ー灼夏ー ACT.5


 気温三十八度。あるいはさらに上。

 皮肉にも“夏”が抵抗をすればするほど、ひまわり畑を中心にして周囲の気温は上がっていく。今がどれくらいの暑さなのかもわからない。誰もそれを確認しようとしない。


 そんな中、もはや物言わぬ怪異と化したガトウは、何処へと向かうでもなく島を徘徊していた。彼が望んだ穏やかな日常、クラシカルな夏の景色は台風によって吹き飛ばされ、そして令和の猛暑に塗り潰された。だが今の彼はそれを憂うこともない。肥大化した上半身を揺らし、焼け付いたアスファルトを踏みしめただ歩く。

 上半身の重量を支えきれないのか、相対的に小さな下半身は筋肉のあちこちが裂け、うっすらと出血している。だが今の彼は痛みすらも感じない。黄色く血走った瞳は光なく、ただ前だけを見つけている。


 何も考えず静かに時を過ごしていたいという小さな願い。

 それは確かに叶ったといえば叶ったのだろう。どのような姿であれ。


―――


 気温は上がり続ける。


 次第に、不気味なものが島に現れるようになった。

 立ち枯れて黒ずんだ向日葵の死骸である。昨日まで島中に華やかな彩りを添えていた向日葵達は、異常活性と猛暑により急激に成長し、そして枯れていく。


 島のあちこちで、向日葵の死骸が立ったままぐったりと頭を垂れている。

 発芽。成長。蠕動。枯死。どこかで種が弾け飛ぶ破裂音。


「……」

「……」

 ひまわり畑から少し離れた場所に咲く二輪の巨大な向日葵。

 花びらは渇き、立派な大輪は奇妙に歪んだ形になって項垂れていた。

「……」

「……」

 どこにでも咲き、例え手折られても再生できる。それが“夏”の使者としてこの二輪が持つ特異性だった。だが、今や彼らがお互いを呼び合うことはない。この猛暑は、陽の光の下にいるものすべてに等しく牙を剥く。ヒュウガだかアオイだか、どちらかの“顔”から、破裂音と共に種が爆ぜた。瑞々しかった花びらは萎れ、不愉快なフォルムに波打っている。

 どこに咲こうと居場所はない。二輪は灼熱から逃れることはできない。


「……」

「……」


 居場所を見つけたのはその時だった。


 道の向こうから歩いてきた、異様なシルエットの人間。

 項垂れたまま、二つの大輪はぐにゃりと身をよじらせ、そちらを向く。


「……いい人がいるねアオイちゃん」

「……いい人がいるよヒュウガくん」


―――


 ガトウにもはや自我はない。異常活性によってあり余る力を発揮する場所もなく、目的すらもない。だから――そこに目を付けられた。


 丸太のような右腕の皮膚が蠕動する。ぽん、というマヌケな音と共に、一輪の向日葵が咲いた。続けて左腕も同じように、もう一輪。根ざした茎から、熱く脈打つほどのエネルギーが注ぎ込まれていく。やがて二輪の向日葵は人の顔を上回るほどの大輪を咲かせ、はっきりと色づく黄色い花弁を太陽へと向けた。


「いい身体だねアオイちゃん」

「いい身体だよヒュウガくん」

「この人は大丈夫かなあ」

「このひとはきっと大丈夫だよ」

「だって」

「だって」


「「もう自分が誰なのかもわかってないんだから」」


「だったら、助けてもらおう」

「だったら、力を使っちゃおう」


 息苦しくなるほどに暑い夏の下、こうして“それ”は生まれた。肥大化した上半身。その左右の上腕に巨大な向日葵を咲かせたバケモノ。かつてガトウと呼ばれていたもの。“夏”の在り方に焦がれ、平穏な日々を夢見ていたもの。


