平凡な会社員のぼくですが、家には世界一可愛い妻がいます~試験勉強とか追放して企画に一番乗りしようと思って書き始めたが、もう遅い~
広咲瞑
第1話 妻とぼく
21時過ぎに仕事が終わり、地下鉄を乗り継いで40分、ようやく家までたどり着いた。街灯の青白い明かりが『ヴィラ・バリエーレ』の入口を照らしている。千葉県某市の1DKのマンション。多分、ぼくらの終の棲家になる。
階段を昇り、見慣れた203号室のドアの前に立つ。この部屋を生活の拠点に定めてからそろそろ10年になる。青錆のこびりついたMIWAの鍵を取り出して鍵穴に差し込む。内部構造がヘタっているのか何かで、何度かがちゃがちゃ掻き回さないと開かない。そういうところは、どこかの誰かさんとよく似ている。
やがて鍵が開き、ぼくは家に入る。マスクを外してゴミ箱に捨てた後、念入りに手洗いとうがいを済ませてからリビングに向かうと、妻がテーブルにうつぶせて寝こけているのを発見する。肩より少し長い髪が妖怪のように散らばっている。
「帰ったよ」
軽く揺すってみるが、起きる気配はない。
テーブルの上にはノートパソコンと無印で買ったティーカップが並んでおり、ティーカップの中では呑み残しの紅茶がシーリングライトの薄明を揺らしている。立ち上がりっぱなしのノートパソコンの上ではツイッターが開いており、何かの検索の途中であったらしく、キーワード欄にはこう打ち込まれている。
『花澤香菜 結婚 したい』
(欲望だ……)
ぼくはその一瞬だけ、妻と同じ欲望を胸に秘めているであろう全世界の老若男女に思いを馳せた。彼らにとってのXデーたる2020年7月8日、万に一つの可能性(※1)を感じていた人々の幻想がまとめて打ち砕かれたに違いない。それを嘆くのは詮無いことだ。椅子がひとつしかない椅子取りゲームの勝者はどう頑張っても一人だけだ。申し訳ないがぼくは花澤香菜ではなくついでに小野賢章でもない。だが君は花澤香菜より可愛いと思う――いや花澤香菜に思うところはないが。
ゆっくり妻の目が開いた。
重たそうな瞼が気だるげな猫のように上下し、少し色素の薄い黒目の部分がぼくを捉える。リップを落とした唇が小さく開いて、鈴のように可憐な音を立てる。
「首が痛い……」
「そんなところで寝てるからでは」
「布団敷くのめんどい……」
わかる。
ぼくたち夫婦の寝室は和室になっていて毎日布団を敷き直さなければならない(一時期めんどくさがって万年床を決め込んでいたら一瞬で黴が涌いたのでちゃんと畳むようにしている)。ワイズマート(※2)のパートタイマーであるところの妻は夜6時には家に戻れるのだが、わざわざ昼寝(?)のために布団を敷くのもどうかなという話だろう。それは昼寝ではなくガチ寝である。そして彼女はガチ寝に入ると12時間は起きない。
「そう、すなわち君は
「ただのちくちく言葉やんけ……」
椅子から立ち上がった妻は言う。そのままトイレかどこかに行こうとする途中で、「忘れてた」と立ち止まり、ぼくの方を振り返る。
はにかんだような微笑みがぼくの胸をくすぐる。
「おかえり、夫。ただいま、夫」
「ただいま、妻。おかえり、妻」
それが毎日のぼくらの儀式だ。
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※1 万に一つの可能性:そんなものはない。
※2 ワイズマート:関東ローカルのスーパーマーケット。品揃えがいい。
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