その夏に包まれて

 朝早くに起き、ゆっくりと朝食を摂り、淹れてもらった冷たい麦茶のボトルを下げ、午前中に散歩に出掛ける。昼になったら一度民宿に戻り、そこから先はまた出掛けるか、あるいは昼寝をする。三時にスイカや軽食を摂り、まだ日も沈まぬうちに夕食を済ませ、風呂でその日の疲れを落として早ばに眠る。時が、ゆっくりと流れていく。


 ニジノが島に来てから数日が経った。何かイベントがあるわけでもない、穏やかなスローライフを彼女は満喫していた。


 いくつかの疑問はあった。例えば裏の浜にいるらしい“誰か”の存在や、昨日には無かったはずのスイカ畑や■■■■畑が突然現れたことなど。そして“近づいてはいけない”とカニエをはじめ島の住人から念を押された“社”の存在など。

 ――社の場所は分かっている。島に着いた初日にそのことを知らずに向かおうとして止めたのは、偶然ながら幸いだったのだろう。


 他にも気になるところはある。けれどそれ以上にこの島の暮らしは快適だった。住人達も皆優しかった。都会にないものがここにはあった。そうしているうちに、ニジノは些細な事などすっかり忘れ、毎日を過ごすようになった。


 夏は、終わる気配がない。


―――


「この子の名前はアオイちゃん!」

「この子の名前はヒュウガくん!」


「仲良しなんですね」

 道端に咲いた二本の■■■■を前に、ニジノはしゃがみ込み、にこにこと笑って応える。運ばれてきた海風にそよぎ、黄色い大輪が大げさに揺れる。その中に位置するびっしりと並んだ種は、そのひとつひとつがまるでこちらを見据える目のようにも見えた。

「うん、ぼくらは仲良し!」

「わたしたちは仲良し!」


「ニジノさんは」

「ここが、気に入った?」

「うん。みんな優しくて、時間がゆっくり流れてく」

「ずっとここにいたい?」

「大好き?」

「出来るならね。でも、夏が終われば私は元の生活に戻らなくちゃいけない」

「夏は終わらないよ」

「終わらないよ。ずっと」

 真上に昇る太陽を背にして、二輪の大花がニジノを見下ろす。■■■■は陽光を浴び、なおも立派に咲き誇る。この穏やかで華やかな夏が続く限り、ずっと。


「ところで、二人は」

「うん」

「うん」

「白いワンピースの女の子、知ってる?」

 その一言を聞くや二輪はぴたりと静止し――しばらく経ってから再びゆらゆらと揺れはじめる。


「ああ、あの子だね」

「うん、あの子だね」

「どこの子なの?」

「どこでもないよ」

「あの子は、どこにもいない」

「?」

「この島にいる人なら、みんな知ってる」

「みんな見た事がある。でも誰も知らない」

「知ってるのに、知らないの?」

「そうだよ」

「そうなの。でも」

「でも?」

「また会えるよ」

「会えるよ、ここにいる限り」


 島に来た当日、防波堤で見つけた少女のことが、ニジノはひどく気になっていた。他にも住人は見たのに、あの子のことだけが頭に残っている。顔すら思い出せない――否。思い出そうとしても、ノイズがかかったようになって、ひどくぼやけてしまう――のに、何故かまた会いたいと思ってしまっている。島内を散歩するたびに、彼女の姿を探してしまう。言われた通り、ここにいればまた会えるのだろうか。


