ー灼夏ー ACT.3

「あなたの名前はタケシくん」

「……」

「あなたの名前はハヤトくん」

「……」

「あなたの名前はヒロカズ……いえ、確かこれは……あのクソみたいな元カレの名前だったわね。ああ、止めましょう。あなたの名前はコウタロウくんよ」

「……」

「ヒロシくん。カズヤくん。リョウくん。みんな可愛い男の子」


 台風の到来から一夜明け。カニエはまだ林の奥のプレハブ小屋の中にいた。向日葵頭の子供達に囲まれた彼女は、古いパイプ椅子に腰掛け、脚を組みながらどこか愉悦に浸った表情を浮かべている。“夏”の活性化によって子供達の頭部に咲いた向日葵は異常なほどに巨大化しており、その光景はさながらひまわり畑に囲まれる女王である。

 懐に残っていた煙草のボックスから、最後の一本を取り出して吸う。壁に貼られたボロボロの紙には、油性マジックで書かれた“禁煙”の文字。空気が良いと煙草も美味い。爪楊枝のような細い煙草を、じっくりと味わうように吸う。潤いを含んだ唇から、一筋の紫煙が吐き出されていく。

 ここは快適だ。この小屋の中だけは“夏”が守ってくれている。彼らは決して自分の元を離れない。大好きな子供達に囲まれて過ごす理想の夏。いつまでもここにいたい……ところではあるが。

 カニエは煙草を吸い終えると、椅子から立ち上がる。部屋の隅にはエビナを“剥いた”後の残骸が残されていた。空調服の下。ベルト。ブーツ。ソックス。簡易ベスト。ガスマスク。ああ、そういえば空調服の上は持って行かれてしまったか。転がったガスマスクを手に取り、自らの顔に添える。付着した“残り香”を胸いっぱいに吸い込む。埃とポリプロピレンと体臭が混じった独特な臭い。何度か呼吸をした後、ゆっくりと顔から離す。整った顔立ちはとろんと蕩け視線は宙をさまよう。

 ――あの子も仲間に加えてあげたい。

 カニエの脳裏に、あの白く細い肢体が浮かぶ。あの子をずっと手元に置いておけたら、それはどんなに幸せなことだろう。

 もう自分を止めるものもいない。自分の嗜好を不埒なことだと咎めるものもいない。この楽園では、己の欲望に身を任せることこそが自然な在り方だ。どんなことをしてもいい。欲しいものがあれば手に入れればいい。あの子だって、一度この“夏”に染まってしまえば、それが一番の幸せになる。嫌がることはない。嫌がる必要もない。それをわかってもらう必要がある。そもそもこの島に、逃げ場などないのだ。


 ガスマスクを置き、湿ったソックスに手を伸ばす。嗅ごうかどうか少し迷ったが、空になった煙草の箱を投げ捨て、代わりに懐に収める。それから、残されたベルトに収まった9mm拳銃も回収する。


「さ、行きましょう。みんな」

 外は暑い。だが、子供達に囲まれていれば心配はない。暑さも紫外線も虫も、みんな彼らが守ってくれる。


 そして“夏の女王”は、ボーイハントを開始した。


―――


「お前は何者だ」

「わかんない」

「そうか」


 クモカワはそれ以上聞かなかった。任務を果たせるのであれば出自がどうであれ関係はない。

「これから。どうするの?」

「ペンタゴンからの応援が来る前に、大佐を叩く」

 どんな時でもほとんど変わらない男児の表情が、その一言で少しだけ動いた。クモカワはそれを見逃さない。

「ムーア特技兵。お前は大佐を知っているのか」

「……」

「これは命令だ。答えろ」

「しっています。まいていそうで。ごはんをたべさせたりしてくれました」

「そうか」

「でも。どんどん。かわっていった。かわったのが。あのひとなのか。それともぼくのほうなのか。それはわからない。けど」


 この“夏”は停滞と変質、その両方を孕んでいる。終わらない“夏”が続くと同時に、その魅力によって留まるものを変質させていく。そうして彼らは“夏”の一部になる。罠に飲まれた獲物が、感覚を麻痺させられたままじわじわと溶かされていくように。


「確かに大佐は変わってしまった。だが……そうだな、俺にもわからない。アレが本来の姿だったのか、あるいは成れ果てなのか」


「かわることと。かえられてしまうのは。ちがう。の。かも」


 変化。停滞。逆行。変質。

「きせつも。おてんきも。しぜんにかわっていく。まいにち。おなじひなんかなくて。じかんも。じだいも。かわってく。そういうひとたちを。ずっとみてきた。おてんきのこととか。ちょっとてつだったりして」

