その夏に誘われて

 ニジノが島に訪れた、その数週間前。


 島の裏側。砂浜。

 揚陸用ゴムボートから降りてきた三人の男女。


「隊長。通信機は不調を起こしています。やはり使用不能かと」

 スポーツ刈りの、真面目そうな男が機器をチェックしながら言う。ここに来る前に何度も動作確認をしたものだ。物理的な故障などではない。

「予想通りね」

 隊長、と呼ばれた背の高い女性は、特に驚くような素振りも見せていない。

 何もかも報告通り。いわば確認作業のようなものだ。

「そのまま持ち続けていて。どこかで一瞬でも繋がる場所があるかもしれない」

「ホットスポット、のようなものですか」

「この島では何が起こっても不思議じゃない。逆に言い換えれば、どこかに法則の“例外”があるかもしれない。それを突き止めることができれば、それだけでも偵察任務は大成功」

「了解しました」

「よろしくね、ガトウくん」

 二人は顔を見合わせ、頷く。


 一人はガトウ。高い身体能力と実直な性格と冷静さを持つ男。

 一人はカニエ。同じく高い身体能力、分析力と危機管理能力を持つ才女。

 過去の任務においても、汚染や負傷などのミスもなく、何度も役目を果たし遂げたベテランの二人である。


「待って下さいよ、お二人とも」

 そして気の抜けた声と共に、最後の一人が重そうな荷物をガチャガチャと下げながら駆け寄ってきた。

「クモカワ、大きな声を出すな」

 ガトウが睨む。ここは既に“作戦”の現場で、危険区域の真っ只中だ。

「いやそう言ってもね。スゲー重いんですよ、この荷物」

「半分は君の希望通りの荷物でしょう?」

 カニエも呆れ気味に応える。

「そりゃあそうですがね」

 ダークネイビーの一般的な軽BDUに身を包む二人と違い、クモカワと呼ばれた男は一人だけタイガーストライプ柄のパンツにカーキ色のシャツを着用している。二人とは違い身体つきは貧相であり、立ち振る舞いは素人のそれだ。

「隊長、やはり」

「そこから先は言わなくていいわ、ガトウくん。この人選は上部が決めたことよ」

「ですが」

 口ごもるガトウを制して、カニエは周囲を見渡しながら呟く。

「こんなものは――元より、真っ当な作戦ではないの。なら私達もまた、真っ当な振る舞いだけを求められているわけではない」

 砂浜は不気味なほど静かで、ただ波の音だけが響いている。海から来る風は涼しく、肌寒いほどだ。時刻は深夜二時。“侵入者”の三人の頭上で、夏の夜空がきらきらと無数の星を煌めかせていた。


―――


 島に異変が起きたのは今年の初め。旅行者の失踪が相次ぎ、それを察知した対策組織により、ただちに島は一般人より隔離された。

 かつては漁業や観光で栄えたこの島も今や過疎地域になり、時代に取り残されていた。こんなことがなければ、やがて打ち捨てられ、ひっそりと消えゆく運命にあったことだろう。だが――あの事件より後――“夏”はここを侵し、楽園に作り替えた。海を知った“彼女”にとって、ここはまさしくうってつけの場所であり、うってつけの環境だった。


 こうして、この島はまるごと“夏”になった。


「“虫除け”は?」

「塗布済みです」

「薬は?」

「服用しました。予備も携帯しています」

「いつもと服用時間が違うから気をつけてね」


 三人は腕時計を取り出し、調整ネジを摘まむ。

「時刻合わせ。0230まであと十秒。……5、4、3、2、1、セット」

「「セット」」


 任務の詳細はこうだ。“夏”が活性化していない深夜に行動を起こし、夜明けまで偵察を行う。人里の調査は隊長であるカニエ。野山の調査はクモカワ。そしてここに残り、二人のサポートを兼ねつつ浜の調査を行うのがガトウである。

 まとまって行動するか、個別で行動するか。過去の実績から、どちらにもメリットとデメリット、そしてリスクがあることが判明している。通例と危険性を鑑みれば二、三人の分隊で行動する方が常識的ではある――が、ここは常識が通用しない場所だ。アノマリーに襲撃され、一人ずつ消失、あるいは隊まるごと一気に瓦解した分隊も少なくない。特に今回は一夜限りの強行偵察。“奴ら”との接触を避け、できるだけ多く動き、朝と同時に帰還する。だから多少の危険を許容しつつも、個別分担して調査を行う。