「あ、そうだ」

「そうだそうだ」

 二輪が、同じ方向にグニャグニャとわざとらしく曲がる。

「カニエさんが」

「ニジノさんに」

「お願いしたいことがあるんだって」

「あるんだって」


―――


 話を終え、帰る道すがら、ニジノはふと立ち止まり後ろを向く。


 昨日まで、道端には何も無かった。

 今日になって、あの二輪が咲いていた。

 まるでニジノが来るのをわかっていたかのように。


 名前を教えたこともない。どこに泊まっているかも明かしていない。

 そもそも――あの声はどこから聞こえてきたのか。


 やたらに喉が渇く。

 残っていたボトルの麦茶を飲み干す。

 何の雑味もない、美味しい麦茶。


 少し考え、ニジノはまた前を向いて歩き出した。

 きっと“彼ら”とも再び会うことがあるだろう。


 ここにいる限り。


―――


 民宿に戻る途中で、ニジノはカニエに会った。


「五日後にお祭りがあってね」

「お祭りって。もしかして、あの神社で、ですか」

 住人達から、入ってはいけないと言われていた社。

「実はね、貴女にそういうことを言っていたのは、お祭りの準備をしていたからなの」

 五日後。まだ夏期休暇は終わっていない。

 ニジノは休暇ギリギリまで島に滞在するつもりだった。だから祭りも見られる。

「お願いっていうのは……そのお手伝いですか?」

「正解。お手伝い――というより、もっと大事なことかな」

 道端にしゃがみ込み、何かの一人遊びをしている男児を遠目に見つめながら、カニエはもったいぶったような口ぶりで言う。


「巫女になってほしいの」


 巫女ですか、とニジノはオウム返しで応える。


 ――十年に一度のお祭り、なのだと言う。それは島の神を称える行事であり、そうすることで島の繁栄と豊穣を祈願するのだと。

「別に、生贄に捧げようって言うんじゃないわ」

 怪訝そうな表情を見透かされたのか、カニエは笑う。

「ただ、ちょっとね。神様の好みなのか、できれば若い女性の方が良いってことになってて。前回はここに住んでる人のお孫さんが夏休みに来てくれて、それで無事に済んだらしいんだけど」

「でも私は“島の人”じゃないですよ。ただの旅行者で」

「いいのよ。むしろ、そうじゃないほうがいいの」


 要は――目玉行事として祭り上げられる巫女に求められるのは若い女性(昔は十代までだったが、今は三十までくらいなら良い、とのこと)で、なるべく普段は島の外部にいるような者が望ましいと。つまりはそういうものらしい。ニジノは風習や風俗に詳しいわけではない。“そういうもの”というならそういうものなのだろう。


「ならカニエさんのほうが良いんじゃないですか」

「あら、私、そんなに若そうに見える?」

 言って、カニエは笑う。

「そ、そういうわけじゃ。充分お若いですけど……いえいえいえ、別に変な意味はないですよ?!」

 慌てふためくニジノがよほど面白かったのか、カニエはさらにけらけらと笑った。

「ふふふ……あー、おかしい。……うん。実はね、貴女が来るまでは、そうしようと思っていたの」

 この島は現代社会から取り残されたような村で、故に住民の平均年齢もかなり高い。相対的に見ればカニエは“若い女性”である。まして東京から引っ越してきたというのなら、条件には適合している。来たばかりの自分などより、よほど相応しい。

「だったらなおさら私なんて。それに」

「それに?」

 他にも若い女性なら――と言いかけて、ニジノの頭がずきりと痛んだ。

(“あの子”は?)

 防波堤で見かけた、白いワンピース姿の少女。


 ……いや。

 彼女はきっと島の住民だ。だから条件には合わないに違いない。


「それに、何?」

「ええと」

 言いかけた言葉を繋ぎそびれて、ニジノはさらに慌てる。

「その……なんていうか、そういう呪文とか、お祈りとかが出来るわけでもないですし」

「いいのよ。カタチみたいなものなんだから。用意した服を着て、当日はみんなの言う通りに動いて、後は置物みたいに座っていれば大丈夫。さっきも言ったけど、別に貴女を生贄として捧げようっていうんじゃないの。そういうことを“ものがみさま”は望まないから」

「ものがみさま?」

「そういう名前なの。それだけ覚えていてくれればいいわ。まあとにかく、危ない因習とかじゃなくて、今となっては形式的な行事よ。だから、是非協力してくれると嬉しいのだけれど」


