その夏に……さ……て
――本土。某所。前線施設にて。
『――気象台からの報告に寄りますと……に発生した台風――号は……本日昼頃から急激に進路を変え……予想される暴風域は――と――……気象庁は本日……県に暴風注意報を発令。これから明日、明後日にかけて波浪警報、ならびに暴風警報に変わるおそれもあり……お近くにお住まいの皆様は今後の情報に気をつけ、充分に――』
ラジオから流れる気象情報を聞きながら、エージェント・タコは眉根を寄せる。
彼が――ハチスカが最初にこの作戦を提案した時は、タコはにわかに信じることなどできなかった。人間がやることだけならいくらでも計画できる。だが、どれだけ周到に準備をしたところでどうしようもないものもある。上手く行くかは神のみぞ知る。そんなどうしようもなく馬鹿げた作戦にエージェントを何人も投入すること自体、本来ならば正気の沙汰ではない。それでもハチスカは真剣だった。プランを練り、上層部に立案し、実行した。彼は“夏”についてよく知っていた。
どんな常軌を逸した事象も“夏”は叶えてしまう。
どんな常識も“夏”は簡単にねじ曲げてしまう。
どんなジンクスも“夏”の元では成立してしまう。
だからハチスカはそれを逆手に取った。それで――彼女を送り込んだ。
すべてが完璧な作戦などない。上手く行くかはやってみないと分からない。だが。
「ここまではお前の予想通りだよ、ハチ」
奴らに勝つには、奴らを利用するしかない。
奴らに対抗するなら、奴らに合わせるしかない。
タコは気象図の映ったモニターを見つめる。
台風の進路が、あり得ない方向に曲がっていた。
―――
――島。雑木林の奥にて。
「ホーチミンは」
「ろくでなし」
「いいぞ、助かった。ここに勲章があれば、その胸に着けたいところだが」
男児から手渡された水筒から水を一口飲み、空を見上げる。
来るぞ来るぞと、木々が風にざわめいている。
「この空気。来るのは間違いないな」
森の奥、風に揺らめく焚き火を見つめながら呟く。しんと静まりかえっていた森に吹き込む、ぬるく湿った風。
「くる。ね」
「ああ」
男児につけた“müa”の名がそれを呼び込んだか。
この島ではサンダーチーフのナパームも、ヒューイの航空支援も望めそうにない。生き残り、作戦を果たすために頼れるのは己のサバイバルテクニックと戦術――そして、機を逃さぬ直感のみ。その機会が、これから来ようとしている。
「ムーアよ、お前に帰るところはあるのか」
「あるよ。でも。いまは。ない。かもしれない」
「ないのなら、明日からはしばらくここに隠れているといい。じきにこの島は荒れる。だが我々は勝つ。そして作戦が終われば、増援も来るだろう」
ぼろ布のタープテントの下、クモカワは風に吹かれる焚き火を見つめながら言う。
「このしまから。でるの?」
「……お前もそれを望んでいると思っていたが」
「ちがうよ」
「……」
「ぼくは。この。しまの。いまは……“なつ”のしまの。こどもだから」
男児の目が、その光彩が、黄色と黒のマーブル模様に揺らめく。不穏な空気を感じ取ったクモカワは一瞬険しい表情になり、それから続ける。
「違う」
「?」
「この島は“夏”などではない」
ここは。そしてここにいる奴らは――。
「今のこの島は……“ナム”の地獄だ」
まもなく、時が来る。
―――
――舞丁荘。二階にて。
どうして、と呟き、ニジノは部屋の隅で膝を抱える。
薄く歪んだ窓ガラスが、風でがたがたと音を立てていた。
