その夏に歪められて
「で、だ。結論から言えば、キミが聞いた“ものがみさま”なんて神様は存在しない。少なくともボクの知識や持ってる資料の中では、そんな名前は見た事がない」
ノートパソコンから目を離し、エビナは椅子に深く座り直す。
「付喪神の聞き間違え……もしくは訛ったものかとも思ったんだ。でも違う」
「オレにははっきり聞こえましたね。ものがみさま、って」
「これまで全国で起きてきた“夏”の事例でも、神社でのインシデントは多くあった。でもそのワードは出てこなかった。具体的な名前が出たのは今回が初めてだ」
ガスマスクの隙間からハイドレーションのチューブを差し込み、適量を飲む。“現地の生水”が迂闊に飲めない以上、持ってきた量に余裕があるとはいえ、水分は有限である。
「詳しくは島から脱出した後に調べる必要がありそうだけど」
ネット検索など出来る環境にはない。デスクトップ画面の右下にはWi-Fi使用不可のアイコンがついている。スマートフォンも圏外なら、念のためにと持ち込んできたモバイルルーターも例外ではなく、エビナが今まで見ていたのはあらかじめパソコンのSSDに保存してきた資料だ。まだ使える……といっても、利用はオフラインに限られる。
「オレはこういうのあんまりよく知らないんスけど、こんなチンケな島でもちゃんと神社とかってどこにでも建ってるモンなんスかね」
「実は“こうなる”前の島のことならデータはあるんだよ。そこではちゃんと別の信仰があった」
「へえ」
興味があるのかないのか、ホトハラは煙草を携帯灰皿に押しつけて呻く。
「元の信仰対象はね、太陽神だったらしいんだ」
「太陽……」
ホトハラはテントから出て、雲一つない青空の真上から照らす陽を仰ぐ。
「別に珍しいことじゃない。日本全国の神社でよく奉られている有名な神様だってそうだ。この島の場合、それなりに歴史のある神社として目立っていたらしいけど」
「その、そういう神様を奉るからには、ゴリヤクってのはあるんスよね?」
「基本的にはありきたりなものだよ。豊穣とか」
「ホージョー。確かあの二人もそう言ってたような」
「作物がいっぱい穫れますように、とか、そういう意味だよ。野菜や米だけじゃない。天気が良くなれば、漁にだってたくさん出られるから」
「邪神とはヤベーやつの復活とかではない、と」
「あのね。そんな因習みたいなことやってるのなんてフィクションくらいだよ。まあ、巫女を立てて祭事をやって、それで巫女は好きな願いを叶えられる――なんて、そこまで妙に具体的な行事が決まってるのはなかなか聞かないけど――色々なパターンがあるからね。絶対に無い、とは言い切れない」
「なんか歯切れ悪いッスね」
「学問ってのは、そういうものなんだよ」
そこまで言い終えて、エビナはノートパソコンを閉じながら低く呟く。
「とりあえず“奴ら”は夏祭りをやるし、“ゆるふわちゃん”はそれに誘われた。今のところは何もかも想定通り、だ」
―――
同日。午後。防波堤付近。
「今日は一人で散歩か」
釣り竿とクーラーボックスを手にしたガトウが声をかけてきた。
「おねえちゃんたち。ごはんたべて。おひるね」
「そうか。あまり遠くには行くなよ。特に……裏の浜の方にはな」
男児の目線はクーラーボックスに向けられる。
「見るか?」
頷く。
「気のせいか、今日は少し波があった。普段はベタ凪だが、こういう時にはいつもと違う魚が釣れる」
クーラーボックスを開けた瞬間、頭部が透明なゼラチン質に覆われた魚がいた。その目は虚ろに男児を覗き込んでいる。その他にも、背ビレの歪んだ熱帯魚、左右非対称の魚、頭部に対し異常に口の大きな魚など、バラエティに富んだ魚たちが入っている。だが、ゴトウがこれを持って帰って何をしているのかは誰にも分からない。食べているわけでもないようだ。
「どこかで、台風でも来ているんだろうか。情報など掴みようがないが」
