ー灼夏ー ACT.2

 いいおてんき


 照りつける太陽の下。

 歩き、辿り着いた先の「バス停」のベンチに座り込んだガトウは空を見た。


 そもそも、今も昔も島にバスなど存在しない。ここには「バス停」だけがある。人々の理想を叶え、いつの間にか出現したアノーマリーである。


 あっついね

「そうだな」

 隣に座った白ワンピースの少女はサンダルを脱ぎ、ベンチから脚を投げ出している。


 みんなげんき


 げんき げんき?

「元気だ」

 バス停の囲いにギリギリ収まるほどに肥大化した上半身。元気か、と言われれば……体内から湧き出る力は、持て余すほどに強大で。

「元気すぎて、力が余っている」

 あまっ てる んだ?

 その力は、すぐにでも自分の精神を塗り潰してしまいそうなほど強く渦巻いている、だが大丈夫。まだ大丈夫だ。今のところは……それでも、いつまで自分が自分でいられるのかは分からない。これが“夏”に飲まれたものの末路なのか。

 なんとか。自分がなんとか正気であるために。

 正気を保ち続けるために。思考し続けなければならない。

 そもそも俺は何に惹かれて、何に誘われてここにきたのか。


 ああ。そうだ。


 晴天の空の下。何が釣れるかも分からない海に釣り糸を垂らし、ぼうっと一日を過ごして。あるいはこんな風に、いつ来るかも分からないバス停のベンチに座り、ぼうっと一日を過ごして。それだけでよかったはずなのに。

「俺はそんなに多くのことを望んじゃいない」

 聞いているのか聞いていないのか、ワンピースの少女は、ずっと脚をぶらぶらと揺らしている。

「ただ何も起こらず、平穏な日々であればいいと。いつまでもそんな日々がずっと続けばいい」

 だらだら だらだらだらだら

「それだけが望みだった」

 おねがい だったの?

 おねがががががががい???

「だが、それは叶わなかった。そんなちっぽけな望みこそがもっとも難しいものだった。子供の頃に過ごしていたあの夏の日々も、もう思い出の中にしかない。もう過去には戻れない。あるいは、そんなものは元から無かったのか。……ここに来てもそうだ。どこにいっても同じだった。変わらぬ日々はなかった。時は過ぎ、天気は変わり、そして身体は変質し、次第に俺は俺でなくなっていく。結局、思い通りにはならなかった」


 どこかで蝉が鳴き始める。


 じわじわ じわわじわじわじwじゃいwじあjわあじwじわと


 “あの女”の力によって天気が悪くなってからはしばらく聞いていなかった。たった数日の間なのに、蝉時雨など久々に聞いたような気さえする。


 ふいん、と耳障りな音。蚊だ。この島にはいなかったはずの蚊。


 一匹の蚊はガトウのそばを過ぎ、白ワンピース少女の肌に吸い寄せられていった。日焼けやシミなどひとつもない、滑らかなその肌に一匹のヤブ蚊がとまる。

 瞬間……肌の内側が奇妙に蠕動し、その陶器のように白い表面を突き破って黒い蛆のようなものが突き出てきた。数体の蛆はうぞうぞと蠢き、素早く蚊を捕獲して取り込んだ。


―――


 だいじょうぶ


 でも なやみも だいじょうぶ


 ぜんぶ とけて  く        から


―――


「そうか」

 ぼやけていく思考の中、ガトウはふと答えに辿り着いた。


 そうして思い悩むこと。そうして“ありもしない幻想の毎日”を思い描くこと。それそのものが無駄だったのだと。

 そもそもガトウは“夏”に成りきれていなかった。故に理想に辿り着けなかった。かつての友人や同僚を裏切ってまで“夏”を守ろうして。なまじ意識や意思などが残っていたからこそ、抗い、苦悩し、必死になって。そうやって、どこまでいっても、何をやってもしかし満たされることはなかった。苦悩の先にはまた苦悩があった。理想郷の中にも理想はなかったと悩み考えること。それがいけなかった。だから答えが出なかった。