ジンクスは乗り越えたはずなのに。
あの日。この島に降り立った時、空は晴れ渡っていた。
そこで確信した。それだけでも彼女の心は充分に満たされていた。
昔からずっと自分につきまとっていた、呪いとすら呼べるジンクス。
それをようやく克服できた。
だから今回はきっと良い旅になるだろう。
実際、島に来てからの体験は最高だった。美味しいものを食べ、優しい人達に恵まれ、夏祭りにまで参加させてもらえることになった。
そして、その間も空はずっと晴れていた。
だから大丈夫だ。もう大丈夫。私の人生はここから良い方向に変わるはず。
なのに。
「どうして?」
大事な祭りの日を控え――どうしてここに来て、また――。
―――
――同、舞丁荘。一階にて。
「女将さんは?」
「祭りの準備で出掛けているわ。私はお留守番」
島は雲に覆われ、風はいよいよ強さを増している。
「ここに来るなんて珍しいわね。さすがにこんな天気じゃ釣りもできないかしら」
「こういう天気になったほうが、本当は魚も釣れやすいんですよ。でもここまで風が強いと、さすがに防波堤に行くのは危険です」
「あらそう」
舞丁荘に姿を見せたガトウが、ロビーのソファに腰掛ける。
「何か飲む?」
「いえ」
カニエもテーブルを挟んだ椅子に腰掛け、ポーチから煙草を取り出す。
「もうあまり本数も残ってないわね。まあ、そのうち禁煙しようかと思っていたところだから」
「カニエさん」
「うん?」
「本当に“彼女”に巫女をやらせるつもりですか」
ライターで火を付け、カニエは細く紫煙を吐く。
「島のみんなが、“ものがみさま”が、そしてこの“夏”が彼女を巫女に選んだのよ。純粋な願いとして、ね。私はそれを後押ししているだけ。ましてや自分が選ばれないことを悔やんでいるわけでもないわ」
「しかし――気付いているのかわかりませんが、“あれ”は」
「ええ。なんとなく、そうじゃないかって気はしてる。でないと、こんなに急に天気が変わるなんておかしいものね。きっとあの子は――」
「なら、どうして」
「夏祭りは決行するわ。どんな天気でもね」
灰皿に、煙草の灰が落ちる。
「ガトウくん。この“夏”は、みんなを幸せにするためにある。あの子も例外じゃないわ。今は部屋で沈み込んでしまっているけれど……後で、良い知らせを持って行くつもりよ」
「それは、貴女の意思ですか」
「そうよ。みんなの意思が、私の意思でもある」
「俺は」
煙草を挟むカニエの細い指をじっと見つめる。
「俺は、昔の貴女が好きだった。規則正しく、冷静で、判断力に優れていた」
「今は?」
「……」
ガトウは応えず、ソファから立ち上がる。
「また来ます」
「ええ。いつでも」
―――
――裏の砂浜にて。
ホトハラとエビナは痕跡を消すように手順に沿って撤収準備をはじめだした。
風にはためくテントは畳むのにも苦労する。
「ショージキ、まだ半信半疑で」
「まさか、気象兵器とかそんなのを持ち出したんじゃないか、って?」
「そこまで危ないのは信じてないッスけど」
「むしろそうであってくれたほうが納得できたかもしれない。これはオカルトだよ。ボクだってこんなこと信じたいわけじゃない。ともあれ――“ゆるふわちゃん”は呼び込んだ。“夏”に支配された島に――嵐を」
この“夏”は理想の夏だ。時おりにわか雨が降るインシデントはあったが、基本的にはいつまでも晴天で、過ごしやすく、快適な……誰もが思い描く理想の夏。
そこに――もしイレギュラーが発生したら?
