その夏の雨の下で?

 ――ニジノが社で儀式を果たす、その数刻前。


「晴ればかりの天気など、狂っている」


 人が生きていく中で水は絶対に必要なものだ。ましてやこの島では川もない。貯め込んだ雨水だけが生命線だった。かつてはそうやって皆が命を繋いできた。晴ればかりではすぐに干上がってしまうだろう。ある時には晴天祈願を。ある時には雨乞いを。それがバランスだ。それが自然だ。


 だから、雨はいい。


 激しい雨音はナムのスコールを思い出す。

 湿気混じりの空気。草木と土と泥の臭いに噎せ返るような空気。

 それが命だ。それが恵みだ。それが自然だ。


 だから、雨はいい。


 それにもう一つ重要なものがある。

 ぬかるんだ土は足音を隠す。強風の音は物音を隠す。

 戦争とサバイバルは計画や準備だけで決まるものではない。

 天気の恵みを味方につけてこそ、確実な遂行が可能になる。


 だから、雨はいい。


「そうだろう、ムーア」

「あめも。はれも。みんな。だいじ」

「晴ればかりの天気などあってはならない。そんなものは“夏”ではない」

「だいじ」


 泥だらけになった男児の目は、いつの間にか元の栗色の瞳に戻りつつあった。


「この子の名前はヒュウガくん!」

「この子の名前はアオイちゃん!」

 林の真ん中に、向日葵が二本。木々に囲まれた中にあっては風雨も少しは防げるのか、二輪はクモカワの前に悠然と立ち、不定期に揺れている。

「こんな天気にどこにいくんだろうね」

「こんな天気なのに不思議だね」

「お祭りはいかないのかな?」

「お祭りなのに、いかないのかな?」

「みんなお祭りが大好きなのにね」

「みんなお祭りがだ――」

 クモカワは無言のまま大型のSOGナイフ(以前にネットオークションで購入したもの。オリジナルのものは希少なためこれはレプリカである)を横薙ぎに振り、並び咲く二輪を刈り取る。茎から両断された向日葵は濡れた地面にべしゃりと落ち、一言も発さなくなった。


「このしまには。もともと。ひまわりなんて。なかったの」


「だろうな」


 こんなところで止まっている暇はない。落ちた向日葵の大輪をミリタリーブーツで踏みつけつつ、クモカワは雑木林を進んでカニエの後をつけていく。あれが何をしようとしているのかは分からない。だが、やっていることは明らかな離反行為だ。

「ムーアよ」

「うん」

「今一度言う。これ以上の同行は何があるかわからない。お前を守りきれる保証もない。それでもいいのか」

「いまは。かえるところ。ない。から」

「そうか」

 ついてくるな、と言い残したはずの男児は、いつの間にかクモカワの後ろにいた。本来ならば現地の子供を作戦行動に同行させるなど軍務違反。だが彼は潜伏中のクモカワに協力する姿勢を見せた。それに、この島の山野にもそれなりの土地勘があるようだ。

 ならば彼はもはや単なる現地の子供ではない。

「ムーアよ」

「?」

 クモカワは立ち止まり、男児に視線を合わせるようにしゃがみ込んだ。背嚢のサイドポケットから油性マジックを取り出し、ぬかるんだ泥をマジックの先に練り込む。それを彼の、瑞々しくつるつるとした頬に摺り込んでいく。剥きたての卵のような男児の顔が、あっという間に薄汚れた迷彩模様に染まる。

「今からお前も“ソルジャー”だ」

「そるじゃー」

「ムーア特技兵。共に作戦を遂行するぞ。いいか。返事はイエス・サーだ」

「いえす。さー」


―――


 みんな。いっちゃった。

 でていっちゃった。


 かわりに。あのこがきた。


 それで。

 ぼくもこのしまのこどもになった。


―――


 同時刻。林に囲まれた材木置き場にて。


「ここなら邪魔も入らないわね」

「……」

「島のみんなはお祭りに夢中。でも私は、そもそも“夏”になんて興味がないの。それはこんな風になった後でも同じ。そして今はそれよりもっと楽しいものを見つけた。それが貴方。ここにいる子達も私と同じ。わかるでしょ? あたらしい“ともだち”が出来るって喜んでいるわ」


