その夏に蝕まれて
「あらまあ、丈もピッタリ」
小さな老婆が、皺の多い手を軽く叩きながら言う。
「私のお古で申し訳ないわねえ」
「こちらこそ、そんな大事な衣装を私なんかが着ちゃっていいものなんですか?」
「いいのよ。若い子にもう一度着てもらえるのは嬉しいわ」
ニジノは老婆に言われるまま、大きく腕を開いて軽く一回りしてみせた。
見た目は白衣と朱袴を組み合わせたごく普通の巫女装束である。長く仕舞われていたという割にはシミもほつれもない。この老婆が“役目”になった時に着ていたというのが本当ならば、軽く半世紀も前の代物だ。
「当日はこれに裳を合わせるの」
「も?」
「この上から羽織る着物よ。重くなるし、暑いけれど、そこは我慢してちょうだい」
夏の気温からすればこれくらいの薄さで丁度良いくらいだが、そこは“儀式”なだけあって伝統があるらしい。ニジノは着ていた巫女装束をまじまじと眺める。袖口から、防虫剤の匂いに混じって不思議な香りがした。これは――何かの、土と……花の香りが合わさったような。
「おばあさんも“外から来た”んですか?」
「そうよ。元は内地の生まれだったの。でもあの人に出会って、気付いたらここに引っ越して、一緒に住んでいたわ。巫女の役目になったのはその頃ね」
老婆は懐かしそうに斜め上を見つめた。そこには鴨居があり、モノクロの顔写真が入った額縁が並んで掛けられている。老婆の視線の先はその一番左端にある比較的新しい額縁に向けられていた。そこに写った老人は優しげな微笑みを浮かべている。
「おばあさんは」
「ええ」
うみ!
「巫女になった時、何をお願いしたんですか?」
「永遠。見えぬ聖域。届かぬ神域。巡る輪廻に安らぐ魂。黄色い太陽達の見つめる先に赴きただ一切を忘れよ。外なる光を恐るるなかれ。忘れるなかれ。声に従い願いを叶えよ。そは内なる望みを見る者なり。叶えよ。次なる場所に安寧を見つけよ。 こっちおいでよ 巡れよ。二回り。一回り。また一回りと巡れよ。永遠。永遠に巡る永遠。 だいじょうぶだよ 安寧の先に新たなる形を求めよ。その先へと成れよ。導かれるまま成れよ。ただ成れよ。案ずることなく成れよ」
「へえ」
ニジノは感心し、老婆が見据える先をもう一度見る。
たのしい しま!
「一回り。また一回り。案ずることなく成れよ。 おねがいごと? 遙か外より来たる理を受け入れよ。案ずることなく受け入れよ。太陽達と成れよ」
老婆の視線の先にはモノクロの写真。そこに写るのは大輪の――。
だいじょうぶ!
「太陽達は■■■なり。■■■は。向■■なり。■日葵は。ただ我らを見るものなり。見守るものなり。案ずることなく受け入れよ。魂のくびきを解き望みを放てよ。向日葵は見守るであろう。一面の向日葵が」
額縁のモノクロ写真。 たのしいんだもの! そこに写っているのは首から上がひまわりにすげ変わった老人。
モノクロの写真がセピアに変わり、やがて七色にゆらめきはじめる。 いちめんのひまわり 並んだ額縁に写った男達の全てが いちめんのひまわり ひまわりだよ!
並んだ並んだ並並並んだ額縁に写った全てが――大輪のひまわりに変わっていた。
「そんなお願いをしただなんてなんて、なんだかロマンチックですね」
並んだひまわりが、全員こちらを向いている。
いちめんのひまわりが。いちめんのひまわり畑が。ひまわりが。
「そうよ。あなたも、きっと気に入るわ」
みんな こっちをみている
―――
同時刻。堤防にて。
白いワンピースの少女が、無言のまま空っぽのクーラーボックスを見つめている。
「今年は彼女が巫女になるのか」
ガトウは当たる気配のない釣り糸の先を注視しながら呟く。波にうねる水面で、浮きが不規則にゆらゆらと揺れている。気のせいなどではない。昨日に比べて、明らかに風が出てきている。
「あの役目を譲ったのはカニエさんから、と」
カニエはとっくにもう何も覚えてなどいないのだろう。だから無垢なるままに外から来た者を受け入れた。おそらくは他意もなく、心から勧めたはずだ。自分より相応しい者として、喜んで譲った。
もはやカニエは彼が知っていた姿からは想像もできないほどに変わってしまった。まあ、それはいい。今さら言っても詮無いことだ。あれはあれでまた魅力的なところもある。
ともあれ――。
「本当に“アレ”を巫女にするつもりなのか?」
竿を引き上げ、ガトウは白ワンピースの少女に尋ねる。
少女は答える代わりに小首をかしげた。
「そうか。分からないのか」
彼はまだ覚えていた。ガトウは正気と狂気の境目にいた。彼はまだこの夏に馴染みきっていない。だからこそ気付いた。
少女が気付かないとなれば、おそらく他の住人達も同様だろう。
あの女は……。
「――“あの女”には、見覚えがある」
ガトウは糸を引き上げ、釣り竿をしまう。
「悪いな。今日はボウズだ。何もない」
残念そうな顔をする少女を横目に、釣り道具一式を抱えて堤防を後にする。
強めの海風が吹き、白いワンピースの裾がふわりと翻る。飛ばされそうになる麦わら帽子を左手で押さえる少女。その背後には海、そして水平線。そのさらに向こうには……白く分厚い雲。
堤防を出て港に着き、そのまま古い自販機のある角を曲がって住宅地へ。細い路地の途中には、住人達に混じって奇妙な呻き声を上げる異形の者もいた。彼らの行動パターンには一貫性がない。ある者は壁に頭を打ち付け、ある者は家々の間の隙間に挟まったまま眠っている。ガトウは彼らを直視しない。ただ前だけを見て足早に進む。その後ろを、ワンピースの少女がてくてくと歩いてついてくる。単なる興味か。それとも監視か。
