その夏に魅入られて
日が暮れて夜になれば、網戸の窓からは肌寒いほどの風が入ってくる。民宿の部屋には冷房もついていなかったが、充分すぎるほど涼しい。
さらに網戸を開け、戸縁に腰掛けて空を見上げると、そこには満天の星空が広がっていた。部屋の電灯を消せば他にほとんど光源はなく、天の川さえも見える。クルマが通る音も、酔っ払いがわめく声もない。静かな夜に、時おり民宿の玄関に吊してある風鈴が控えめに鳴る。あまりの幻想的な光景に、ニジノはしばし見入っていた。これなら、明日も明後日も――まだ天気は大丈夫。
蓄光塗料の腕時計が宵闇の中でぼんやりと光り、その針は八時を指している。普段なら電車に揺られて帰路についているか、あるいはまだ残務処理に追われている頃だろう。夜が長い。昨日までの、東京でせわしなく働いていた日々が嘘のようだ。暇つぶしのスマホもなければテレビもない。けれどそんな“何もない”時が、こんなにも貴重だなんて。
部屋の扉からノック音。
ニジノは戸縁から降り、ノックに応えつつ扉を開ける。
「あら。起こしちゃったかな?」
目の前で穏やかに微笑んでいたのは、カニエ――自分と同じか、少し上くらいの、落ち着いた雰囲気を持つ女性だ。薄手のブラウスにロングスカート、その上からはエプロンを着けている。
「いえ、星を見てたんです。部屋を暗くして」
「なら良かった」
「どうしたんです?」
「デザートがあるから降りていらっしゃい、って。それを伝えに来たの」
―――
夕飯は素朴なものだった。白飯と味噌汁、刺身の盛り合わせにキュウリの漬物。旅館で出てくるような豪華なものではなかったが、元々小食なニジノにとっては量は丁度良く、しかし質は、特に刺身は抜群に美味で、これが本物の海の幸かと舌鼓を打った。もちろん、デザートは腹に入るか、と言われれば、入る。が。
「どうしたの?」
民宿のロビーのテーブルには、カットされたスイカ。
「ああ、そうか。おばさん、昼間も出してたんだっけ。ごめんね、ケーキとかそういうのって、ここは船便が来ないとなかなか調達できなくて」
「あ、違います! そういうのじゃないです」
一瞬の躊躇はあったが、気を遣ってもらったのに悪くするわけにはいかない。ニジノはスイカを手に取り、かぶりつく。――美味しい。
「美味しい?」
「美味しいです」
「ちょっと離れたところに住んでるおじさんがね、いつもくれるの。うちで出来たスイカだから、って。昨日も、私達だけじゃ食べきれないくらい、一玉まるまる」
「この島でもスイカが採れるんですか?」
「……?」
「……」
一瞬、カニエから表情が消え、静止した。
「カニエさん?」
「あ? うん。はいはい。そうそう。山の中にね、畑があるの」
「へえ」
昼に食べた時に感じた、あの異様な味はなんだったのだろう。今、ニジノの目の前にあるのは、いくつ食べても飽きないくらいの美味しいスイカだ。
―――
テーブルの向かいにはカニエがいて、彼女の膝の上には昼間に見たあの男児がちょこんと乗っていた。カニエは彼を優しく包み込むように腕を回している。
「さいごのいっこ。たべても。いい?」
「うん。でもその前に、おねえさんにもどうぞ、ってしなきゃ」
「わかった。おねえさんも。どうぞ」
「あ、もう私、たくさん食べましたんで」
「食べてもいいって。ありがとう、は?」
「おねえさん。ありがとう」
「どういたしまして」
カニエは男児の頭を優しく撫でる。
ニジノがはじめにカニエを見たのは、夕方、散歩から帰ってきた時だった。最初は自分の他にも観光客がいるのかと思ったが、聞けば彼女はこの島の住民で、民宿で住み込みのアルバイトをしているのだという。黒髪で長身。モデル体型の美女。やや小柄なニジノとは対照的で、家庭的なエプロンを着けていてさえその雰囲気はどこかスマートだ。元は東京でそれなりのキャリアをもって働いていた、というが――。
「ここに来たらね、なんだか、帰りたくなくなっちゃったの」