 どちらにせよ彼らの命は軽い。カニエとガトウは少なくともそれを自覚している。クモカワは分かっていないようであるが。

「クモカワ。本当にそれを持って行くつもりなのか」

 あからさまに場違いな格好のクモカワは、輪を掛けてさらに場違いなものを担いでいる。木製銃身が特徴の、民生用カービンタイプの古い猟銃である。野山には獣が出るかもしれないという彼の(熱心な)主張により所持を許可されたもので、弾倉は通常の五発型から十発型のそれに換装されている。全長1m弱。重量約3kg。決してコンパクトとは言えず、とても偵察任務には向かない代物だ。

「これがないと始まらないんですよ」

 クモカワはそう嘯く。威勢だけはいい。何が入っているのか、その他にも背嚢は大きく膨らんでおり、それらを負った彼の足腰は既に軽く震えていた。


 常識が通用しない場所であれば、作戦や人選も常識にとらわれてはいけない。真っ当な振る舞いだけでは通用しない。まして上部が許可した人選と装備ならば、ガトウも文句を言うつもりはない。……少なくとも、表面上は。


―――


 そして作戦開始から十数分後。


 島の調査に出た二人を見送った後、ガトウは浜から少し離れた場所に簡易テントを二つ立て、ボートに積まれていた機器や装備を降ろしていく。

 彼に課せられた任務は三つ。

 二人に持たせた子機がもし“ホットスポット”に入って繋がるようであれば、すぐさま応答して場所を記録する。これが一つ目。

 二つ目は浜の調査。人家や施設の配置から見ればここは島の裏側であり、揚陸には最適の場所だ。そこで今後のさらなる調査のため、危険なアノマリーの有無や“奴ら”に発見されるおそれがないかを調査する。これは積み荷の整理が済んだ後で行う。

 そして最後の三つ目は――。

「クモカワか、私か……どちらか未帰還者がいた場合でも、午前七時には必ず定刻通り島を離れるように」

 これは偵察隊隊長カニエからの“最重要”命令である。任務の目的は偵察であり、送り出された以上は必ず何かの情報を持ち帰らなければならない。ガトウはその役目を最後に担う一人となった。


 午前七時まであと四時間。三人は再び揃うだろうか。どちらかが欠けることはあるのだろうか。あるいは、二人とも――。

「……」

 彼の腰には二つの通信親機。

 それらはどちらも虚空を捉え、小さなノイズを放ち続けていた。


―――


 ――ザ。


 ザザ。ザ。


 あなた は


 ――■■。

 ザザ。ザザ。ザ。


 どうし て そこ に いるの   ?


 ザザ。


 よ   こ そ


―――


 ――カニエは“夏”に興味がない。

 故郷や田舎暮らしに魅力を感じたこともない。彼女にとっての理想とは、都会での暮らしであり――食事やあらゆる品物が“お急ぎ便”ですぐに来る――手を伸ばせば何でもある便利なライフスタイルのことである。

 だから選ばれたのだろう、と自覚はしている。


 だれ


 島を巡る遊歩道(という名の荒れた道)をしばらく行くと、人家が見えてきた。数十年前から時が止まったような古い家々に灯りはなく、しかし荒れた様子もない。山の斜面に無理やり作られたような民家の群れはぎっちりと狭く、合間にある細い路地は急階段と変則的な段差でどこも迷路のよう。さらに海が近いせいか、吹き抜ける風は涼しく、そこに混じった潮の香りがカニエの鼻をつく。

 ――生臭い匂いだ、としか感じない。

 人によってはこれにノスタルジーを感じるという。冗談ではない、と彼女は思う。建物は古く、空気は生臭く、ショッピングモールどころかコンビニすらもなく ■■■■ばかりの道と 宅配を頼んでもろくにモノは届かず、さらに ■■ 住民達とは無用なコミュニケーションを強いられる。こんな場所、たとえどれだけのカネを積まれようとカニエは断るだろう。

(……)

 ふと己の油断に気付き、気を引き締める。 だれ? それにしても本当に静かだ。人の気配どころか動物一匹の気配もない、しんと静まりかえった深夜の、不自然なまでに自然な景色。周囲に注意を払いつつ、音を立てないよう路地を進む。アノマリー、そしてアーティファクト。 まだねむいよ この島では何があっても、どんなことが起こっても不思議ではないのだ。


