ー灼夏ー ACT.4
時は少し戻る。
台風が過ぎ去り、朝を迎えた頃。
まだ誰も、この島を包む異常事態に気付かなかった頃。
「……うう」
エビナは一人、森の中にへたり込んでいた。
夏が嫌いだ。そしてそれ以上に、無力な自分が嫌いだ。
窮地から逃げられたのは偶然に過ぎない。あの闖入者は――クモカワと言ったか。カニエと同じ先発隊のメンバーだった男だ。それが何故あのようになってしまっているのかは分からなかったが、ともかくその偶然でエビナは逃げることができた。自分の力ではない。単なる偶然の果てにたまたま逃げられただけで、自分一人なら今頃あの忌々しい向日葵に侵食され、あの女のオモチャに成り下がっていただろう。
吹き荒れる嵐を抜け、一睡も出来ぬまま夜を過ごし、そして夜が明けた。薄着――衣服と言っていいのか、紐のような水着にバッテリーの切れた空調服の上着だけ――のままのエビナは憔悴していた。どこかに落ちていた安いビーチサンダルを拾い、かろうじて裸足のまま歩き回ることは避けられたものの、寒暖差と緊張により体力も気力も限界に達している。“夏”の島のどこにも逃げ場所はない。
一体この島で何が起きているのか。
ホトハラは助けに来てくれると言っていた。
それは任務ではない。でも。だから。きっと。いや。もしかしたら。
抗うべきか、諦めるべきか。迷いながらも逃げ惑い、そのうちにエビナの体力は尽きかけていた。何より必要なのは水分だ。あちこちに異常な物体……脈絡もなく設置された自販機やら、自律的に転がるスイカやら、宙に浮いたかき氷機やらがある中で、しかし自分は水の一滴すらもマトモに飲めない。奴らの生み出したものは口にしてはいけないからだ。
人間は水分の摂取なしでは半日と持たない。これからまた晴れてくるというならなおさらだ。一度あの裏の浜に戻ったほうがいいのか。だがそもそも自分がどこに居るかも分からない。いたずらに走り回った結果がこれだ。島の調査はホトハラに任せっきりだったから土地勘もない。ここにきて、エビナは何度も自分の無力さを痛感する。
途中で小さな集落も見つけたが、そこは人ならぬ異形が跋扈していた。奴らは言葉にならない言葉を発しながら“夏”を謳歌していた。焦げ臭さと土臭さ、生臭さの混じった空気が鼻をついた。
自分もこの島に取り込まれれば、ああなってしまうのだろうか。
いっそその方が楽なのかもしれない。
―――
やがてエビナは、この島を覆うさらなる異常事態に気付きはじめた。
――暑い。
少しでも日向に身体を晒せば、容赦ない直射日光がエビナの肌を焼く。空調服を剥かれたから、だけが理由ではない。この前まではこんな気候ではなかったはずだ。あまりの暑さに上着を脱ぎ捨てたくなる。だがこれを脱いでしまえば、その下は……。
脱衣の判断も出来ないまま歩く。汗がふき出る。湿気と泥と汗臭さの混じった不快な臭い。蝉の声はいよいようるさく、晒した肌にヤブ蚊が止まる。虫、暑さ、湿気。何もかも嫌だった、エビナのよく知る夏。
喉の渇きはいよいよ限界に達し、目の前が朦朧としてくる。ふらつく足を何とか支えながら歩く。歩く。だが、どこへ? 行き先もないのに?
暑さと疲労と渇きは正常な判断を鈍らせる。
幽鬼のように歩く。
あてもないまま。
白い肌の脚はあちこちが擦れ、細かい傷を作っている。痛みに悶える。それでも歩く。集落を避け。雑木林を抜け。霞む視界を平手で拭いながら。いよいよ限界に達しかけたその時――……林の中に、錆びだらけの古い手押しポンプが見えた。
一目で“なつかしいもの”だと感じた。
そういうものは、この“夏”に侵された島においてはほぼ全てがアノーマリーである。人々のノスタルジーに作用する、本来あるはずのない、都合の良い存在。おそらくあのポンプからはちゃんと水が出るだろう。だがそれは“夏”に汚染されたもの。つまり飲んではいけないものだ。
なのに。
エビナには、その手押しポンプが、少し違ったものに見えた。
正常な判断を失っているだけといえばそれまでなのだろう。でも、あのポンプだけは。あの井戸から出る水だけは、やはり他のものとは違って見える。
迷っている時間などなかった。林を抜け、直射日光に晒されながら、ふらふらとポンプの近くまで駆け寄る。ポンプはレバーまでもが錆びきっていて、掌で触れると熱さと痛みが来た。全体重をかけて押す。もうなんでもいい。汚染されていようがそうでなかろうが。とにかく水が飲みたい。エビナは全力でレバーを押す。果たして水は出るだろうか。
……出た。
―――
同時刻。島の中腹。集落から少し離れた場所。
飲むべきか。飲むまいか。
転がっていたアノーマリー『麦茶ヤカン』を手に、ホトハラは決断を迫られていた。まだいくらも歩いていないはずなのに、持参した水筒は既に空だ。重い荷物と直射日光のせいで、彼もまた喉の渇きに苦しんでいた。“夏”がもたらしたものは口にしてはいけない。それがエージェントの大原則である。しかし――。
傾ければいくらでも麦茶の出る異常物体。
掌に少しだけ汲み、意を決して一口啜る。
刹那、口の中に広がったのは――香ばしい麦茶の風味ではなく、鉄の味と生臭さだった。あまりの味にホトハラは咳き、すぐに吐き出す。苛立ち紛れにヤカンを大遠投し、近くの木陰に逃げ込み、その場にへたり込む。
ここから先はサバイバルだ。行動をしようにも補給が必要になる。何も口に出来ないというのがこんなにも苦しいとは思わなかった。