カニエはうとうとと眠りこけはじめた男児を寝かせるために一度席を立って、それから小さなポーチを手にして戻ってきた。控えめな電灯が照らすロビーはやはり雑音もなく、静けさに包まれている。
「いいところですよね」
「でしょう?」
ポーチの中からメンソールの煙草を取り出し、カニエはニジノに視線を向ける。ニジノはどうぞ、と頷く。
「人生が変わっちゃった、っていうのは言い過ぎかもしれないけど」
「それでも、仕事を辞めてまでここに移住してくるって、すごいですよ」
「昔からいつもそうだったの。後先のことを考えない性格だって言われてたわ」
自分と似た境遇でありながら、その行動力の違いにニジノは驚いていた。
「思いついたら後はあっという間だった。仕事を辞めて、クルマもマンションも手放して、この身一つでここに“移住”しちゃったの。ここにはレストランもバーもない、ショッピングモールもないし電波だって入らない。不便だけれど、素朴で、美しくて、美味しいものがあって、一日がすごく長い。やることだって見るものだってたくさんあって、自然の中で生きているって感じることができる」
自分はどうだろうか。東京での暮らしを捨て、仕事も人間関係も捨て、この島で日常を暮らす。そんなことは出来るだろうか。
「あなたも、その気になっちゃった?」
カニエはそう言って笑う。
考えておきます、とニジノは言葉を濁した。
―――
あたらしい ひと ?
昼間に出会った白ワンピースの少女は、ニジノに向けてそう言った。
その時は意味が図りかねたが、カニエのようにここに引っ越してきた人間のだと思われたのかもしれない。
あの少女はなんだったのだろう。無垢な瞳の奥は吸い込まれそうなほどに深く、いつまでもニジノの印象に残っている。そのくせ、顔を思い出そうとするとうまく出てこない。
彼女はこちらを品定めるように見てから、まるで興味をなくした猫のようにふいと踵を返し、どこかに行ってしまった。
また彼女とは、どこかで会いそうな気がする。
タイル張りの家庭的な浴室に入り(いつも使っているシャンプーがないのが気にはなったが)やや熱めの湯に浸かると、一気に疲れが来た。日付も変わらない時刻に布団に潜り込み、ニジノはそのまま眠りについた。普段なら十二時を過ぎてようやく“嫌々ながら”床につくというのに、今日は健康的で、落ち着いた気分だ。
明日は何処にいって、何をしようか。
―――
ここは いいところ
なつ うみ あおいうみ そら
やさしい なつ ずっと
やさしくて うみ
■■■■ おいしくて しずかで
おいでよ もっと こっちに
こっちで ■■ いっしょ いっしょ なつ いっしょに
ずっと ■■ まだ ずっと
―――
朝七時。港。堤防の先。
タオルを首にかけた若い男が一人、堤防の縁に腰掛け、海に釣り糸を垂らしていた。身に着けたシャツの背には、エビの絵と共に『(I am a Tuna)』『ウニ』の文字が書いてある。彼はスポーツ刈りの頭をわしゃわしゃと掻き、海面へ伸びた糸を見つめていた。彫りの深い顔立ちはいかにも真面目な表情で、その額には汗が滲んでいる。
糸を垂らしてどれくらい経っただろうか、その後ろ、チャカチャカと独特な足音を立てながら、もう一人の男が堤防を歩いてきた。
足音の正体は、安いゴム底のビーチサンダル。
五分丈のカーゴパンツと白いタンクトップ。そこから伸びた腕は不自然なまでによく焼けていて、トライバル模様のタトゥーが入っている。その髪は金髪。まるでこの場に似合わない、軽薄そうな男。まるで対照的な雰囲気をもつ二人の年は――これもまた、おそらく同じくらいだろうか。
「よう、ガトウ」
金髪の男はシャツの背に書かれたエビ柄に向かって声をかける。
「……」
「釣れてんの?」
ガトウと呼ばれた男は振り向きもせず、横にあったクーラーボックスの縁を叩いてみせた。古く、すっかり色あせたクーラーボックスだ。金髪の男は中を覗き込む。