「ここから先は荒れるだろうね。文字通りに」
「何が起こるか、わからない」
「何が起こっても、不思議じゃない」
エージェント・ホトハラ。そしてエージェント・エビナ。
二人の使命はこの作戦を完遂に導くこと。
そして“夏”がいかに変容するかを記録すること。
そのためにも、妨害する対象があれば排除することも許可されている。
この状況において、妨害の兆候があるとすれば――。
「もし彼が出てきたとして、キミは撃てるのかい」
「……わかんねえッスね。その時になってみないと」
ガトウが去った後、ホトハラはエビナに事の顛末を話した。まずは一人で不用意に身体を拭きに行ったことを悔やんでいるようだったが――その後、エビナのいた場所には結局何の罠も見つからなかった。つまりガトウの話はブラフだったわけだ。
「アイツはもうイカれてるけど、そういう部分はくそ真面目だった。オレはそういうところも含めて嫌いじゃない。でもこの“夏”に染まっちまったっていうなら、もう助からねぇでしょうね」
「連れ戻すつもりも?」
「いや、きっとアイツはここから出ないでしょうよ。オレ達が帰るのは、まだ“夏”に魅入られてないからだ」
――ホトハラは夏が嫌いだ。
昔は好きだった。家族と、姉と一緒に過ごす海が何よりの楽しみだった。
だが今は違う。
数年前、エージェントになった姉は“夏”にまつわる作戦に参加したという。
作戦は成功だった。得られたデータは“夏”への対策において有益なものとなった。だがその代償として、彼女は脚を引きちぎられ、帰還後に記憶処理された。命こそ無事だったものの、快活で、運動神経に優れた姉はもう、砂浜を走ることすらできない。
だからホトハラは夏が嫌いになった。そして復讐を果たすことに決めた。身体を鍛え、髪を染め、腕にタトゥーを入れ“夏”に立ち向かうエージェントに志願した。姉と似た風貌になり、姉と同じ立場についた。それを彼は誇りに思っていた。自分が姉の仇討ちをするのだと。
――そんなイキった格好になって、何やンのか知らねえけどさ。
――危ねえことやったってアタシは気にしねえぜ。
――でもな。まあとりあえず、無事に帰って来いよ。
――オメーなら大丈夫だろ?
車椅子の姉は、そう言って笑った。
彼女はもう、夏を知らない。
「ホトハラ?」
「ああ、ハイハイ」
まとめた荷物を草場の影に隠し、丁寧に偽装する。作戦が成功すれば、二人を迎えに来る船はこの浜に着く。それまでは島の連中に悟られるわけにはいかない。ただガトウがどう出るか……それだけが不確定要素ではあるが。
「ところで」
「うん」
「センパイが夏を嫌いな理由、そろそろ聞かせてもらってもいいッスか」
「……」
「興味本位じゃねえんスよ。これはオレ達が“夏”に侵されないための、打ち合わせだ」
エビナの動きが止まり、ガスマスクの奥の目が細まる。
そして――ぽつぽつと、いよいよ雨が降り出してきた。
作戦の“第一段階”が始まろうとしている。
―――
――再び舞丁荘、二階。
風鳴りに混じって、窓ガラスを雨粒が叩く音が響く。
「私の人生はとにかくタイミングが悪かった。何処へ行っても雨に降られたの」
運動会。卒業旅行。フェス。彼氏との旅行。あらゆるタイミングで雨が降った。周囲の人間は「気にしないよ」と言ってくれたけど、その裏で残念そうな顔をしているのを窺うたび、ニジノは沈み込んだ。
「そのうち、私は誘いを受けても、断るようになった」
傍らにしゃがんだ白ワンピースの少女が、不思議そうに首をかしげる。いつの間にか横に来ていたらしい。
「だから今回、島に来たときに晴れていて、本当に嬉しかったの。でもダメだった」
だいじょ うぶ?
「きっとみんなまた、残念そうな顔をしている。これも、私が巫女の役目なんて引き受けたから」
だいじょうぶ
「そう。私なんかじゃダメ。今からでも……!」
半ば自棄になりながらニジノが顔を上げた瞬間、部屋のドアが開く。
「ここにいたのね。ニジノさん、それから――」
カニエが“二人”の姿を見て微笑む。
だいじょうぶ だいじょうぶ だいじょうぶ
「大丈夫」
「夏祭りは……私達の“夏”は、こんなことじゃ止まったりしないわ」
カニエは白ワンピースの少女と目を合わせた。
なつ!
「あなたも、そう思うでしょう?」
お
まつり!
「……みんな、明日の祭りを楽しみにしてるんだから」
―――
そして翌日。
台風が、島を直撃した。
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