 やがて視界が開ける。眼下には小さな港と、その向こうには真っ黒に染まった海が見える。家々の隙間をくぐるように降りると、カニエは“大通り”のような場所に辿り着いた。そこにはシャッターの閉まった商店が数件と、かつて郵便局か何かだったと思しき空き家、そして大量の■■■■と、何年前からあるか分からないような自動販売機。ここがおそらく島のメインストリート。だがこれならローカル線の駅前のほうがまだ広いだろう。

 ここに来てさえ、相変わらず何の気配もない。活性化する前に偵察をしているのだから目論見通りではあるが おねえさん? ここまで何もないと、肩すかしを食ったような気分でもある。

 携えた通信機には何度か目を通している。だが“圏外”の表示が消えることはない。試しにスイッチを入れてみるが  おねえさん! ノイズを吐くばかりでガトウとも繋がる様子はない。


 こんなじかんに?


 港のそばには潮風を浴びてところどころ剥がれかけた案内板があり、そこには島の全容がイラストになって書かれていた。かつてはこの島も、観光地としてアピールしようとした時期でもあるのだろうか。カニエは荷物の中からデジタルカメラを取り出し、案内板を撮影しようと試みる。だが“想定通り”に電源は入らない。この島を覆う力場、あるいは呪いとでも呼ぶべき効果のせいだ。デジカメをしまい、代わりに古い使い捨てカメラを構えて撮る。カシ、カシ、と乾いた音が静まりかえった港に響く。正常に写っているかどうかすら分からないが、少なくとも撮れている手応えだけはある。

 腕時計が示す時刻は午前四時。もう一回り“観光”して戻るか、とカニエが案内板から離れて振り返ると――。


「おねえさん?」


 目の前に、子供がいた。


―――


 ――クモカワは“夏”に興味がない。

 平凡な暮らしに魅力を感じたことがない。彼にとっての興味と趣味はミリタリーとサバイバルゲーム、そしてそれをネットでひけらかすことだけだ。

 だから今回の任務に選ばれた時は、冗談じゃない、と思っていた。


 だからこそ、彼は少しでも“気分がノる”方向に考えようと思った。任務は島の探索。人家と山、どちらが良いかと言われ、躊躇いもなく山を選んだ。そして自分が考える理想の装備を申請し、問題なくそれは受理された。これは彼にとって嬉しい誤算だった。

「……」

 持ってきた私物の油性マジックで、目の下、頬のあたりにラインを引く。これだけで気分は上々。肩に食い込む背嚢のスリングも、心なしか少し軽くなったような気さえする。

 そして、何よりクモカワの気分を最高にさせてくれるのは猟銃だ。この携行が許された時には天にも昇る思いだった。電動エアソフトガンなどではない、本物の銃。本物のカービン(欲を言えば“ブラック・ライフル”が理想ではあったが)。


 午前三時半。暗闇に包まれた山道を、“その気になった”クモカワは、ニヤニヤと一人笑いながら歩いていく。土葉を踏みしめ、コンパスと地図を頼りに進む。あたりは静かで、何の気配もない。

 途中、意味もなくライフルを構えてみる。もちろん原則的に発砲は許されていない。今回の任務は偵察だ。許可されるのは敵対的な存在が現れた時だけ。僻地の小島の山奥。何かいると思ったが、人はおろか動物や虫の姿、声すらもない。思い出したように通信機を見てみたりもした。だがどこにいってもずっと“圏外”のままだ。


 ふと上を見上げれば、木々の隙間から星空が覗いていた。


 何もない。何も聞こえない。何の姿もない。■■■■だけがある。

 何も。■■も。何も。

 不気味なまでに、不自然なまでに何もない。


 クモカワは唾を飲み込んだ。“夏”にしては空気は妙に涼しく、湿気っている。シャツ一枚では寒さすら感じるかのようだ。なのにやたらに喉が渇く。背筋が妙な汗をかいている。背嚢に吊り下げていた水筒(ステンレス製キャンティーン。私物である)の水を飲む。まるで血のような、金臭い味が口の中に広がる。


 道を確かめるように地図とコンパスを見る。

 コンパスの針がグルグルと高速回転していた。


 この島では何があっても不思議ではない。繰り返し言われた言葉を思い出す。足早に歩を進め、山道を行く。アノマリーでもなんでも来るなら来い。こっちには“コイツ”があるんだ、と、背中の猟銃に意識を向ける。今はそれだけが心の支え。高鳴る心臓の音を聞きながら歩く。ただ歩く。


 ザ ザ  ザザ


 腰に下げていた通信機が、突然ノイズを発しはじめた。


―――


 こんなじかんに?


 まだねむいのに ■■■?