海を見つめ、ガトウは呟く。この島は電波が入らない。携帯電話はもちろん、ラジオやテレビもない。
「まさかな」
しばらく水平線の向こうを見た後、ガトウは目をそらしながら笑った。
「お前も良く分かっているだろう。この島は“守られて”いる。ずっと穏やかで、災害もない。だから安心だ。――ずっと、な」
クーラーボックスが閉じられる。
「帰るなら、途中まで一緒に行くか?」
「ううん。だいじょうぶ」
「そうか。夕方までには帰れよ。隊ちょ……カニエさんが、心配するだろうからな」
そう告げて帰っていくガトウの背中(シャツの背には“CANI-SAN”の文字と、可愛らしいタコのイラストが描かれている)を見届け、男児は再び歩き出した。
―――
「あらまあ、今日はカニエさんは一緒じゃないのね」
「ちょっと寄っていけよ。冷たいジュースでも飲むか?」
「陽光は永遠にして不可侵」
「こっちにおいでよ」
「海の底の鈴。銀色の紐。垣根を越えた小人。だが心配することはない。ねじ切られた指とトケイソウを合わせればいいだけだ。その間をくぐれば、心は高みへと昇るであろう」
「何か面白いものでも見つけたか? あったら教えてくれよ。言わなくても伝わってるけどな。お前の見たものはおれの目の裏にも浮かぶんだ。自動的に。自動的に」
「今度、風鈴を作ってあげるわね。どんな模様がいいかしら」
「あったかいなあ。あったかいよお」
「お祭り、楽しみねえ」
「いちめんの■■■■。いちめんの■■■■。昨日はあっちで、きょうはここ」
「魔除けにはラベンダーを植えるといいらしいわよ。ラベンダーなのよ。間違えないで。ラベンダーを床と壁に」
斜面に建った家々の間を、男児はてくてくと歩いていく。その途中で、住人達はにこにこと笑いながら声をかけてくる。昨日よりも人が多い。やはり夏祭りが近いのが関係しているのだろう。
目的地まではあと少し。近道になっている家と家の隙間を通ろうとしたら、白くのっぺりとした巨体が塞いでいた。見た目は人型だが、多くの住人達とは少し変わった格好をしている。その肌は真っ白ですべすべとしており、頭部と下半身は異様に肥大化している。その体長は200㎝を超えていて、背の低い男児からすれば見上げるような大きさだ。
久しぶりにここで会ったな、と男児は思う。
「きょうは。ここ。とおれない?」
巨大な頭部は隙間にみっちりと詰まっており、もはや少しも身動きはできないようだ。彼(?)は小さな手をぱたぱたと動かし、それは出来ない、と主張する。仕方がない。今、ここは“彼の場所”だ。いつもは彼がいない時に通らせてもらっているに過ぎない。男児は頷き、回り道をすることにした。
これも祭りの影響なのだろう。“彼ら”もあちこちで姿を現しているようだ。
―――
男児には目的があった。できればカニエ達と一緒ではなく、一人で行きたかった。だから散歩のフリをして向かうことにした。
あの林の中に、何かいる。
昨日の午後に感じた何かの気配。ニジノもカニエも気付かなかった中で、男児だけがそれに気付いていた。大人達に言えば、行くのはやめなさいと止められるだろう。だが男児にはそれがどうにも気になって仕方なかった。
神社に向かう道まで来て、そこから外れ、林の中へ。いるとすればここ。一人で入るのは心細かったが、好奇心が勝った。木漏れ日の差し込む木々の合間をくぐり抜け、時おり地面の朽ち木に足をとられながらも奥へと進んでいく。
怪しい人間がいる、とカニエ達は言っていた。もしかしたらその人間かもしれない。だが、会うなと言われると会いたくなるのが好奇心だ。
蝉時雨の注ぐ林を歩いてどれくらい経っただろう、男児が次の一歩を踏み出そうとした瞬間、何かに引っかかった。
紐に繋がったジュースの空き缶が、がらんがらんとけたたましい音を立てる。
「誰か!」
林の奥から、緊迫した男の声。
「合い言葉を言え。ペンタゴンから来たのなら通じているはずだ。あと五秒待つ!」
男児はどうしていいか分からず、その場に立ちすくんだ。