 材木置き場の近くには営林署の管理施設と思しき小さなプレハブ小屋が建っていた。もう何年も使われていないのだろう、中はほとんどの家具や棚が散逸しており、木屑やカビの臭いがひどい。割れたガラス窓からは雨風が吹き込んでいる。

 その中に、エビナは椅子に座ったまま縛り付けられていた。傍らには満足そうな表情でエビナを見下すカニエ。そしてその周りには、頭部が向日葵にすげ変わった子供が数人。さながら、ひまわり畑に囲まれているような状況だ。彼らは身体を小刻みに揺らしながら、エビナとカニエの二人をその大輪の瞳で見つめていた。

「お前のことは知ってる」

 ガスマスクごしに、絞り出すような声でエビナが呻く。

「あら嬉しい」

「ボクは資料を読み込むのが好きなんだ。だから作戦に関わるエージェントのことについても、調べられる限りの範囲ではだいたい把握している。……お前がどうして前職をクビになって“こんな仕事”についたのかも」

「そうなの」

 特に驚く風なこともなく、カニエは腰をかがめ、エビナの装着しているガスマスクに手をかけた。細く節ばった指先が、にゅるりと滑らかな手つきで固定ベルトを外す。

「止めろ!」

 手足を拘束されたまま、エビナはぶんぶんと首を振る。その抵抗も虚しく、エビナの顔からガスマスクが外される。


「うん」

 カニエの顔が恍惚に緩む。ガスマスクの下から現れたのは、中性的な――少年のような顔立ち。

「その顔が見たかったのよ」

 顔を晒されたのが堪えたのだろう、微笑むカニエと対照的に、エビナは屈辱に歪んだ顔でカニエを睨み付ける。

「そう、その顔。やっぱり美少年は、恥ずかしがってる顔がいちばんキレイ」

「マスクを! 返せ!」

「エビナちゃん。私も、貴方のことを調べたのよ。前から知っていたの。目をつけた対象(あいて)は、よく調べないと気が済まないから」


 元エージェント・カニエ。三十代。女性。前職は大手外資系企業の管理職としてキャリアを積んでいたが、ある時、十代の少年をつきまとっていたことが発覚したため懲戒解雇。その後に転職。今に至る。


「貴方、顔や肌を晒すのが嫌なんでしょう?」

 そう。エビナがガスマスクと空調服に身を包んでいたのは、夏に“汚染”されることを防ぐためだけではない。夏は大嫌いな季節。皆が肌を晒す不愉快な季節。エビナはそれを避けたかった。“夏”という季節を駆逐するために。嫌いな夏と対峙するために。そのために、こんな格好をしている。


 エージェント・エビナ。二十代。男性。コンプレックスと、それによるトラブルで外出恐怖症になり、高校を中退。その後は親のすすめで就職。顔や姿をむやみに見せなくてもいいという条件付きで任務に就き、今に至る。


「勿体ないわ。そんなにキレイな顔なのに」

「やめろ!」

 身体をよじって抵抗を続けるエビナを、カニエはうっとりと見つめる。その瞳はいよいよ強く澱み、薄汚れた向日葵の色彩を宿していた。

「縄を! 解けぇ!」

「いいわよ」

 あっけなく応えたカニエが、手を縛る縄を解く。解放された瞬間に飛びかかろうとするエビナの目論見は、しかし周囲の“こどもたち”によって失敗に終わる。

「どっちみち、そのままじゃ脱がせられないから」

「な……」

 エビナは絶句した。

「そんな着ぶくれた空調服なんて、貴方には似合わないものね。充電も切れちゃって、蒸し暑くてたまらないでしょう?」

 うつ伏せに倒れ込んだエビナに向日葵たちが群がる。もはや人であるかどうかすら分からないのに、やたらに体温が高かった。生暖かく土臭い、不快な手で四肢を押さえつけられる。