 答えは簡単だった。そんなものは既に目の前にあった。カニエや他の人々がそうしていたように、この“夏”にただ身を任せればいい。それだけだ。叶わぬことに焦がれるのが嫌ならば、何も考えなくなればいい。ここならそれができる。変質しはじめたこの身体なら、いとも容易くそれができる。


 けれど。

「それは、幸せなのか?」

 

 しあわせ

 あったか い よ


「そうか」


 黙ってこの身体を“夏”に染めてしまえばいい、と彼女は言った。


 ガトウはゆっくりと身体を起こし、バス停から這うようにして出る。真上に昇った太陽の光が、変わりつつある彼の全身を貫く。活性化し、変質する身体の奥から、例えようのない力がさらに湧き上がってくる。力が、精神を塗り潰していく。

 自我が消えていく。最初からこうしてしまえば楽だったのだ。


「ああ。青い、青い空だ」


 いつの間にか白ワンピースの少女は姿を消していた。


 彼女はどこにでもいる。そして、彼女はどこにもいない。


 島はすべて、夏の下。


―――


 だが、もはやこの島は、あの“夏”ではない。


 朝の涼しいうちに起床し、朝食を取る。そして大人達は各々の仕事に精を出す。子供達は蝉時雨の下で遊ぶ。太陽が昇り、暑くなってくる昼間には家に戻り、麦茶とスイカで水分を取り、ゆっくりと昼寝をする。夕方、また涼しくなりはじめたらもう一仕事をし、早めの夕食を取る。過ごしやすい気温にまで下がった夜は、窓を開け、虫の音を聞きながらゆっくりと眠る。

 そんな、季節の優しさに包まれていたあの夏。

 クーラーも必要なかった、かつての穏やかなあの夏。

 ネットもテレビもなく、時間がゆっくり流れていたあの夏。


 それらが――幻想から解かれつつある。


―――


 祭りを終え、台風一過の島。


 その中で、奇妙な光景が見られるようになった。集落の中にある寂れた小さな公園。雑木林の奥。さらには港のコンクリートを突き破ってまで、各地にひまわり畑が出現しはじめたのだ。

 即ち、それこそがあの夏祭りの目的だった。“ものがみさま”の――“夏”に願いを捧げた人々がもたらした力。それによって活性化した夏は、島のあちこちに向日葵を咲かせるようになった。永遠の理想郷を体現するために。


「あっついねヒュウガくん」

「あっついねアオイちゃん」

「でも大丈夫」

「大丈夫!」


「みんながお願いしたから」

「あの娘がお願いしたから」

「この夏はまだ終わらない」

「夏はまだまだ大丈夫」


「みんなおいでよ」

「おいでよみんな」


 活性化し、数メートルの高さにまで異常成長した向日葵が、島の各地に咲き誇る。


 そして不思議なことに、ひまわり畑の中は周囲よりも涼しかった。島の気温は炎天下になるまで上昇していても、その中だけは適温だった。もちろん、不愉快なヤブ蚊もいない。猛暑が島全体を包もうとも、まさしくそれは“理想の夏”という空間を保持しようとする力の現れで。


 そこは夏と“夏”が混じる島。


 だから彼らも、そこに集まりはじめた。

 巨大な向日葵の下にある“理想の夏”を求めて。


―――


 その頃。


 ちょっと出掛けてきますんで、と言い残し、ホトハラは裏の砂浜を後にした。一緒に遊ばないの? とニジノは声を掛けたが、彼はやけに真面目な顔をしていた。こんな楽園であくせく仕事をすることなどないはずなのに。

 ニジノはまた一人になった。つまんないの、と呟き、膝を抱えるようにして砂浜にしゃがみ込んだ。「じはんき」から出てきた冷たい缶ジュースをちびちびと飲みながら。


 じはんき……――あんなところにあったっけ?