そのまま五秒が過ぎる。続けてまた男の声。
「……五秒待ったぞ。いいか、そこを動くなよ。ヘタな抵抗は止めることだ。ここに踏み入れたからには覚悟は出来ているだろう。――貴様がそうであるように、俺もまた同じ地獄にいる。一つ違うのは、ここだけは俺の場所ということだ」
何を言われているのか分からない。
やがて林の奥から、一人の男が姿を現した。
男は男児の姿を見るなり、突きつけた銃を下ろさぬまま複雑な表情を浮かべた。
「……子供か?」
痩せこけた顔の男。目の下に引いた、奇妙な黒いライン。
「だれ?」
「動くな!」
男児が一歩を踏み出そうとすると、男は声を荒げて制する。男児はびくっと身体を震わせ、その場に硬直した。
「まだだ。俺が許可するまで動くな。貴様が敵と通じていないという証拠はどこにも無いのだからな」
忌々しげに舌打ちし、さらに続ける。
「憎きベトコンめ。まさかこのような子供まで使って俺達を炙り出そうとしているのではあるまいな。共産主義者どもの卑劣なやり方には反吐が出る」
意味不明の文言を呟きながら、男は猟銃を突きつけながら男児にゆっくり近づき、片手で全身をチェックしはじめた。なんだかくすぐったい。
「爆弾も武装もなし。待て……ポケットの中の……なんだこれは」
「もらったの。あめ」
先ほど“散歩”中に出会った老婦人から貰ったレモン味のキャンディが二つ。男は個包装されたそれを訝しげに見つめ、男児のポケットに戻す。
男の格好は異様だった。おそらく何日もここにいたのか、縞々模様のズボンは土だらけ。生地の安っぽい緑のシャツは裾のあちこちが裂けている。枝にでも引っかかったのだろうか。そこから伸びた腕は貧相なほどに細い。
一目見た時は“ごっこ遊び”でもしているのかと思った。だが男の目は常に何かを警戒するかのようにギラギラとしており、その奇妙な物言いも決して軽い嘘を吐いているようには思えない。
そして何より――この雰囲気は、男児が昨日感じた“気配”の主ではない。
このひとは、ぜんぜんちがうひとだ。
このひとは、しらないひと。
このひとは、いったいなんなんだろう。
「……どうやら、本当にここに迷い込んだだけのようだな」
くまなく全身に触れた後、男は猟銃を下ろす。
そのてっぽうは、おもちゃ? それともほんものなの?
「名前は名乗れるか。親はどうした。どこからきた」
「おやって。なに?」
「お前の両親は。父は? 母は? どこの村から来た。そこはベトコンどもに支配されているか?」
「わかんない」
「名前は?」
「わかんない」
「……」
―――
数刻後。
「親も無く名前も無い……お前のような子供まで出すとはな。こんな悲劇を止めるためにも、やはり我々は一刻も早くこの戦争に勝たねばならないようだ」
「おじさん。ずっと。ここに。いるの」
「そうだ。数日前、卑劣なゲリラ攻撃を受けて、部隊とはぐれてしまった。それから俺はここで潜伏している」
「せんぷく?」
「ああ。ここは奇妙な島だ。マンパックからの応答もなく、方位磁石さえ役に立たない。だが心配はしていない。ここで耐え忍んでいれば、間もなくペンタゴンからの援軍が来るだろう、イロコイに乗ってな」
「??」
その後も、男は意味不明の問いかけをしてきた。
――イロコイが降りられるような広い場所はないか。
――あちこちにベトコンどもの巣穴があるはずだから教えてくれ。
――島の大人には絶対にこの場所を教えるな。
――水の汲める場所はないか。
「俺は生き延びなければならない。そして任務を果たし、ここから脱出しなければならない。この――地獄のナムから」
言っていることの九割方は意味も分からなかったが、持っている水が少なくて喉が渇いているようだったので、今度来る時に水を持ってくると約束した。男はあちこちがボコボコにへこんだステンレス製のまるっこい水筒を男児に預けた。中身はとっくに空のようだ。
「じゃあ。これ。あげる」