 カニエは満足げな表情を浮かべたまま、いつの間に持ち込んだのか、部屋の傍らに置かれたボストンバッグの元へ向かう。

「私ね。今でも夏に興味はないの。この島の暮らしも、決して悪いものじゃなかったけれど、それでも不満はあった。この前までは“あの子”が傍にいてくれたから充実していたけれど――今はもう変わってしまった。土にまみれてしまった。もうダメ。だから、ここ数日はずっと欲求不満だったのよ」

 カニエの異常な性質については把握している。だから任務においてもできる限り接触はしたくなかった。故に、ホトハラに任せた。それに――万が一接触しても、もうすっかり変わってしまっているだろうと思っていた。そういう希望的観測があった。けれど実際は違った。“夏”は人間を変質させる。人間の欲望を露わにし、利用する。それも悪い方向に。

「ふふ、ふふふ。通気性の悪い服。ふふ。私にはわかるの。その下の……すべすべで、しっとりと湿った、肌の匂い……」

 もっと慎重に動くべきだった。もっと早くに無力化させておくべきだった。

「夏に興味はないわ。けれど、一つだけ、大好きなものがあるの」

 それほどこの女の欲望はタチが悪い。

 特に――自分にとっては。

「みんな大事なことを忘れてるわ。私はそれも不満だった。夏といえば海。海といえば――」


 ボストンバッグから取り出した……白い……布。

 いや。布というにはあまりにも小さく……何?


 あれは……紐?


「――海といえば、水着でしょう?」


「やめ」

 指でつまみ上げた白い紐をぷらぷらと揺らし、カニエがにじり寄る。

「やめろ……」

「貴方にぴったりだと思って、自分で作ってみたの」


「……やめろぉおおおおおお!」


―――


 同時刻。民家の並ぶ通りにて。


 ホトハラはガトウに肉薄し、至近距離で拳を振るう。

「クセぇな、アンタ。クセぇんだよガトウのダンナ。生臭さと土臭さと湿り気の交じった不快な臭いだ」

「俺にはもうわからないよ。自分の臭いも、夏の匂いも」

 ガトウは拳を振り払い、そのままホトハラの胸ぐらを掴み、民家の壁に叩きつけた。衝撃でホトハラの肺から空気が漏れる。それでもなおホトハラはなおガトウを睨みつけ、右膝を脇腹に叩き込む。よろめくガトウの隙をついて距離を取り、拳を構え直す。


 ガトウの拳銃はホトハラが弾き飛ばし、側溝へと落ちた。一方、こちらのホルスターにはまだ残っている。素早く解決するなら、ガトウの眉間に撃ち込めばいい。

 けれど――その手段を取るにはまだ早い。ホトハラはそう判断した。


 あるいはそれが甘い判断だったとしても。


「ダンナ、本当に夏が好きだったのか?」

 ガトウの瞳もまた、薄汚れた向日葵の色彩にいっそう濃く染まっている。

「いや、今でもさしたる興味はないさ。何でもよかったんだ。平穏に過ごせればどこでも。なんでもよかった。夏祭りだって好きなわけじゃない。俺はハレの日よりも、ケの日がずっと続くほうがいい」

「それがアンタの欲望なんだな」

「そうだ。だから祭りも、ただ無事に過ぎてくれればよかった。……あの女が巫女になるのは想定外だったが、それだって無事に儀式が終われば、また日常が戻ってくる」

「こんなモンは日常でもなんでもねえよ」

「そうかもしれない。だが、俺にとってはどうでもいいんだ」

 表情の消えたまま、ガトウは拳を鋭く突き出す。ホトハラはそれをいなすようにガードする。……拳が、重い。

「こうしていると、学生時代を思い出す」

「そうかい」


 元エージェント・ガトウ。三十代。男性。前職は中小企業の営業職。激務が元で身体を壊し、転職。今に至る。なお、学生時代はボクシング部に所属していた。


「身体が強いのが取り柄だった。それで何でも出来ると思っていた。かつての仕事の日々も、俺にとっては変わらない日常だった。今にして思えば、それが異常だと気付きたくなかっただけだったんだがな」

