その夏に飲み込まれて
「お前“達”がいるならここしかない。俺達もそうだった。ふと思い出したんだ。思い出せた、と言った方が適切かもしれないが」
ガトウの瞳が不気味な光彩にゆらめく。黄色と茶色のマーブル模様に渦巻いたと思えば、ふっと元に戻る時もある。壊れたネオンのように、それを繰り返している。
「そのまんま放っておいてくれりゃー良かったんだ。オレは少なくとも、アンタをまだ“先発隊”の一員だと……仲間、だと思ってたんだぜ?」
「今でもそう思っている。自分では」
―――
少し前にこの島に上陸した先発隊の三名。ガトウ、クモカワ、カニエ。だが乗り込んだ彼らはすぐに連絡を絶ち、未帰還となった。その事実を知り、本部が後発隊として送り込んだのがホトハラとエビナだ。
到着してすぐ、島の偵察をしていたホトハラは、任務を放棄し、島の堤防で釣りにいそしむガトウを見つけた。彼が狂っていたのは傍から見ても明らかだった。それでも完全に飲み込まれてはいなかった(正確に言えば“夏”に飲み込まれながら正気を保っていた)――と思っていた。アイツはなんとか保っている、とホトハラは信じていた。だが。
「オレ達はオレ達の任務を遂行してる。アンタと違ってな」
「……」
「この潜伏場所を奴らに明かすのは命令違反だぜ。分かってここに来たんだよな?」
ホトハラはショットガンを構える手を下ろさない。どれだけ精神汚染が進んでいようと“人間のかたちをしている”限り、物理的な排除は可能だ。ここで引き金を引けば、ガトウは死ぬだろう。
「明かすつもりはない。今のところはまだ」
銃口を突きつけられてなお、ガトウは少しも動揺していない。
「俺は“説得”をしたくてここに来た」
「その目が今どんな感じになってんのか、自分で見た事あるか?」
「家には鏡がなくてな。少し目の奥が痛むが、その程度だ」
エージェントの鉄則は単純だ。
――この“夏”に飲まれたくなければ、奴らに興味を抱くな。
「オレ、夏が嫌いなンだよ。たぶん、他の連中よりもずっと嫌いだぜ」
「知っているさ」
「昔は好きだった。姉貴ともよく海に行ってたしな。でも今はそうじゃねえ。だからアンタの話も聞くつもりはねえ。この“夏”がどれだけいいかっていう話だってんなら、オレは聞かねえ」
浜の砂を踏みしめ、ホトハラはアイアンサイトごしにガトウを睨む。
「……」
「……」
「ああ」
「?」
「ここに来る時、お前の相棒が森に入っていくのを見た。ずいぶん無防備だったから、少し仕掛けをしておいた」
引き金にかけたホトハラの指に力がこもる。
「俺はお前と話をしたいだけだ」
「……アンタのことは仲間だと思ってたぜ。さっきまでな」
ガトウの言葉がブラフではない、と断じられる確証はどこにもない。
―――
「ここはいいところだ。“何もない”ことが心地良い。心が穏やかになってくる」
奴らに耳を貸すな。奴らに誘われるな。何の興味も抱くな。
それがエージェントの鉄則。夏に飲み込まれないための掟。
……幸い、向精神薬は少し前に飲んだばかりだ。
「仲間になれ、というつもりはない。俺も“犠牲者”をこれ以上増やしたくない」
「じゃ、さっさとここから出て行って、夕まずめの釣りでも楽しんでいりゃいいんだよ。何が釣れるか知らねえけどな」
「俺はお前達に、邪魔をしないで欲しいんだ」
ガトウは変わらず、砂浜の真ん中で無警戒に立っている。だが次に何をやるかは分からない。彼がそういう男だというのを、ホトハラはよく知っている。せめて、このタイミングでエビナが帰ってこないことを祈るだけだ。
「俺は“夏”を終わらせたくない」
「昔のアンタならは絶対に言わなかったぜ、ンな台詞」
「自分でもそう思ってるさ」
「作戦を中止して“彼女”を連れ帰ってほしいんだ」
「するわけねえだろ。アンタが一人でやりゃあいい。出来るモンなら」
「隊長が……皆が決めたことだからな。俺一人で反対はできない」
「なんだそりゃあ?」
「説得は失敗、か」
「むしろ何で出来ると思ってたんだ」
「お前達もそろそろここが気に入ったんじゃないかと思っててな」
「何度も言うが、オレは“夏”が大嫌いなんだ」
「そうか」
ガトウは少しのあいだ空を見上げ、踵を返す。
「そろそろ俺は戻る」
「そうしてくれよ」
「次に会った時は、その引き金を容赦なく引くことだな」