 その姿はもうどこにもない。そこにいるのは、ただの怪物であった。


「いい気分だねアオイちゃん。これならどこへでも歩けそう」

「素敵な気持ちだねヒュウガくん。この脚は、もう私達のものだからね」

 左右の向日葵が、グニャグニャと楽しげに揺れる。ガトウの身体から湧き上がるエネルギーは、この猛暑にも耐えるほどの力を与えてくれる。

「まずはどこにいこうかアオイちゃん。いい考えが浮かんだのかな」

「いい考えが浮かんだんだよ。ヒュウガくん」

「……ああ、わかったよアオイちゃん」

「うん、わかったんだねヒュウガくん。私達はふたりでひとりだからね」


 二輪は“夏”のしもべ。活性化し、暴走した“夏”の象徴。

 ならば目的はただ一つ。

「まだ仲間になっていない人がいるね」

「まだ“夏”が嫌いな人がいるよ」


「「もっともっと、この“夏”を好きになってもらわなくちゃ」」


―――


 勿体ないことだ、とカニエは思う。

 こんなに開放的な“夏”が嫌いな人間がいるなんて。


 カニエは子供達を連れ、集落に降りる。かつての賑わいは既になく、そこはもはや楽園ではなくなっていた。刺さるほどの直射日光を避け、家の隙間、室内、日陰という日陰のあらゆる場所に、彼らは閉じこもっていた。祭りの後も、ほとんど片付いてはいないようだ。

 根城にしていた『舞丁荘』を訪れる。しんと静まりかえったロビー。広がる蚊取り線香とカビの匂い。そこに混じる何かの腐敗臭。台所に向かうと、舞丁荘の女主人“だったもの”がいた。古い冷蔵庫の扉を開け、上半身を突っ込んだ姿で、中にあった果物を貪り食っている。いつの間にか電気が途絶えてしまったのか、冷蔵庫はもう動いていなかったが、放たれる微かな冷気に釣られてきたらしい。さらに中の果物は一日二日で進んだとは思えないほどに急速な腐敗を遂げている。異臭の原因はこれだろう。それでも彼女は無言でそれを食らっている。カニエは女主人の腰を蹴り飛ばし、勢いよく冷蔵庫の扉を閉めた。


 舞丁荘で過ごしたスローライフも決して悪いものではなかった。いつまでもそうしていられれば、と思っていた時もあった。けれどあの男児は自分の元から消えてしまった。土臭く、反抗的な、どうしようもないガキになってしまった。この理想郷を盤石なものにするはずだった祭りは不本意な結果に終わってしまった。永遠だと思っていたはずの“夏”の暮らしは、彼女の願いとは裏腹に長くは続かなかった。

「これだから人間は」

 気付けばそんな台詞が口から出ていた。理想的な“夏”を形作るのは人間ではない。人間なんて不確かで、ろくでもなくて、裏切り者で、信用ならない生き物だ。理想郷をむざむざ自分の手で壊してしまう。


 外に出ると、連れていた子供達のうち一人が倒れた。あれはタケシくんだったか、うつ伏せに倒れた後、彼の向日葵頭が急速に枯れていく。そしてその首から下の小さな身体も、まるでミイラのように黒く萎んでいく。

 カニエがこの炎天下の中でも快適に歩けるのは、連れている“夏”の化身である向日葵頭の子供達が守ってくれているからに過ぎない。そのうち一人がやられれば、当然この環境も揺らいでいく。だとすれば快適に歩ける時間はそう長くないだろう。


 カニエは腰に下げていたガスマスクを取り出し、再び自分の顔に装着した。


 自分の理想郷は自分で作る。自分が望む最高の“夏”は自分で作る。

 そのために、早くあの子を探さなくてはならない。そして――。

「あの子には、人間を辞めてもらわないと」

 見つけ次第、徹底的に蹂躙し、犯し、“夏”の虜にする。いつまでも永遠に、キレイな姿のまま傍にいてもらうために。


 ガスマスクに残るあの子の匂いをもう一度、鼻一杯に吸い込み、ゆっくりと外す。この島を包む、暑く、土臭く、磯臭く、生臭い、不愉快な空気。枯れて焦げはじめた巨大な向日葵の死骸の臭い。そのどこかに微かに香る、華のような香り。たとえ泥と汗にまみれていても嗅ぎつけられる、あの子が放つ香り。

 身体を蝕む“夏”が活性化した影響で、感覚が鋭敏になっているのかもしれない。


「いた」


 島の中腹、雑木林の奥。その奥にあの子はいる。


 見つける。そして自分のものにする。残りの奴らは悉く排除する。


 この壊れはじめた島が完全な理想郷でなくなってしまっても、たった二人の聖域にすれば良い。


 カニエは集落を後にし、山へと踏み入っていく。


―――


 欲望を無くした獣。欲望を露わにした獣。


 ふたりの“夏”の成れ果てが動き出す。


 そして。


―――


「ねえ」


 ねえ


「良い天気だね」


 いいおてんき


「夏はこうでなくちゃね」


 でも あっついね


「雨よりはいいよ」


 あなたは   あななななななななななたはははは


「うん」


 こののののののののののののの


 の 




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