 ニジノは唸る。一夏の思い出とするにはまたとない経験ではあるだろう。


「まだ迷ってる?」

「まあ……」

「じゃあ、ダメ押しで、おいしい話をもう一つ」

「?」

「巫女になった人は想ってる願いが必ず叶う、って話」

 そう言って、カニエはウインクした。

「恋でも将来でもお金でも、貴女が心の底に持ってる願望が“ものがみさま”に伝わって、それで叶えてくれるって」

「そんな“役得”があるなら、カニエさんだってやりたいんじゃないですか」

 そう返すと、彼女は微笑みながら答える。

「――私はね、もう叶っちゃったから」

「ああ……」

 そうか、とニジノは思う。

 カニエの願いは“ここにいる”という時点で確かにもう叶っている。


「だから、今度は貴女に叶えてほしいの」


 やがて二人の長話に飽きたのか、傍で遊んでいた男児がぺたぺたとサンダルを鳴らしながら戻ってくる。

「……」

「どうしたの?」

 男児は戻ってくるやいなや、少し遠くにある雑木林に目線をうつす。

「何か見つけた?」

「ううん。だいじょうぶ」


 明日の朝くらいまでに決めておいてくれればいいから、とカニエは付け足して、その話は終わった。その後は三人で民宿に帰り、いつものようにスイカを食べ、そしてニジノは午後を昼寝で過ごすことにした。


 午睡の夢に出てきたのは、あの白いワンピースの少女だった。


―――


 あたらしく   きた  ひと


 よろしくね


―――


 午後。島の裏側の浜にて。


「危ねえところでしたよ」

「近づきすぎたか」

「や、まあ平気だとは思うんですけど。あの子供だけ、妙にカンが鋭いのか何なのか」

「“ゆるふわちゃん”達には気付かれなかった?」

「そこらへんは大丈夫ッスね」


 首をゴキゴキと鳴らしながら、ホトハラはテントの奥にあった水筒に口をつける。緊張で喉が渇いたのか、半分ほど残っていた中身を全て飲み干す。

 テントで待機していたエビナは空調服にガスマスクという相変わらずの姿で、簡易テーブルに腰掛けながらノートパソコン(防塵・防水・MIL規格準拠の耐衝撃性能を持つ)を叩いている。本人はいたって平然としているが、やはり見ているだけで暑そうだ。

「使えるんスか、パソコン」

「今のところはね。“夏”の影響下では最新の電子機器は異常を起こすって聞いていた。ダメ元で持ち込んではみたけれど、まだ“目を付けられていない”みたいだ。……で、そっちはどうだったの」

「想定通り、アプローチされたみたいですね」

「ノってきそう?」

「たぶん」

「後はうまく引っ掛けてくれればいいんだけど」

「……」

「どうしたの?」

「あそこに居たの。確かにブリーフィングの時に見せてもらった写真の通りッスね」

「ああ」

 何かを察したような呻きが、ガスマスクごしに漏れる。

「見た目はフツーでしたけど」

「で中身はもう違う。ホトハラ。キミも“ああ”いう風になりたくなかったら、油断はするなよ」

「そりゃまあ」


 ホトハラはそう言って折り畳み椅子に腰掛ける。

 エビナに言われずとも、そこだけは抜かりない。“夏”に取り込まれた人間がろくなことにならないのはよく分かっている。彼がこの夏を憎む気持ちは、おそらく誰にも負けはしないだろう。


「ああ、でも」

「うん」

「さすがに虫除けは必要ないんじゃないッスかね」

 ホトハラは日に焼けた腕を擦る。

 よく鍛え上げられた腕に刻まれた、トライバルのタトゥー。


「あんだけ林の中にいて、虫刺され一つもない」

「つまり」


「……虫がいないんスよ、ここ。どこにでもいるはずの、うざったくて不快なヤブ蚊やら、そういうのが、まったく」


「それも報告通り、ってことだね」

「ッスね」

「蝉の他には虫もいなくて、日中は暑くて、夜は涼しくて、どこまでも過ごしやすくて」


「まさに」

「――“理想の夏”」

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