「なあ」
「どうした」
「オレも“説得”していいか?」
「ああ」
「アンタはまだ飲み込まれきっちゃいない。オレだって撃ちたくなんかねえんだよ。作戦が終わりゃオレ達は帰る。これ以上は何もしねえでくれりゃ、オレだって」
「それは無理だろうな」
背中ごしにガトウは呟く。表情は分からないが、きっと彼はまた自嘲気味に笑っているだろう。
「何度も言うが、俺は“夏”が気に入ってしまったんだ」
「じゃ、説得は失敗だな」
「お互いにな」
「あばよ」
「ああ」
―――
「なんだか物音がしたようだけど――覗かなかっただろうね?」
「ンなわけないじゃないスか。それより……虫除け、いらなかったッスよね?」
「まあ、確かに。虫刺されなんて一つもなかったけど」
「んじゃ、もう脱いじゃってもいいんじゃないスかね、そのガスマスクと空調服」
「嫌だね。言っただろ。空気感染を避けるためって理由もあるけれど、それ以上にボクは“夏”に肌を曝すのが嫌いなんだ」
エビナが帰ってきたのはそれからすぐのことだ。ガトウがここに来たことは気付かれなかった。砂浜の足跡すらも見つけられなかったのは幸いというべきか、迂闊というべきか。
「ところで……ここに来てボクははじめて肌を曝したわけだけど……想像していたよりも風が冷たかったんだ」
ガスマスクの奥で、エビナの目が細まる。
「キミは気付かなかったかい?」
「言われてみれば」
ふと思い立って、ガトウは砂浜の向こう、水平線の先を見る。
「ああ」
気温と同じように、毎日空を見ていると些細な変化は感じにくくなる。だから気付かなかったのか、それとも急にやってきたのか。
ともかく“それ”は、いつの間にか抜けるような快晴の空に姿をあらわしていた。
「だからいきなり涼しくなってきたんスかね」
「たぶんね。ボクも、こんな作戦が上手く行くのか疑問だったけれど」
「オレだってまだ半信半疑ッスよ」
「ここじゃ常識は通用しない。逆に言えば、冗談みたいな思い込みやジンクスでも叶ってしまうことがある。ましてや、それが――」
水平線の向こう。
雲一つないはずの“夏”の青空に、いつの間にか厚い雲が迫っていた。
「――あんな特別な状況だというなら、なおさら」
入道雲とも違う。あれは……来る予報などないはずの――。
―――
数日後。夜。民宿『舞丁荘』宴会場。
「ええと」
集められる視線に恐縮しながら、ニジノは御猪口を両手で支える。なみなみと注がれた日本酒は透き通っていて、やや辛口。かつては女子一人旅と称して各地の銘酒巡りなどもやったことはあるが、今まで飲んできたどの酒とも違う味がする。
「もう一杯どうかね」
「あ、もう」
「いいからもっと飲みなさいね。盛大にもてなしてやらにゃ、ワシらが“ものがみさま”に恨まれちまう」
皺だらけの顔に笑みを浮かべながら、一升瓶を抱えた老人がニジノに声をかける。一升瓶には古い和紙が貼付されていて、筆字で読解不能の文言が書かれていた。
恐縮して正座したままの足が、ちりちりと痺れてくる。
「崩していいのよ?」
老人と入れ替わり、隣に来たカニエが言う。
「こんな風にしてもらえるなんて、慣れてなくて」
「当然じゃない。あなたは……“巫女様”なんだから」
祭りを明後日に控えた日の夜。『舞丁荘』に魚や酒、野菜を持ち寄った住人達がやってきた。そうしてあっという間に人々が集まり、長方形に並んだテーブルを囲むように酒宴が始まった。
主賓であるニジノはいわゆる“お誕生席”に配置され あはははははははははははは 目の前にはとても食べきれないほどの料理や酒が盛られている。 はははははははははは まるで殿様のようだ。配達のピザやチキンがあるわけでもない ははははは 手作りの素朴な山菜や果物、魚料理――それから■■■を煮たもの、■■■■をくり抜いたもの、はらわたを漉したもの、■■――そういったものばかりだったが はははははははははは どれも本当に美味しかった。
「みんな喜んでいるのよ。貴女が受け入れてくれたから」
ニジノの目的はあくまでこの島で夏を満喫することだけだった。それが今、こうして夏祭りに参加し、住人達に宴会まで開いてもらえるほどになっている。一夏の経験としてはこれ以上のものはないだろう。
「私も楽しいです」
「“ものがみさま”も、きっと喜んでいるわ」