お返しにと、男児はポケットの中からレモン味のキャンディの一つを渡す。
男はまたしばらくそれを見つめた後、受け取った。
「俺の名はクモカワ」
「くもかわ。さん」
「そしてお前は――名が無い子供」
「うん。わかんない」
「なら、俺がつけてやろう。不便だからな。お前は“ムーア”だ」
「むーあ?」
「現地の言葉で“雨”だ。俺が来てから、ここは一日も雨が降っていないのだ」
「あめ」
「もう一度言うぞ。俺がここにいることを誰にも明かすなよ。この島では誰も信用ならない。誰がベトコンと繋がっているかも分からんからな」
「わかった」
「では、これから合い言葉を教える」
「あいことば?」
「ホーチミンは」
「ほーちみんは」
「“ろくでなし”だ」
―――
同時刻。再び、島の裏側の浜。
「先発隊のように――狂ってしまったほうが、いっそ楽なのかもしれない」
外に置いていたソーラー充電機能付きのモバイルバッテリーを回収したエビナがテントへ戻ってきた。この陽の光は人間にとって自然にとってあらゆる恩恵をもたらす。もちろん、その一方では日照りや干魃などの災害となることもある。だから人々は太陽を崇め、奉ってきた。
「ヘンなこと言わないで下さいよ先輩」
「冗談だよ。ボク達は取り込まれるつもりもない。まあ、要はあまり“深く考えすぎないほうがいい”んだろうってだけのことさ」
「そんなの、さんざん言われてきたことじゃないッスか」
「ここは全てが理不尽で、悪意にまみれている。太陽も、夏も、言ってしまえば自然の埒外にある。取り込まれようと取り込まれまいと、ここに長くいて狂わないほうがおかしい」
そう。この“夏”は季節としての夏ではない。この中で起こることは全てが理不尽で一貫性がない。それどころかこの悪質な環境は、理由を考えれば考えるほどその心に順応し、つけ込んでくる。“深く考えすぎないほうがいい”とはそういうことだ。エビナやホトハラのようなエージェント達にもそう教え込まれている。“ものがみさま”なる存在も、おそらくそうした隙を作ろうと繰り出してきた精神汚染手段のひとつに過ぎないのだろう。
「ダメだね。昔のクセで、どうもこういう理不尽なものを見ると、あれこれ探ろうとしてしまう。意味を見いだそうとしてしまう」
「オレなんて、なーんも思わなかったくらいッスよ」
「そう。それが正解なんだ。キミくらい単純なほうがここで動くには最適なんだろうって、改めて感じたのさ」
「先輩、それ、誉めてます?」
「誉めてるよ」
「ならいいんスけど」
元々この島に存在していた“それなりに伝統のある”太陽信仰。その信仰を一瞬ですり替えるほど強烈な影響力、あるいは汚染力。エビナにとっては気にならないはずもない。
けれど。
「ともかくこれ以上の詮索はナシだ。“ものがみさま”がなんだろうと関係ない。ここで起こることすべてを直視してはいけない。あいつらの正体が何者かを探るのも目標に含まれてない」
空調服のバッテリーに充電用ケーブルを挿しながら、エビナはホトハラを見ながら言う。あるいは、それは自分自身に向けての念押しでもあった。
「今回の優先目標は計画を無事に完遂させること。“ゆるふわちゃん”を取り込んだあの胡散臭い夏祭りが……無事に“成功”するように」
そう言いながら、エビナは充電ケーブルをノートパソコンにも繋ごうとする。
だが、ノートパソコンの充電ランプは光らなかった。どれだけ電源ボタンを押そうとも、それは二度と起動することがなかった。
――“目を付けられた”のだろう。
この島は穏やかな夏に支配されている。
島は――“奴ら”はかつての古き良き時代に生きている。
最新の電子機器など、そこに“あってはならない”。だから目を付けられた。
エビナは無力化されたノートパソコンの起動を諦め、奥へとしまい込んだ。
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