「……」
暑さは誰にでも平等に牙を剥く。それは“夏”の住人でも、エージェント達でも同様だ。この炎天下ではあらゆる行動が困難になる。エビナを見つけて、ニジノと共に脱出する。たったそれだけのことなのに。喉の渇き。疲労。睡眠不足。緊張感。ホトハラはそれでも何とか意識を保とうと歯を食いしばる。
どれくらいの時間が経っただろうか。
ぼんやりと霞む視界の隅で……やがて何者かが姿を見せた。
「のど。かわいてる。の?」
―――
いつかどこかで見たような男児。彼は自分をムーアと名乗った。
それは同行者の……クモカワが付けた名だということだった。
「増援かと思ったが、どうやら貴様もこのナムで生き抜くサバイバーのようだな」
久々に見た彼は完全に狂っていた。ホトハラが知る限り、彼は単なるミリタリーマニアの貧弱な青年だった。いや、今でも見た目はそうだ。泥だらけで、細い腕をもつ貧相な身体の米軍コスプレ男……だがその瞳には紛れもなく炎が宿っている。
先発隊として送り込まれ――山の中で“夏”に飲まれたものかと思っていたが。
「貴様が既に奴らの手に落ち、我々の行動を邪魔するようであれば裏切り者として即座に射殺してやるところであったが」
何を言っているのかまったく分からなかった。どうも彼はここがベトナムで、自分はアメリカ軍の兵士だと思い込んでいるらしい。だが――それを除けばクモカワはこの島においてまったく健在だった。
狂気を狂気で上書きした人間。
そして傍らにいる、ムーアと名付けられた男児。
「アンタもこの水を飲んだのか?」
「ムーア特技兵が調達したものだ。ベトコンどもに汚染されたものではない。貴様が我々に協力するというなら分けてやろう」
「のんで。いいよ」
「……」
思い出した。この男児は数日前、カニエの傍にいた子供だ。
てっきり“夏”に飲み込まれた者の一人なのかと思っていた。いや、今でもそうかもしれない。単に何も知らないふりをして、今度はクモカワのそばに寄っているだけなのかもしれない。とすれば、この水は飲んでも大丈夫なのか。
しばらく逡巡の後……再び意を決して飲む。
――水の味がした。
“夏”が理想と描く冷たく澄んだ水ではない。
作戦時に持ち込んだウォーターサーバーから出る蒸留水でもない。
錆と土臭さの残る、生ぬるい水。
だが、確かにそれは水だった。
喉を抜け身体に染みこんでいく……まっとうな水だった。
この男児は何者なのか。こんな水をどこから持ってきたのか、そんな疑問など霞むほどに、とにかく身体が水分を求めていた。ホトハラはその欲求の赴くままに水筒の水を飲み干した。
「このみずは。むかしに。このしまの。このやまのなかに。しみこんでいたもの」
―――
数刻後。
「……なるほど、状況はわかった。ホトハラ上等兵。単なるサバイバーではないと思っていたが、貴様もまた作戦を同じくする兵士の一人だったか」
クモカワはどうやら納得したようだった。狂っているというだけで、それ以外は理性的なようだ。米軍がどうとかベトコンがどうとか……話を合わせるには少々苦労したが、意図は伝わったらしい。
「後はオレが浜で合図を打ち上げれば仲間……あー、その……ペンタゴンからの増援が来て……ええと、この島はベトコンの手から奪還される……わけだ」
「だがその前にこちらは極秘作戦を遂行する必要がある」
「で、オレはエビナ……ええと……隊員……部隊員……を助けなくちゃならねえ」
クモカワの話を聞いたところ、エビナの動向が明らかになった。カニエに攫われた後、襲われる寸前で逃げることに成功したらしい(その時点で確保してくれていれば話は早かったのだが)。ともあれ、ひとまずは彼に感謝しなければならないだろう。
「我々のサバイバルも無限にこなせるわけではない。繰り返すが、ここから先は時間との戦いだ。こちらの部隊に合流するからには、まずあの裏切り者の大佐を見つけ出す任務を優先させてもらう。それでいいな」
ここで言う“裏切り者の大佐”とはカニエのことだ。概ね利害は一致しているらしい。言動はどうあれ、クモカワは強力な武器である猟銃を携えているし、狂っているが故に“夏”への強い耐性を獲得している。そしてこの男児は安全な水の在処を知っている。暑さでねじ曲がったこの島では何が起こるか分からない。エビナの捜索は行動を共にしている最中でやればいい。きっと出会えるはずだ。
いつまでも“夏”から逃げ続けるわけにはいかない。
ここが覚悟をキメる時だろう。
「……ホトハラ上等兵。ひとつ聞いておくが」
「ああ」
「嵐が去り、果たすべき任務は済んだ。いつでも帰還することは可能だっただろう。与えられた任務の素早い遂行こそが兵士の果たすべき役目。それを先延ばしにしてまで部隊員を探す、その理由はなんだ」
クモカワの目は真剣だった。
だからホトハラもそれに答えた。
「……アメリカ軍の兵士たるもの、同じ部隊の隊員は何よりも大事にする。アンタも軍の教育課程でそう教わらなかったか?」
二人はにやりと笑いあった。
この地獄と化した島で、二人はまだやり残したことがある。
そのためにこそ、彼らは動く。反撃の狼煙が静かにあがる。
やがて――ホトハラの背嚢に入れていた無線機が、再び何かを受信した。
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