―――


「おねえさん。どこからきたの」


 カニエは反射的に腰のホルスターから拳銃を取り出していた。照準の先には無垢な男児が一人。つぶらな瞳でこちらを見つめている。

 こんな時間に子供などいるわけがない。この島が引き起こす異常現象――アノマリーに間違いないだろう。彼女は構えた拳銃の「おねえさん?」安全装置を外し、じりじりと後退する。

「どうしたの?」

 男児は小首をかしげて問う。そうして無邪気に佇む男児を前に、カニエは深く呼吸をしながら冷静に思考を巡らせる。口を開くな。関わったら負けだ。不用意に「どこからきたの?」関われば取り込まれる。カニエはブリーフィングでそれを理解している。この島では何があっても不思議ではない。調査し、情報を持ち帰ることが目的だ。危険は避けろ。

 トリガーにかかる指に力がこもる。かつての作戦における「それはなに?」事例から銃弾に一定の効果があることは判明している。だが撃ってどうなる。ヘタに撃って刺激しても、望む結果になるとは限らない。どうする。このまま逃げ「おねえさん?」


「……なあに?」

 カニエは男児の問いかけに応え、銃を下ろし、男児の背に並ぶよう膝をついた。


「こんなくらいのに。なにしてるの」

「お姉さんはね、お仕事の最中なの」

 安全装置をかけるのも忘れたまま、ホルスターに拳銃を収め、視線を合わす。

「それって。大へんな。こと?」

「そうね、大変かもね。でもお仕事だから」

 だぶだぶのシャツに短パン。いかにも田舎の子供といった風貌。短パンから伸びる脚は子供特有の“丸さ”があり、どこかで転んだのだろう、膝小僧には絆創膏が貼ってある。さらに視線は下から上へ。脚だけではない、シャツの袖から出た腕も、首も、顔も、全てが丸く、その肌は艶やかで、子供特有の瑞々しさを保っている。ああ。こんな。

 カニエは手を伸ばし、頬に触れる。弾けば押し戻されるような弾力性。滑らかなさわり心地。

「おしごと。まだながいの」

「ううん。もうすぐ終わるわ」

 これは罠だ。分かっている。“奴ら”は巧みにこちらの隙を突いてくる。そうして仲間を増やそうとする。分かっている。抗えない。分かってはいる。抗わなければ。

「じゃあ」

 でも。こんな。こんな子を前に――。


「おわったら。あそぼうよ」


「うん。お姉さんと、遊ぼうか」


―――


「来るなら来いってんだよ!」

 クモカワの叫びは木々の隙間に吸い込まれた。何を言っても、何処を見渡しても、何もない。グルグルとコンパスが回る。何もない。かろうじて山道を走っていることは分かるが、もはやどこに向かっているのかも分からない。何も見えない。虫や動物の鳴き声も匂いも気配もなく、生命の息吹が一切感じられない山中。何も聞こえない。異様な状況にもっと早く気付くべきだった。気付いた時には引き返すことすらも出来なかった。グルグルとコンパスが回る。取り囲む暗闇は静かにクモカワの視界を狭めていく。

 火。火はないか。クモカワは背嚢のポケットからジッポー(オークションで手に入れた1950年代の一品。私物)を取り出して火を付ける。オイルは充填したはずだ。しかし火はつかない。フリントホイールを擦る音だけが虚しく響く。グルグルとコンパスが回る。とにかく何かないか。通信機はとうとうノイズすらも吐かなくなった。何もない。何も見えない。何かないか。そこにある手応えを感じたくて、クモカワは手当たり次第に背嚢を漁る。“その気になる”ために色々と持ってきたはずだ。だが背嚢の中身が見えない。暗闇に染まり、何を掴んでいるかも分からない。


 ふと、視界の隅――木々の間に、何かが見えた。


 暗闇の中にあって、それはまるで道しるべにも見えた。

 鮮やかな黄色をした、輪のような何かが二つ。


 グルグルと回っていたコンパスが止まり、ぴしゃりとそちらを指す。背嚢を背負い直し、ライフルを手に、縋る思いでクモカワは駆け出す。もう何でもいい。アノマリーでもアーティファクトでもいい。ここから抜けられるというなら――。