密集した民家の並ぶ狭い路地の奥にガトウの家はある。元々は長く使われていなかった空き家を利用したものだ。海風に晒される家は劣化も早く、壁は傷み、金具や雨樋はあちこちに錆びが浮いている。それでも崩れたりしていないのは元が頑丈な作りだったからか、この島に流れる時間が狂っているのか。釣具一式を傍らに置き、引き戸の玄関を開ける。鍵はかかっていない。施錠忘れではなく、そもそもこの島の者達には鍵をかけるという習慣がないのだ。
家に入ると“いつものように”目眩がした。暑さや疲れのせいではない。ここに来る度、ガトウは正気の一片を取り戻す。
中は外装同様に荒れ果て、部屋の半分以上はほぼ朽ちたまま手入れもしていない。使っているのは台所と、そこに繋がる居間を一つだけ。さらに立地の関係でここは陽の光もあまり入らず、昼でさえ薄暗い。だが、あるいはこれが燦々と降り注ぐ“夏”への暴露を抑え、精神への侵食を遅らせていたのかもしれない。そうは言っても、何もかも手遅れなのには違いないが。
古い柱に手をつき、ふらつく身体を支える。
ここまでは、少女も入ってこないようだ。彼女はいつの間にかいなくなっていた。
広い居間のあちこちには奇形の魚が転がっている。彼は釣ってきたものを食するわけでもなく飾るわけでもなく、すべて部屋に放り出していた。そうして積み上がった魚の死骸は夏の気温によって猛烈な腐臭を放ち、畳は染み出した体液でぶよぶよになっている。惨憺たる有様になった部屋だが、ガトウはその臭気も気にすることがない。それどころか、ここだけが自分の場所であると居心地良く感じてすらいる。そして居間の隅には、自分がエージェントとしてここに潜り込んだ際に身に着けていたBDUや装備一式がやはり無造作に置かれている。正気と狂気が綯い交ぜになった一室。
仕事など放り出し、穏やかに暮らすのがガトウの夢だった。日がな一日釣りをして、ゆっくりと流れる時間に身を任せて過ごしたいと思っていた。果たしてこの島に取り込まれ、彼の夢は叶えられた。この島にいる他の住人達と同じように、毎日、毎日、毎日毎日毎日毎日毎日毎日こうして穏やかに釣りをしている。そしてその釣った魚をどうするでもなく、ただ部屋に投げ捨てている。それを繰り返している。繰り返し、繰り返し、繰り返している。ここに積み上がった魚の死骸は、日増しに蝕まれていく狂気を示しているかのようだ。
それでもまだ狂いきってはいない。すっかり使わなくなった装備一式を見るたび、ガトウはかろうじて正気を取り戻す。時間の問題ではあるが、まだカニエのようにはなっていない。
だから気付いた。だから思い出した。
あの女には見覚えがある。
そして――自分達の後にやってきた、あの二人のことも。
そうだ。今になって記憶をもう一つ取り戻した。
むしろ何故今まで忘れていたのか。
あいつらがいるとしたら、その場所は――。
―――
同日、夕方頃。裏の浜にて。
「本当にいいンすか」
「自分の身くらい自分で守れる」
「一応、どんな時でも二人で行動しろって命令なんスけどね」
「……」
命令、という一言にエビナはぴくんと反応する。ホトハラにとっては少しばかりの意地悪のつもりだったが、予想以上に効果があったようだ。
「ボクの」
「?」
「ボクの身体が臭いって言ったのはキミだろ……」
ガスマスクごしに、うらめしそうな目線が向けられた。
持参してきたタンクから水を出す。一滴も溢れさせることなくタオルを濡らし、エビナはもう一度「絶対についてくるなよ」と念を押し、浜に近い林の中に消えていく。持ち物は濡れタオルと着替え、そして護身用の9㎜拳銃。
言いつけを無視して後をつけようかと思ったが、さすがにそれは止めた。ホトハラは頭を掻き、煙草に火を付ける。
姿も顔も隠し、空調服とガスマスクを常に身に着けた正体不明のエージェント。この任務に割り当てられ、はじめて組まされたバディ。それがエビナだ。
ボクも夏は嫌いなんだよ、とエビナは言っていた。理由までは言わなかったし、ホトハラも聞かなかった。この任務に割り当てられる人間はたいてい夏が嫌いか、あるいは興味がないかのどちらかだ(一部に例外はあるが)。そうでなければあっという間に“夏”に侵され、取り込まれる。
もちろん、先発隊として送り込まれたあの三人もそのあたりは同様だ。それでもこの島の“夏”に取り込まれてしまったのだから、ヘタに動くとマズいというのは自明の理だろう。
(本当に大丈夫なんかな)
奴らは一瞬の隙を突く、と言われる。いくら本人の希望でも、一人にさせてしまったのは危険だったかもしれない。やはり見に行ってみるかと、ホトハラが煙草を揉み消した直後――砂浜のほうで人の気配がした。
ホトハラは素早くテントの灯りを落とし、立てかけてあったショットガンを手に取る。身をかがめてテントを出て、草木に潜みながら浜へと向かう。
「そこだろ」
浜で声がした。
相手はとっくにこちらに気付いていた。
そして――その声には、聞き覚えがあった。
「この島に上陸して“潜伏”する場所など、ここしかないからな。俺達もそうだった」
「よう、ガトウ。やっぱりアンタか」
ショットガンの銃口を突きつけながら、ホトハラは呻いた。
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