「……」

「でも。おてんきも。みんなも。どんどんかわってく。もとにもどりたくても。もどれない。しかたないね。っていいながら。あのひとたちは。うけいれていた。さびしかったけど。それがしぜんだって」

 人々の営みは時代と共に移ろいゆく。あの日に見たノスタルジックな景色は既に過去のもの。そして人々がどれだけ願っても、時は過去へと戻らない。ここにあるのはまだ穏やかだった“あの夏”という過去を再現した何か。

 世界の理から逸脱した空間。今でも昔でもないどこか。

「あのなつ。むかしのなつ。むかしはね。たしかに。もっとすずしかったの。おてんきも。あつさも。でも。いまはちがうの。ここに。ひまわりなんてないの」

 クモカワは流れ出る汗を拭い、水筒に残った水を口に含む。


「かわってしまうことをうけいれてかわるもの」

「かわりたくないとおもってかわってしまうもの」


 台風が過ぎ去り、停滞のベールは曝かれた。望もうと望むまいと、現実は先へ先へと進んでいく。これが令和の夏だ。一方の“夏”は変質をはじめ、燃えるような灼夏と対峙する。


「俺には難しいことは分からない」

「ぼくも」

「だが、悪しき方向に“変わってしまった”者を許すことはできない」

「うん」


 この島を“正しい”方向に導き、取り戻す。


「俺達にはまだやることが残されている。作戦開始だ」


 昼を過ぎ、気温はますます上がっていく。


「このしまを。なむに。する」


―――


「ちなみに、もう一つ聞くが」

「うん」

「……お前は、この水をどこから汲んできている?」

「いど」

「そうか」


「このしまは。むかしから。ずっと。みずがすくなかったの。それでみんな。なんとかして。みずをあつめていたの」

「だろうな」

「はれのひは。だいじ。だけど。あめがないとみずもない。それがしぜん」

 クモカワは水をもう一口飲み、呻いた。冷たくもない。決して澄んだ上等な水でもない。だがこれは“水”だ。この島より出でた命の水。“夏”が作り出したそれではない。この島の――かつてここに住んでいた人々の営みを支えてきた、自然と季節と天候がもたらしたもの。


「ムーア。やはり、お前は……」


―――


 浜の表側。港町付近。


 しゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわ、と、林からは蝉時雨。


 時おり、そこに不快な羽虫の音が混じる。直射日光にあてられ、行き倒れた“成れ果て”の死体に蠅が群がっていた。陽炎の昇り立つ港。潮の生臭さに混じる、強烈な腐敗臭。見たくないもの。不愉快なもの。“理想の夏”にあってはならないもの。“夏”のヴェールが隠していたものが、次々と露わになっていく。令和の真夏の気候に晒されていく。三十八度の炎天下の中でお喋りを楽しむ住人などもういない。民家の並ぶ集落と比べ、この港は遮るものが少ない。さらにコンクリートで舗装された地面が放つ輻射熱のせいで、実際の気温はそれ以上になるだろう。


 青空の下、静まりかえった港町に波の音だけが響く。


 皆、ここからいなくなってしまった。


―――


 そして彼らは山の中へと移動していた。


 いちめんのひまわり畑。

 その中だけは快適だった。“夏”は夏に抗おうとしていた。彼らはこの暑さから逃げ、異常成長した向日葵の下で身を寄せ合って穏やかな時を過ごしていた。木陰――もとい、向日葵の陰で、いつものように昼寝をして、安らかな午後を迎えている。子供達の他愛もないお喋り。“いつも通り”の毎日を過ごす者達。成れ果ての鼾。何かが何かを擦るような音。そういったものが、ひまわり畑の中から聞こえてくる。


 そんな中。

 ひまわり畑の隅から、聞いたことのない音が聞こえてくるようになった。


 ぽん、ぽん、ぽぽん、ぽん、と、不安定なリズムで、何かの破裂音。


 いちめんのひまわり畑。

 その隅に咲いていた向日葵の種が弾け飛ぶ音。


 ……それは兆候だった。


 ひまわり畑の中心が“適温”保つ一方で、周囲の気温は上昇していた。“夏”の気温を維持する代わり、追い出された熱はひまわり畑の隅へと移っていたのだ。いかな空間であっても、熱量保存の法則からは逃れられないとばかりに。


 気温は四十度。あるいはそれ以上。

 異常な熱気に晒された向日葵の種が弾け飛ぶ。


 港町の住人達はひまわり畑に逃げ込み、変わらず“夏”を満喫している。だがもはや、彼らはその中から出ることはできない。向日葵の下で快適な空間を維持すればするほど、周囲の熱は上がっていく。


 静かに。


 ゆっくりと。


 この“夏”に侵された島は、あらゆるものが狂いはじめた。

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