色鮮やかな熱帯魚が大小、何匹か。だがよく見ると――目がなかったり、ヒレが左右非対称についていたり、背に口のようなものがあったりと――まともな魚は一匹もいない。
「釣果はまずまずって感じじゃん」
そんな異形に臆すこともなく、金髪の男は笑う。
「さっきまではな。だが、そろそろアタリが少なくなった。もう少し来るのが遅かったら、そろそろ帰ろうかと思っていたところだ」
「つれねーこと言うなよ。ここまで歩いてくるのもけっこうキツいんだぜ。今日も朝からあちーし」
ガトウは傍らにあった水筒を開け、キャップに注いで一口に飲み干す。
「お前も飲むか」
「美味そうに飲みやがって。オレも飲みてえ……と言いたいとこだが、その手はくわねーからな」
「残念だ」
「まあ、何だ……その調子じゃあ、まだ大丈夫そうに見えっけど」
カーゴパンツのポケットから煙草を取り出し、金髪の男はジッポーで火を点ける。
「そうでもない。“ここは過ごしやすくて、穏やかで、ずっと住んでいたくなる”。日に日に、その想いが強まっている」
「あっそ。で、他の二人は?」
「隊長は相変わらずだ。ずいぶん楽しそうに過ごしているな」
「クモちゃんは?」
「クモカワはあれから姿を見ていない」
金髪の男はもう片方のポケットからメモ帳を取り出し、書き込んでいく。
「お前達は、また何かやっているのか?」
「言えねーな、そりゃ」
「そうか。まあ、どちらにせよ、俺にはもう関係がない。それにどのみち“いつまで持つか”も分からない。なるべく干渉を避けるようにはしているが」
「アンタも仕事熱心なこって」
金髪の男は煙草をビーチサンダルの底で踏み消し、海に捨てる。そして、筋肉質の手首に巻いた(軽薄な格好に似合わない)無骨な腕時計を確認する。連中が“活性化”する時間。そろそろ引き上げ時か。踵を返し、その場を後にする。
「――ここはいいぞ。毎日が穏やかだ」
去って行く男をやはり振り返ろうともせず、ガトウは海を見つめたまま呟いた。
「電波も入らなきゃ、騒ぐところも酒を飲むところもねえ、こんな何もねえ島が?」
背中ごしに、男二人は言葉を交わす。
「そのうち“何もない”ことが心地よくなってくる」
「あんだけバタバタと忙しそうに働いてたアンタにしちゃ、らしくねえ台詞だ」
「俺のような人間、だからこそ――なんだろうな。反動といってもいいかもしれない。お前も、ここにいるうちにそう思えるようになってくるだろう」
「冗談じゃねーな」
ガトウは男に気付かれぬよう、口の端をつり上げ――自嘲するかのように静かに笑う。よく見れば、その瞳の奥の光彩は歪み、黒と黄の歪なマーブル模様を作り出している。まるで■■■のように。
「まあ、いい。また来い。――俺が、俺でいるうちにな」
「アイヨ」
「もし気が変わって“こちらに来る”というなら、それも歓迎しよう」
金髪の男はその誘いに返事もせず、再びビーチサンダルをチャカチャカと鳴らして去って行く。
間もなくして――海面に垂らしていた釣り糸が、もう一度、ぴくんと動いた。
―――
島を一周する遊歩道、と言っても、整備されているのはせいぜい半分。それ以外はかろうじてコンクリート敷になっているだけで、ひび割れや欠けが目立っている。
そんな道を、金髪の男は人目を避けるように歩いていた。木々の隙間からは海が見え、木漏れ日との美しいコントラストを描いている。
蝉の大合唱が、耳に障るほど喧しい。
やっぱそうか、と金髪の男は心中にあった違和感を確信に変える。これほどの森と手つかずの自然の中、こうして無防備に肌を晒して歩いているにも関わらず――。
「?」
そこで思考と足を止め、男は周囲を警戒した。蝉の声に混じって、何かの囁き声が聞こえた。ち、と舌打ちをして、再び足早に歩を進める。
■■よ ――だね
うん
――はははは あははは ■■かな
朗らかにはしゃぐような、幼い声がふたつ。聞こえるのは海とは反対側。木々の合間に目を移す。開けた場所が見える。スイカ畑。