 まあいいや。


 表の浜は人工的で、殆どがコンクリートと消波ブロックによって埋められている。泳げないこともないではないが、やはり海で遊ぶならこちらだ。裏にあったこの浜はまさに理想の砂浜だった。打ち寄せる波の音。遠くまで見える水平線。ゴミや海藻ひとつない、なめらかな砂丘のような砂浜。水着に着替えたのなど何年ぶりだろう。ニジノもまた、あまり人の多いところは好きではない。レジャープールも有名な海水浴場も、夏になれば人で埋め尽くされる。知らない人に声をかけられるのも好きではない。この島にこなければ、こんな経験などできなかっただろう。

 それに、何より、ようやく晴れてくれた。

 遊びたいと思った時に、雲一つなく晴れてくれた。

 これも“お願い”が叶ったおかげなのだろう。


 足の裏。背中。尻。掌。水滴のついた缶ジュース。あらゆるところに白い砂が付着している。払っても払っても、それらは取れることがない。払うことを諦め、夏の砂浜に漂う空気をいっぱいに吸い込む。潮の匂い。■■■の死骸の臭い。トリメチルアミンと硫化ジメチルの臭い。缶ジュースの香料の臭い。何かの死臭。それらが鼻を通してニジノの肺をいっぱいに満たしていく。


 これがわたしの“理想の夏”だ。


―――


 ホトハラが去ってから少しして、入れ替わりに人影がひとつ、ゆっくりと歩いてきた。海風になびく白いワンピースの裾と、飛んでいきそうになる麦わら帽子をそれぞれの手で押さえ、彼女はひたひたとこちらに寄ってくる。


「こんなに良いところがあるなら、早く教えてくれれば良かったのに」

 少女は何も応えず、ニジノを一瞥する(麦わら帽子のせいで、その顔は見えなかった)と、履いていたサンダルを脱ぎ捨て、波の打ち寄せる浜の際まで小走りで走って行く。ああ、彼女もまた、ここで遊ぶつもりだったのだろう。だって、今日はとびっきり暑いから。


 ニジノの額から汗がふき出る。そのうちに、ちくちくと肌が焼けるような感覚。

 ここに来てから、虫除けも日焼け止めもろくに塗っていなかった。そんなものは必要ないほど、この島の天候は穏やかだったからだ。おかしいな、と思いながらも、ニジノは気にしないことにした。

 確かに、こんな日は海に入りたくなる。しばらく波打ち際で遊んでいたが、それも飽きた頃。まともに泳いだことなんて、それこそ高校生の時ぶりくらいかもしれないけれど――まあいいや、どうぜ全身が砂だらけなんだから。後のことは後で考えよう。

 ニジノは缶ジュースを飲み干すと、立ち上がって少女の元へと走って行く。太陽に焼けた砂浜は火傷するほどに熱い。それでも彼女は気にしない。だってこんなにいいお天気なんだから。


 いっしょにあそぼう


 海風が強く吹き、少女の麦わら帽子が飛ぶ。

 帽子の下の素顔は、みっちりと■■■■に覆われていた。


 そして。

 砂浜。木々の間。波打ち際。白ワンピースの少女の歩いた後。生えるはずのない場所から、向日葵が次々と芽吹いていく。それらは太陽の光を浴びて、恐るべき勢いで成長していった。


