第2話 妻とセミ
朝起きると妻が冷たくなっていた。
「妻……?」
エアコンの温度を下げ過ぎたのかもしれない。取り急ぎエアコンを切った後、人肌で温めようと思って抱きしめてみる。ひんやりしていてちょうど良かった。
(心地良い……)
「ちょい……」
(とても心地良い……)
「重いんですが……」
目を開けると至近距離に妻の顔がある。
今日も世界一可愛かった。
しばらく見つめ合った後でゆっくりと目を閉じると、妻は無言でぼくを押し退けて自分の布団を片付け始めた。寝起きの妻は長い猫毛についた寝癖と腫れぼったくなった瞼がvery cuteで、欠伸のときにぐっと伸びをする仕草もprettyで、寝乱れた薄紅色のパジャマのめくれ上がった裾のあたりなんかfxxkin' hotだった。
「うーん、perfect」
「いやぁ……キモいががおる……」(※1)
まだちょっと冷たいようだ。
8月最初の休日が来て、ぼくたちは並んで外を歩いていた。家にいてもやることがないので基本的に土日はこうして出かけることが多い。具体的にはドトールとかケンタッキーとかゲームセンターに行く。アラサーの夫婦の過ごし方としてどうなのだろうかと思わなくもないが、子供もいないのであればこんなものだろうなと思う。
時間は午前11時。妻にしては早い目覚めだった。近くの公園を通り抜けるとき、ニイニイゼミとツクツクボウシの多重奏がぼくらの上に降り注いだ。ぼくは何となく自分の服装を確かめた。反重力ペンギンのTシャツにsemantic design(※2)で買ったネルシャツと七分丈のミリタリーパンツ。音楽会に行ける服装かは怪しいものだ。なお、妻はMAGESTIC LEGON(※3)の若緑色のワンピースを着て日傘を差している。こっちは問題なさそうだ。
まあ、セミの歌ならクラシックよりは夏フェスに近いだろう。ドレスコードは大目に見て欲しい。
「あ、抜け殻」
妻が指差した先を見ると、確かにセミの抜け殻がある。
「何かのときのために拾っとくかな」
「使い道ある?」
「夫婦喧嘩のときにぶつける用とか……」
「人の心ある?」
屈みこんで抜け殻を拾い上げると、妻が手元を覗き込んできた。
「背中が割れてるね」
「脱皮のときに割れたんだね」
「そういや数年前にセミの社会人が出てくる絵本読んだの思い出した」(※4)
「セミの社会人……?」
「いや本当にいい本なんだよ……妻も読んだら絶対感動するよ」
「どうかな……」
「そして心から叫ぶと思うよ、『セミ―――――――――――――ッ!!!!!』て」
「それはないな……」
妻の反応は芳しくなかった。マジでいい本なのに。
ぼくたちは立ち上がり、近くの樹木にセミを探した。鳴き声の方向から当たりをつけて止まっている樹を確かめる。大体は想像しているより高い位置にいたりする。やがて、いた、と妻が叫んだ。ブナの樹に止まって保護色のようになったセミが、ゆっくりと呼吸をするように発声器官を震わせていた。木漏れ日が白い宝石のように降り注ぐその下で、ぼくたちは並んでセミを眺めた。
妻が小さく言葉をこぼした。
「セミはすごいね。地上で過ごすたった一週間のために、地下で何年も過ごして……」(※5)
「切ないね……」
「大切な相手が、見つかるといいね……」
そうささやく妻の瞳が、見惚れるほどに綺麗だった。
やがて、ジッ、と短い声を上げ、セミが舞い上がる。ぼくたちは消えていくセミを見送る。セミは飛んでいく、真夏の大気の中に一筋、流星のような軌跡を描いて。
おのれの心の赴くままに、どこまでも自由に――
直後にカラスが飛んできた。
セミは食われた。
「「セミ――――――――――――――ッ!!!!!」」
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※1 キモいががおる:土佐弁。気持ち悪いのがいる、という意味。別に蛾の話をしているわけではない。
※2 semantic design:厨二っぽい服をたくさん売ってるアパレルショップ。好き。
※3 MAGESTIC LEGON:10代~20代向けの女性服ブランド。しかしアラサーでも十分着れそうな服も扱ってる。好き。
※4 セミの社会人が出てくる本:オーストラリアの絵本作家ショーン・タンの絵本『セミ』のこと。シュールな絵柄の反面、考えさせられる内容である。
※5 地上で過ごすたった一週間:実際は1ヶ月くらい生きるらしい。
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