その夏に何の願いを?

 ――ハレの日に、雨。


 風雨の吹きすさぶ中を、ニジノは歩いていく。

 大人達も、子供達も、“夏”に蝕まれた成れ果て達も、自分を中心として、歩幅を合わせるように、一歩一歩。「歩いているだけでいいから」とカニエがそう言ったように、祭りの儀式自体はきわめてシンプルなものだった。難しいことをやる必要はなく、ただ島の道をゆっくり歩き、目的地である神社に向かっていく。まずはそれだけ。


 祭りは雨天決行。


 ニジノはずっと雨が嫌いだった。都会にいれば、なるべく濡れないように歩くことになる。荷物は増えるし足元だって鬱陶しくなる。雨が好きな人間なんて一人もいない。まして、台風ともなれば尚更だ。誰もが避けたいその天気に、彼女はずっと呪われていた。

 もし自分が巫女に選ばれていなかったらこんな天気を呼び寄せることはなかっただろうか、と何度も後悔した。せっかくの祭りの日に、と謝りたくなった。

 けれどそれは杞憂だった。ここに居る皆は、そんなことは気にしなかった。こんな天気じゃなければよかったのにね、なんて言う人間は一人もいなかった。


 こっちへおいでよ


 決して幅広いとは言えない、それなりに傾斜のある通りを歩いていく。誰も傘など差す者はおらず、全員がズブ濡れだ。それは巫女であるニジノも例外ではない。濡れた衣装も袴も身体に張り付き、履き慣れない草履は一歩踏み出すたびに湿った音を立てる。髪もびちゃびちゃに濡れ、化粧もあっという間に落ちた。だけど――だけどその天気とは逆に、気分は晴れやかだ。快晴の青空だけが夏じゃない。この湿気も風雨も、それもまた夏なのだと。ニジノだけでなく、ここにいる皆がそう思っている。


 そう。

 台風なんかが来たところで、この“夏”は終わらない。


―――


 こっちにおいでよ


―――


 一方。


 人目を避け、立ち並ぶ民家の隙間を縫うように、ホトハラは単独で島の中を進む。びょうびょうと吹き荒れる風のせいで、些細な物音なら気にしなくて良いのが幸いか。ばたつくレインコートの裾を縛り、彼は身を隠して“祭り”の現場に近づく。


 ホトハラは超常的な現象を信用していない。まさかあの“ゆるふわちゃん”が来ただけで――いや、“送り込んだ”と言ったほうが正しいか――台風が直撃するなんて、当初は信じてなどいなかった。けれど、偶然か運命か、それは事実になった。

 まず第一段階のアテは外れた。この台風で夏祭りが中止になれば、それだけでミッションは達成だ。後は彼女を連れて帰ればいい。「とにかく、イレギュラーなことを引き起こすのが重要なんだ」とハチスカは言っていた。だが実際は、荒天でも祭りは決行された。これがまずミッションの第一段階。ここまではある程度の想定通り。

 そして第二段階は「祭りを途中で終わらせ、彼女を連れて脱出すること」。つまり撤退だ。そのタイムリミットは――台風が過ぎるまで。ここから先は時間との勝負。それまでにホトハラはニジノを攫い、そしてエビナも救い出す。“可能ならば”ではない。“必ず”、“二人を連れて”脱出しなければならない。


 なぜなら、エビナは――“仲間”だから。


 民家と民家の間からのぞく隙間で何かが動く。巨大なピンク色の肉の塊。彼?……はこちらに気づきもせず、隙間にみっちりと挟まった状態で通りのほうを眺めている。時折、何か呻き声をあげながら。

 異様なものは他にもあった。何故かそこだけ雨をはじくように存在している空間。鳴動しながら宙に浮くヤカン。逆さまになって地面に埋まった「飛び出し坊や」。麦茶が流れでる水路。いわゆる“アノマリー”の数々である。昨日まではあまり見なかった数々の現象が、ここにきて活性化しているようだ。