―――


 ――暑い。


 気温がどんどん上がっていく。少し歩いただけで、真夏の太陽は容赦なく降り注ぎ、全身を焼いていく。


 ホトハラはニジノを残し、テントからなるべく多くの荷物を持ち出し、島への再突入を決意した。残った“サイドミッション”である、行方不明のエビナを探すべく。


 だが、この島はもはや先日までの“夏”とは明らかに違っていた。

 まず違うのは気温だ。“夏”がもたらした快適な気温はもはやそこにない。さらに荷物で膨らんだ背嚢はストラップが肩に食い込むほどに重い。ホトハラはいよいよ喉の渇きを抑えられなくなり、サーバーから注ぎきった水のボトルを取り出す。追加の薬物と共に、慎重に、こぼさぬように少しだけ飲む。ボトル残っているこの水だけが命綱だ。この島の“現地の水”は飲んではいけない。麦茶も、ジュースもだ。それらは濁り一つなく冷えていて、美味で、それ故に“夏”に取り込まれるきっかけとなる。

 ここから先はサバイバルだ。水分も物資も尽きれば活動できない。あらゆる意味で、残された時間は少ない。早くエビナを探し出し、帰らなければ。


 島の表側に続く遊歩道を行く。なるべく日陰を選んで歩き、やがて彼は舗装された小さな道に出る。踏み入れた瞬間、履いてきたビーチサンダルの底が粘つくような感覚をもった。コンクリートの地面は、ゴムを溶かすほどに高温になっているらしい。

 ホトハラは背嚢にぶら下げたブーツを見る。この暑い中、通気性など一切ない多目的コンバットブーツ。……履き替えようとしたが、結局、思いとどまった。


 そうしてまたしばらく進んでいると、途中でひまわり畑を見た。昨日までなかったはずの場所に出現したひまわり畑だ。それも大量に。

 それまでもこういった異常現象はあった。たとえば、何でもない空き地のど真ん中に突然スイカ畑が出来ていたり……それでも、ここまであからさまに増えているのはおかしい。それもひまわり畑だけが。異常活性化しはじめた“夏”が、島のあちこちを覆い尽くしているのだろう。

「……」

 ポケットに入れたウォークマン(1982年製WM-2)を取り出し、イヤホンを耳にはめる。大丈夫だ。これはまだ使える。PLAYボタンを押し、ボリュームのツマミを最大にする。

 ここの島はまともな状態ではない。

 少しでも気を抜けば取り込まれる。

 余計なことを考えるな。

 今は任務に集中しろ。

 ホトハラは前を見つめ、汗を拭い、進んでいく。じわじわと、じわじわと、じわじわじわじわじわと蝉の声。夏が身を蝕んでいく。


 ……やがて蝉時雨にまぎれ、背嚢にしまい込んだ通信機が微かな動きを見せた。


 それはまったくの偶然だった。他の荷物が背嚢の中で当たり、発信ボタンが押下されただけ。それだけのことだ。そもそもこの島ではあらゆる通信が遮断されている。故にまったく役に立たないと判断され、ホトハラは使用を諦めていた。そのはずの無線が――ほんのわずかな瞬間だけ、外部へとノイズを発信した。


―――


『……』

「……」

『……――……』

「……聞こえるか?」


 ザ ザザザ ザ


「おい……………」

 島の外で待機していたエージェント・タコの通信機が、奇妙なノイズを受信した。通信主はホトハラ達に持たせていた通信機からだ。

「……ダメか」

 ノイズは何度か放たれ、やがて消えた。


 そもそもあの島での通信はアテにならない。それは分かっている。だから「裏の浜から照明弾を打ち上げること」を副次的な脱出の合図にしていた。だが結局、あの台風の中でそれは打ち上がらなかった。エージェント達の回収は失敗に終わったと思われた。それでも……と、ホトハラとエビナ、そしてニジノを“漁船”で送り込んだタコは、作戦終了を告げられるまで隣島で待機していた。それは彼なりの責任感だった。


 まだ、奴らは生きているかもしれない。


 タコは停泊していた漁船に乗り込み、“夏”の島へと近づく。回収地点である砂浜が見える側まで回り込み、双眼鏡を取り出す。


 だが、そこにあったのは異様な光景だった。


「なんだ、ありゃ」


 かつて見たあの“夏らしい”砂浜は既に無く。


 そこは大量の向日葵で埋め尽くされていた。

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