動画が流れていたらしいが、それはまた別の話。


 どうにか人の形を取り戻したぼくたちは島を散策することにした。島の南部では綺麗な海と砂浜が見られる。絶好のロケーションに見惚れながら歩いていると妻がこけた。無舗装の道にはウサチャンの掘った巣穴が大量にあり、注意しないと危険なのである。指差してゲラゲラ笑っているとぼくもこけた。妻もぼくを指差してゲラゲラ笑った。

 ぼくたちは時々こうしてdisりあうような殺伐とした関係にある。お互いがお互いにリスペクトがない。ぼくはそんな関係が気に入っている。

「ねえ、あれ何だろ」

 ふと、妻が遠くを指差した。

「千羽鶴……?」

 視界の先には小さな東屋があり、千羽鶴が吊り下げられている。近付いてみると、その脇には石碑が四つ、木陰に包まれるように並んでいた。

「広島だからかな」

「こんなところまで被害があったの?」

 ぼくもそう思ったが、どうやら違うようだった。

 ひときわ目立つ石碑には、大久野島毒ガス障害死没者慰霊碑、と書かれてあった。

 他の石碑には説明書きのようなものが彫り付けられていた。

 それによると、かつてこの島には旧日本軍の毒ガス工場があったとのこと。

 工場で働いていた人々が毒ガスで障害を負い、長きに渡って苦しめられ、1000人以上も亡くなってしまったとのこと。

「毒ガス……?」

 ぼくたちは顔を見合わせる。

 見渡せばウサチャンとウサチャンが大好きなヤバい観光客しかいないような長閑な島とは、まるで結びつかない単語だった。

 何だろうね、と言い合いながら道なりに歩いていくと、煉瓦造りの古めかしい建物が見えてきた。

 大久野島毒ガス資料館、と書いてある。

「入ってみる?」

「うん」

 妻はどことなく神妙な雰囲気で頷いた。


 30分後。

 ぼくたちは声もなく、何一つ会話らしい会話もしないまま資料館を後にした。

 エアコンのよく効いた館内から出てきたとき、真夏の午後二時の酷暑の熱がぼくたちの頭上に降り注いでいたが、暑さは何も感じなかった。妻も同じような気持ちだったのだろう。横顔を眺めていると、妻も横目でこちらを見てきて、口にするべき言葉を捕らえかねているようだった。

「人間って……最低だね……」

「日帝の軍人クソ過ぎる……」

 ……糜爛、催涙、嘔吐剤。

 様々な毒性を持つ毒ガスの実験に、ウサチャンたちが使われたという。

 そのために、一体、何匹のウサチャンたちが犠牲になってきたのか。

 『地図から消された島』――

 平和の象徴のような大久野島の過去。ぼくたちの生きているこの時代から地続きの、陰惨な、こびりつく澱のような深い闇の部分。

 視界の端にウサチャンが見えた。その愛らしさに、今は哀悼のようなものが滲んだ。

「ここにいるウサチャンたちは……生き延びた子孫、なのかな」

 妻が静かにそう言った。

「だったら、今は、幸せなのかな」

「うん……幸せ、だったらいいね」

 ぼくにはそれくらいのことしか言えなかった。(※2)


 大久野島には島の外周をぐるっと巡る形で道路が整備されており、北側はちょっとした山道のようになっている。左手に海が見えるが今は楽しむ余裕がない。ひいこら言いながら坂を登るぼくたちの隣を、悠々とレンタサイクルが通り抜けていく。

 悠々と、ってことはないか……。登り坂を自転車で登るのは大変なので。

「あれ、あのウサチャン……」

 妻が足を止めて、山側の方を見ていた。

「足が悪いのかな……」

 そのウサチャンは片足を引きずるようにして、ゆっくり動いていた。この島で今まで見てきたウサチャンはみんな、両手両足でぴょんこぴょんこと跳ねていたのだけれど。見つめていると後ろからイノシシが出てきた。

「イノシシだ」

「イノシシだね」

 ……。

「「……イノシシ!?!?!?」」

 生きたイノシシなんて見るのは初めてだった。ぼくは旅行前にググった情報を思い出していた。大久野島には時々イノシシが現れるという。曰く、本州から海を渡って棲み付いたとか。マナーのなっていない観光客が放置したウサチャンの餌を食べて繁殖するとか。

 ウサチャンを襲って、食べてしまう、とか――。

「ウサチャン……!」

「妻!?」

 妻が日傘を投げ捨てウサチャンの方に駆け出す。そんなことをして目立たないわけがなかった。ウサチャンを抱き上げる妻をイノシシが睨みつけ、グッグッと威嚇のような声を上げる。

「ちょ、ま、ちょっと待てイノシシ」

 ヤバい。声に力がこもらない。

 後ずさる妻に向かって、イノシシが姿勢を低くし、激しく地面を蹴立てて……


 ――パシュゥン……!


 銃声、が響いた。

 ぴたりとイノシシの動きが止まり、怯えた様子で辺りを見回した。そしてそのまま山の上へと逃げていった。

 え……助かった……?

「……妻!」

 ぼくは妻に駆け寄って肩を抱いた。妻はガタガタと震えていた。当たり前だ、あんな怖い目に遭ったのなら。かけるべき言葉を探すが、ろくな語彙が出てこない。

「だ、大丈夫だった?」

「うん……平気……でも、何が……」

 銃声のした方を見ると、果たしてそこには人影があった。

 カーキ色の服を着た、中肉中背の、細身の男性に見えた。踵をぴったりと合わせ、背をぴんと伸ばして、右手につかんだ長身の銃を、杖のように地面に立てている。

「あの……」

 ぼくたちが声をかけても反応はなかった。男性はそのまま、やけにきびきびとした動きでぼくたちに背を向け、どこかに歩き去っていく。

 やがてその姿が、ふっ、と消えた。

「……消えた……?」

 妻が戸惑ったような声を上げた。ぼくも同じような気持ちだった。

 いつの間にか、妻が助けたウサチャンもどこかに消えていた。

 消えたウサチャンに、突然のイノシシに、銃を持った男性……? 不思議な出来事の連続にぼくは混乱していた。もしかしたら全部幻覚だったのかもしれない。

 いや、きっと、そうであったに違いない。

 だって、制帽を被り、足首にゲートルを巻いたその姿は――

 まるで旧日帝の、軍人のように見えたのだから。


--------

※1 リモコンが溶けた:筆者の実話である。

※2 兎、そして動物について:実際のところ、現在大久野島に繁殖している兎たちと戦時中に犠牲になった兎たちとの間に遺伝的な関係はないと言われている。だが現在でも、必要とは言い切れない動物実験や多頭飼育崩壊といった、人間との関係において不幸な目に遭う動物は枚挙に暇がない。重要なことは、現代を生きる我々が動物との関係をいかに良好に保てるのか、かつて蛮行を働いた者たちと比較してどれだけ人道的で在れるのか、という点である。

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