 ホトハラはポケットの中から錠剤を取り出し、水なしで噛み砕いて飲んだ。今朝も飲んだばかりのものを頓服するのはもちろん用法違反。だがこんな異常な現象、異常な空間において正気を保つのは難しい。自分自身が狂わない限りは。

 副作用か緊張か、ひどく喉が渇き、口の中が粘つく。それでもここの水を飲むわけにはいかない。


 ともあれ、あの“行列”が一定の速さで進行しているなら、事前に待ち伏せすることはできる。風雨の中、存在を気取られぬように移動し、事前に下調べしていた場所に辿り着く。狭い通りの……そこだけ少し開けた場所。そこなら“巫女”を奪って逃げ出すことはできる。当然、奪取した後の逃走ルートも頭の中に入っている。伊達にここ数日の間に島をブラついていたわけではない。元よりホトハラは慎重な性格だ。考えることは得意ではないが、生き残る為の機転なら出る。タンクトップに金髪といった場違いな浮ついた格好も、あくまで“夏”に対抗するための鎧に過ぎない。


 腰ホルスターからサイドアームの拳銃を抜いて確かめる。ショットガンを落としてしまったのは痛手だが、どのみちこの狭さでは誤射の危険もあるだろう。

 これは任務だ。いざとなれば取り巻きの住民達を排除する必要も出てくる。あの連中はもう“夏”に飲まれている。そのための射殺なら許可されている。例え人間であっても。例え人間の形をしていても、あれは……。


「撃てるのか?」


 背後から、ホトハラの思考を代弁するかのような台詞。決して大きな声ではないが、強風の中にあってなおそれははっきりと耳に届いた。聞き覚えのある声。その正体は分かっている。出来ればもう会いたくないと思っていたのに。


「……アンタか」

 後ろを振り向く。いかにも夏らしいTシャツにジーンズ姿。その上にエージェント偵察部隊支給のチェストリグを装備した狂人が一人。もちろん彼もまた傘など差していない。全身がズブ濡れだ。

「エージェント・ニジノは任務を果たした。だがそれだけだ。彼女は俺達の仲間になろうとしている。これ以上の手出しは止めてもらう」

「そういうわけにもいかねえんだよ、ガトウのダンナ。こっちだって“仲間”に手出しされてんだからな」

 ガトウはチェストリグから取り出した拳銃をホトハラの頭部に突きつけている。

「ならお前達も俺達の仲間になるといい」

「この前と言ってることが違うじゃねえか。それで何だ。みんなであのピンクの肉のバケモノみたいに成り下がってモゴモゴしながら、このクソみてぇな“夏”の中で楽しく暮らしましょう、ってか?」

「それが彼女の望みなら、俺はなんでもいい」

「昔のアンタらしくねえ台詞だ。もうすっかり別人なんだな」

「元からこうだったよ、俺は。ただゆっくり、いつまでも変わらない日々を過ごしていたかったんだ。それが俺の願いだった。そしてこの“ハレの日”が終われば雨は止み、またいつも通りに過ごせる。たとえゆっくりと変質し、己の我が消えようとも、俺はそれでいい」

「そうかい」

「お前の願いは何だ?」

「オレか?」

 またどこかの看板が吹き飛んだのだろう。

 通りの向こうから、がこん、と大きな音が響く。

「オレは」


 その音を合図に、ホトハラは真横に飛んだ。


―――


 おいでよ


 あそぼう


―――


 日本の各地、特に島には古い伝承の残る場所も多い。その中に“禁足地”と言われるものがある。入ってはいけない、あるいは入る者の限られた神聖な場所。そして多くは祀られた神がいる地――つまり神社だ。


 だからもっと荘厳な場所なのかと思っていた。それがニジノの率直な感想だ。


「ここは“夏祭り”の日だけに踏み入ることが許される場所なのよ」

 傍らに寄り添う こっち 舞丁荘の女主人が言う。その顔はどこか恍惚とした表情をしていた。

 山の中腹、開けた場所にぽつんと建てられた小さな社。細かな造りの建造物があるわけでもない わあ 古い神社。そこに至るまでにあった鳥居もかなり古ぼけていて、元からあった朱色も きたんだね すっかり剥げ落ちてしまっている。おそらく本当に誰も やっときた 入ることがなかったのだろう、あらゆるものが朽ちかけ、手入れもされていない。こんな状況で厳かな気持ちになるか? と言われても、そういう気持ちもない。