「ねえねえアオイちゃん!」

「なあに、ヒュウガくん?」

「あの人、見える?」

「見えるよ! でも変な格好だね!」

「こんな時間に、こんなところで何をしているのかな?」

「猟師さんかもしれないよ!」

「クマさんでも出たのかな?」

「わっ、怖い!」


「あ……」

 ■■■■だ。


 二輪の、鮮やかな黄色をした――こんな場所に生えているはずもない――大きな■■■■。こちらを見ている。真っ暗な森の中でこちらを見て――会話をしている。

 クモカワは一瞬、呼吸をするのも忘れそうになった。


 通信機が、再び不快なノイズを発しはじめる。


「あっ猟師さんがこっちに気付いたよ、アオイちゃん」

「でもなんだか変な顔をしているよ、ヒュウガくん」

「怯えてるのかな?」

「怯えてるのかも?」

「ボクが知っている人達は、もっと幸せそうな顔をしているのに」

「幸せじゃないのかな?」

「笑えないのかな?」

「笑えないのかも?」

「幸せじゃないのかも?」


「何だよこれ」

 ゆらゆらと揺れる二輪の■■■■。それは突然目の前から姿を消し――。


「アオイちゃん?」

「ヒュウガくん!」


「やめろ。囁くのをやめろ」


「笑おうよ」

「笑おう!」


「喋るな」


「ボク達みたいに!」

「ここの島の人達はみんな幸せ」


「俺の耳元で」


「幸せじゃない人なんかいないんだから」

「いないんだよ」

「みんな幸せじゃなくちゃいけないんだ」


 クモカワの背後から声。目の前にいたはずの二輪は、いつの間にか彼の後ろに現れていた。二輪は再びゆらゆらと揺れ、あざ笑うように咲いている。


「「――だってそれが“夏”だから」」


「喋るなああああああああああああああああ!」


 クモカワは絶叫し、振り向きざまにライフルのトリガーを引く。

 狙いもなく放たれる30口径カービン弾が、二輪の■■■■を吹き飛ばす。


 耳障りな囁き声が止む。黄色い花びらが散る。

 ライフルの銃声はしかし響くことなく、それすらもまた木々の暗闇に吸い込まれていった。


―――


 ――ザ ザザザザザ ザザ


 こっち――


 こっち ザザ こないの?


―――


 午前六時。水平線の向こうから昇りはじめた太陽がガトウを照らす。


 相変わらず、通信機からは何の応答もない。二人が浜に帰ってくる気配もない。リミットまではあと一時間。


 浜は異様なまでに穏やかだ。あれからガトウは周囲を入念に調査したが、異常現象もなければ“奴ら”が姿を現すこともなかった。少なくともそれが分かっただけでも偵察は成功といえるだろう。後は二人を待ち、“夏”が活性化する前に機材を片付けて撤収するだけ。あるいは――二人が未帰還でも、そうするだけ。


 ガトウはテントの傍で、懐から煙草を取り出して吸う。さざ波の音だけが聞こえる穏やかな浜。見渡す限り、あまりにも穏やかな浜。


 ――長らく旅行にも行っていない。最後に行ったのはいつだったか。何処に行ったのだったか。気付けば仕事、転職、そして仕事の毎日で、身体だけでなく心を休めることすらも忘れていた。それが日常なのだと、彼は己の人生を半ば諦めていた。

 二人は帰ってこない。残り一時間を切った。時計の針は正確に時を刻んでいく。煙草を吸い終え、ガトウは再び浜辺へと歩き出す。太陽が昇りきって朝になり、一日が始まり、気温はじっくりと高くなっていく。


 この任務が終わったら、少し休暇を取ろうか。

 砂浜についた自分の足跡を見ながら、ガトウは思いに耽る。


 ふと――遠くに、人影が見えた。


 打ち寄せる波に遊ぶ、裸足の少女。

 ひらひらと翻る白いワンピース。


 反射的に、ガトウの身体は一瞬にして警戒態勢に入り――そして、間もなく解除した。ここは夏の島だ。都会の忙しさにとらわれることのない、ゆっくりと時間が過ぎる、穏やかな浜。遊びたくなる人間もいるだろう。

 ああ。そうだ。釣りだ。そういえば昔は釣りが好きだった。朝早くに出掛け、のんきに海辺で釣り糸を垂らすのが好きだった。今回だって、こんなところでただ待つくらいなら、釣り具でも持ってくるんだった。


 やがて遠くの少女がこちらに気付いた。

 彼女は裸足のまま、ぺたぺたと小走りで近寄ってくる。


 ――こんな


 こんな時間に ■■■ ■■ こんなところで


「いや」


 ■■■――?


 白ワンピースの少女がガトウに声をかける。


「俺は、何をしていたんだっけな」


 朝日に照らされる少女の、無邪気な微笑み。


 それはまるで■■■■のようで。

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