そしてその向こうにはいちめんの――。
(やべえな)
確認しなければならない。だが今“誘いにのる”のはまずい。タイミングも時間帯も悪い。やるなら準備を整えてからだ。まずは報告が先。
男はカーゴパンツのポケットからウォークマン(1982年製WM-2)を取り出し、イヤホンを耳にはめる。声を遮る。PLAYボタンを押し、ボリュームのツマミを最大にする。
(走るか)
そうして彼はビーチサンダルを履いた脚で、遊歩道を全速力で駆けていった。
―――
昼前。島の裏側。人気のない浜。
白い砂浜は漂流ゴミの一つもなく、まるで加工済みの写真のように“映える”景色。
そこから少し奥、林の木陰に、隠れるように立てられた迷彩柄のテントが二つ。
「薬は飲んだ?」
「バッチシ」
「……“作戦”が決行されたというなら、島にはこれからもっと何か大きな動きがあるはず。しばらく無作為に偵察するのは止めたほうがいいかもね」
「オレも賛成ッスね。あちーし、反対側行くまではけっこう歩くし。じゃ、しばらくはこのヘンで待機ってコトで?」
「そうしよう。その……“スイカ畑”と“声”も、気にはなるけれど」
「見に行くとしたら夕方か夜じゃないスかね」
「それから、あの人たちの動向も」
「ありゃ、まあ、時間の問題じゃねーかな、と」
テントと、いくらかの荷物が積まれた簡易的なキャンプ。テントの傍の折り畳み椅子に腰掛けた二人。一人は先ほどの金髪の男。そしてもう一人は――。
「ところで先輩」
「何だ、ホトハラ」
ホトハラと呼ばれた金髪の男は煙草に火を点け、薄い眉を寄せて怪訝な顔をする。
「暑い中で戻ってきて……改めて思うんスけど……こんな状況の中でその格好を見るの、見てるこっちがあちーんスけど?」
「何度言っても、脱ぐ気なんか無いからね」
フードとガスマスクを被った“それ”は、座ったまま、もぞもぞと身体を動かしながら言う。その声は幼く、高めの声色を有している。全身を覆う迷彩服、多目的ベスト、コンバットブーツ。そして全体のシルエットは不自然に膨らんでいる。この場には似つかわしくない、物々しく異様な姿。
「それに」
ガスマスクごしのくぐもった声で続ける――その名を、エビナという。
「これは空調服だから“ボクは”暑くないんだ」
空調服特有の低いモーター音が、波の音に混じって唸っていた。
―――
同時刻。民宿『舞丁荘』前。
「今日も暑いね」
「東京に比べれば全然過ごしやすいですよ」
「そうかもね」
ふわふわと軽いブラウスと七分丈のパンツ、それから小さなポーチをひとつ下げた格好のニジノは、眩しげに目を細めながら空を見上げる。
「おばさんは?」
「近所の人達をお茶をしてくるって」
「いいですね」
民宿の玄関の前にはカニエが立っており、その足元には男児がロングスカートの裾を掴みながら半身を隠している。
「私も、今日はちょっと、遊歩道を散歩したいと思いまして」
ニジノは持参した虫除けを両腕に擦り付ける。
「気をつけてね。あ、そうだ」
「?」
「裏側の浜までは行ったりする?」
「あはは。今日はそこまではさすがに」
「なら良かった」
カニエは笑い、手に持っていた麦わら帽子をニジノの頭にかぶせる。
「これ。日よけも大事でしょ? 貸してあげる」
「ありがとうございます」
「あと――」
続けて、彼女は足元の男児の背中をぽんぽんと優しく叩く。男児はおずおずと、手に持っていた水筒をニジノに差し伸ばす。
「おねえちゃん。はい。これ」
ニジノは目線を合わせるようにしゃがみ込み、水筒を受け取る。
「ありがとう」
「うん」
「……中身は?」
手渡してすぐ、再び後ろに引っ込んでしまった男児に代わり――カニエは表情を変えず、微笑み続けながらこう言った。
「冷たい麦茶」
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