 あなたの


「懐かしいわねえぇ」

 巫女衣装を仕立て上げた老婆が おねがい? 涙を浮かべながら言う。

「こんな時だってのに、カニエさんったらどこに言っちゃったのかしら」


「さ、ニジノちゃん。ここから先はあなた一人で入って頂戴」


―――


 こ    っち      おいで


 あそぼう!


―――


 みんな の うみ そら


 おねがい ある?


―――


 草木の繁る石段は、やはりまともに歩けるような手入れもされていない。社に至るまでの道を、足元を確かめながら一歩ずつ進んでいく。


 石段を登りきったところで後ろを向く。石段の下、鳥居の向こうに島の住民達。

 ここからの眺めはとても良かった。見下ろした そっちじゃないよ 先には海と水平線が広がっている。こんな天気でもなければ青空と海のコントラストが美しいだろう。

 だが今は――灰色の空と、タールのように黒くうねる海だけがある。


―――


「帰ってこないのかしらね、カニエさん」

「それにほら、あの人も」

「ああ、何て言ったかしら。あの釣りが好きな」


―――


 なかま!


―――


「きっと忙しいのよ。ほら、こんな天気だから」


―――


 ……こんな天気?


―――


 どうしたの?


―――


 見守る人々の視線を集めながら、ニジノは小さな社の中に入っていく。

 巫女衣装の懐から封筒を取り出す。雨でグシャグシャになった一枚の紙を、破れないよう慎重に開く。書かれているのは“祝詞”のカンニングペーパー。結局、祭りの当日までに覚えられなかった文言。それでも構わないと言っていた。だからここで読む。それでこの祭りのイベントは終わりだ。


 ――こんな天気だから。


 社の中にはぼろぼろになった紙垂と祠があった。その前に立ち、ぼそぼそと祝詞を読み上げていく。書いてあることの意味など一つも分からない。それでも読む。


 き に いった? なつ


 気に入ったよ。みんないい人で。私のことを温かく迎えてくれた。本当に、みんないい人だった。できれば、もう帰りたくないくらい。


 なつ


 よかったよかったよかったよかった よかったよかったよかったよかった


 だから。だからこそ――私は。


 祝詞を読み終え、顔を上げる。傍らには白ワンピースの少女が座っていた。どこから入ってきたのか、外はあんなに大雨なのに濡れてすらいない。さらさらとひらめくワンピースの裾と、そこから伸びた細く白い足。


 よかったよかったよかったよかった わたしも よかった


 良くない。ここにいる人はみんないいひと。だからこそ、やっぱり私はこの呪いが憎い。


 だから。


 ニジノは何かに導かれるようにして祠に手を伸ばす。そこに祀られていたものを手に取る。黒曜石のようなもので出来た、長さ20cmほどの、長方形の石版。ぼろぼろになった社の中にあって、それは埃ひとつなく、黒い輝きを放っていた。


 これが“ものがみさま”だ。

 なんとなく、直感で分かった。


 こっちへおいでよ


―――


 おねがい?


―――


 そう。巫女になった人間は、何か一つ願いを叶えられるという。誰が叶えてくれるのか。何でも叶えてくれるのか。きっと“これ”に祈ればいいのだろう。


―――


 うみ  そら みんな


 おねがい


―――


 みんな「雨でも気にしない」と言ってくれた。

 嬉しかった。でも、きっとそれは。


「私は」


 誰だって、雨なんか嫌なはず。雨なんて、ここに相応しいものじゃない。私が思い描いていた“理想の夏”は違う。いつまでも青い空と、海と、爽やかな暑さがあって、清々しいものでなければならない。それがきっと“夏”のあるべき姿だから。


 きっと みんな も


 だから。


「それを望んでいる」


 だから。


「お願いします――ものがみさま」


 だから。


「私の願いは」

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