「お祈りの言葉はうまく唱えられるかどうか不安ですけど」
ははははは
「言ったでしょ? あんなの、カンペを持ち込んだっていいんだから。ずいぶん真面目なのね」
「やるからにはちゃんとやりたいなって思って」
カニエはくすくすと笑う。
「何かおかしかったですか?」
「ううん。貴女が巫女になってくれて、良かったなって思って」
御猪口に注がれた日本酒を飲み干し、ニジノは顔を上げる。テーブルを囲んで賑やかに騒ぐ住人達が一斉にこちらを向き、笑いかけた。
彼らの首から上は、一輪の巨大な向日葵にすげ変わっていた。
―――
はははははははははははは
あんたがきてくれてよかった
これで■■■■は安泰だ
ははははは よかったよかった はははははははははは
よかったよかったよかったよかったよかったよかったよかったよかった
―――
「ところで、あの子は?」
いつもカニエの傍にいた男児の姿が“今日も”見えない。
「……」
あの子は数日前、ふとどこかに行き、どこかからひょっこり帰ってきたことがあった。ただの散歩なら珍しくもないのだろうが、その日は少し帰りが遅く、日が暮れた頃に戻ってきた。たったそれだけのことである。様子が変わったのはそれから――ただし、変わったのは男児のほうではない。
「カニエさん?」
「さあ? どこかにいるんじゃないの?」
あれだけ男児を可愛がっていたはずのカニエが、急に男児に余所余所しくなった。
「そうですか」
妙に冷めた口調のカニエに違和感を覚えつつも、ニジノは頷く。
男児は男児で、自分のことを「むー」と名乗るようになった。いつもカニエのスカートの裾を引っ張りながらぴったりと傍にいたはずなのに、それからはたびたび姿を消すようになった。夕方にはちゃんと帰ってきているので、せいぜい“少し成長して、好奇心が沸いてきた頃なのだろう”程度に考えてはいたのだが。
まあ、きっと彼女らには彼女らなりの事情がある。
自分があれこれ心配しても仕方がない、とニジノはそれきり話題を打ち切った。
「……あの子からはね、土の臭いがするようになってしまったの」
吐き捨てるように、カニエが呟く。
「?……何か言いました?」
「ううん。何でもないわ」
―――
足のしびれが限界に来たので、ニジノは宴会を中座し、外に出る。
「あっ巫女様!」
「巫女様だねえ」
民宿の庭に、二本の向日葵。
「ここは楽しい?」
「楽しい?」
「うん。みんな親切だし、賑やかで。料理も美味しい」
「よかったねアオイちゃん!」
「よかったねヒュウガくん!」
吹き付ける生暖かい風に、二本の向日葵がざわざわと揺れる。
「ニジノさんは」
「ニジノさん?」
「お願い事は決まった?」
「決まった? お願い事」
「実はね、まだなの。いざ言われると、全然思いつかなくて」
「もう明後日だよ」
「一日しかないよ」
「うーん」
巫女は“ものがみさま”に願いをひとつ叶えてもらえる。
正直なところ、あまりに慌ただしくて考えていなかった。
「どうしても一つ、っていうなら――」
「いうなら?」
「いうならなに?」
「まだ秘密」
ニジノは外履きのサンダルを突っかけて、酔い覚ましに少し歩くことにした。何かを言い合っている向日葵の横を通り過ぎ、民宿を回り込むように行く。宴会場からは、住人達の笑い声、嗚咽、嬌声、叫び声などがくぐもって聞こえてきている。
斜面にひしめくように作られた住居の合間、細い道からは島の“表側”が見渡せる。電灯も家の灯りもほとんどなく、空には相変わらず満天の星が――。
(見えない?)
ニジノは空を見上げる。
おかしい。
昨日の夜までは――いや、今日の夕方までは、いつものように見慣れた陽の光や星空ががあったはずだ。それが、今はまったく見えない。なぜ気付かなかったのか。
びょう、と吹き付けてきた風に、ニジノの酔いが一気に覚める。さっきまで風もなかった。ただの海風じゃない。海の向こうから来る、鳴るような強い風。
まさか。
いや。でも。
今さら、そんなはずはない、と思っていたのに。
この島に来た時に「ない」と確信したはずなのに。
「どうして」
渇いた喉から呟きが漏れる。
どうして、このタイミングで??
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