「クールな頃のアンタはカッコよかったぜ。強い男、って感じだった」

「そうか」

 左、右、と繰り出される拳を避け、ホトハラは身体ごとガトウにぶつかる。ガトウの動きがボクサーというなら、ホトハラの動きはケンカだ。

「でも今は見る影もねぇや」

 インファイトに穴があると踏んだホトハラは再び無理やりに肉薄し、腰を掴んだままガトウを押し崩しにかかる。

「オレぁ、こんなとこで止まってられねえんだよ」


 エージェント。ホトハラ。二十代。男性。大学中退後にフリーターとして過ごしていたが、ある事件を境に転職。今に至る。なお、姉が一人いる。


「だから! コイツで! どうだ!」

 雨雫に濡れた金髪頭を振り上げ、ホトハラはガトウに向かって至近距離からの頭突きを見舞う。たたらを踏むガトウに、何故かそこに落ちていたヤカン(超常的に出現したアノーマリー。傾けると麦茶が無限に出る)を掴み、振り下ろす。

「ぐっ」

 充分に質量を有したヤカンの衝撃は重い。ガトウは膝をつき、水飛沫をあげながらその場に倒れ込んだ。

「どうだい……ボクシングじゃ、凶器は使わねえだろ」

 ヤカンを放り投げる。横倒しになったヤカンから、とめどなく麦茶が溢れ出てきた。どういう仕組みになっているのかわからないが、あの麦茶を飲まないほうがいいことだけは確かだろう。

 ホトハラは倒れ込んだガトウをしばらく見つめ、それ以上動かないことを確認すると、踵を返してそこを後にする。“こんな風”に変質していても――それでも彼は、ガトウを撃つ気にはなれなかった。


「……オレだって、変わらない日常ならそれでよかったさ」

 彼は誰に言うでもなく呟く。


 だが実際は変わってしまった。自分ではなく、姉が犠牲になった。

 昔は好きだったはずの“夏”によって、姉は変わってしまった。

 だからホトハラは夏を嫌いになった。自分を変え、日常を変えた。


 目的は一つ。“夏”の思惑に抗い、このハレの日をぶち壊しにすること。

 そしてもう一つ。“夏”にとらわれた仲間を、必ず救うこと。


―――


 ――クモカワの目は何にも染まっていない。


 向精神薬など飲んでいない。

 にもかかわらず、彼は“夏”に染まることはない。


 目的は一つ。この島に巣くう敵を暴き、援軍が来るまでに任務を果たすこと。

 そしてもう一つ。この島にとらわれてしまったかつての上官に制裁を下すこと。


 エージェント・クモカワ。二十代。男性。元学生(二浪)。ミリタリーマニア。学費の使い込みがバレ、親からは勘当。大学中退後、就職。今に至る。


 そして今の彼はただのミリタリーマニアではない。エージェントですらない。ナムのジャングルで過酷なサバイバル生活をこなしながら任務を遂行する軍人である。


 つまり彼は狂っていた。先日の潜入任務において彼は“夏”に飲まれ――そして、自己催眠をかけることで対応した。それが今のクモカワだ。


「あの場所か」

「このへんに。ほかに。たてもの。ないから」


 狂ってしまったからこそ、狂わずにいられた。


 M1カービン(をベースとするただの猟銃)を構え、SOGナイフを口にくわえ、伏せていた身体をゆっくりと起こす。その目つきは澱みながらも、決意に満ちている。


「なかから。へんなにおいがする」

「お前がそういうなら、間違いないのだろう」


 この状況では精神を病むのも無理はない。だがそれを乗り越えるのがプロであり、軍人だ。もしこの状況で狂い任務を放棄した者がいるなら、許すことはできない。それが、かつての上官であっても。


「ムーア特務兵」

「いえす。さー」

「これから俺の突入を支援しろ」

「いえす。さー」

「だが無理はするなよ。いざとなればお前だけでも逃げろ」

「のー。さー」


 クモカワは笑った。


「なるほど。……今のお前のほうが、他の誰よりもよほど軍人らしい」

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