S.U.N.F.L.O.W.E.R. -Call of the Sea-

黒周ダイスケ

その夏に憧れて

 ――夏の景色に憧れはあるか?


 もはやこの日本ではなかなか見ることが出来ない、かつての原風景。

 むせるような草木の匂い。青く茂った山。高く青い空。


 ……そして、海。


 波の音が砂浜に響き、足元を濡らしてはまた引いていく。

 照りつける太陽。澄んだ夏の空気。水平線の向こうには、沖をゆく船。

 コンクリートの堤防では夏休みの子供達が無邪気にはしゃぎ、パラソルを差した親達はそれを穏やかに見つめる。


 そこにはインターネットもスマートフォンもない。国道沿いのマンガ喫茶やショッピングモールもない。起床の時間に追われることも、メールやネット会議の呼び出しに緊張することも、理不尽な上司のハラスメントに神経をすり減らすこともない。人は朝早く起き、日々の生活に勤しみ、お互いに協力しあい、気温の上がってきた昼には木陰や家に入り、麦茶を飲み、うちわを片手に涼む。夕方になれば早めの夕食を取り、夜になり、虫の声と波の音を聞きながら眠る。そうして、一日がゆっくりと過ぎていく。


 そんな暮らしに憧れがあるなら、その島に行け。

 きっと彼らは君を快く歓迎してくれるはずだ。都会の喧噪から離れ――毎日の満員電車に揺られる朝も、残業続きの激務も忘れ、何もかも捨て去り――君は一人の人間として、彼らと会うといい。彼らと共に暮らしてみるといい。


 ただし、あの社には近づくな。


 島の住人が許すまで、あの社には絶対に――ぜったいにちかづくな。

 これは忠告ではない。警告だ。


 彼女が


 彼女  が――そして ■■ になるまでは


―――


 では、行ってくるといい。


 夏が。

 その夏が。

 彼らと■■■が、君を出迎えてくれるだろう。


―――


『昨夜……沖で発生した台風は――次第に……を強め、また――……現在の進路は――と見られますが……引き続き……今後も――』

『――続いては、各地の天気です』


 波の音、そして小型船のエンジン音が、ノイズ混じりのラジオをかき消していく。


「おおい、お嬢ちゃん! そろそろ着くぞ!」

 タオルを鉢巻きのように巻いた禿げ頭の老人が、吸い終わった煙草を海へと投げ捨て、声をかける。片手で舵を切りつつ、接岸に向けて船の出力を調整していく。

「はあーい!」

 狭い船の客室から、一人の女性がゆっくりと姿を現す。

「わあ……」

 昼前の、真上に登った太陽の日差しに目を細めながら、彼女は目の前に広がった光景に感嘆の声を漏らす。


 青い空と海を背景に、その島はあった。

 小さな山を中心とした島で、そこから下にはいくつかの民家が張り付くように点在している。船の行き先である漁港の傍には事務所や民宿、商店が並び、一台の古い軽トラックが建物の隙間を縫うようにのんびり走っていた。

 彼女――ニジノにとって、それはずっと憧れていた夢の景色だった。


 やがて船が接岸する。コンクリートの堤防に括り付けられた緩衝用の古タイヤに船体がぶつかり、がくん、と揺れた。

「お、っとっと」

 よろけるニジノを見て、船の持ち主である老人が苦笑した。

「おお、大丈夫かい、お嬢ちゃん」

「あはは……大丈夫です」

 老人は年に合わない機敏さで飛び降り、慣れた手つきで係留ロープを掛ける。

 その腕は細身ながら筋肉質で、真っ黒に日焼けした肌は白いタンクトップと見事なツートンカラーになっている。洒落たグレーのオフショルダーを身に着け、白い肌をのぞかせるニジノとは対照的だ。

「しかしアンタも物好きだね。こんな何もない島に行きたいなんて。もっと観光地とか海外とか、そのトシなら、キレイで派手なところに行くのが普通じゃねえのかい」

「こういう島だからいいんです。私、ずっと都会育ちだったから。せっかく取れた長期休暇を、のんびり過ごしてみたくって」

「確かに、のんびり過ごすなら最適だな。何しろ、本当に何もねえんだからな!」

 わはは、と老人は豪快に笑った。


 ニジノは不安定な足場を一歩一歩と渡り、最後にぴょん、と軽くジャンプして堤防に着地する。七分丈のパンツとスニーカーの間に露出した脛が、直射日光で熱せられたコンクリートの熱気を感じ取った。


 海風が頬を撫でる。潮の匂いが鼻をくすぐる。

 ここの気温は、思ったよりも涼しい。


―――


 キャスター付きの旅行ケースを引きながら漁港を歩く。


「暑かったでしょう?」

 歩いて十数分。宿泊先の民宿『舞丁荘(まいていそう)』に入るなり、ややふくよかな体型の中年女性がニジノを出迎えた。暑いことは暑いが……そういえば、よく晴れた日なのに、不思議と汗はあまりかいていない。

「お世話になります」

「まあまあ、ご丁寧に。こちらこそ、ようこそ■■島へ。まだお部屋の準備が出来ていないから、とりあえず座ってゆっくりしていってね。ああ、何か飲む?」

 島に一件だけある民宿のロビー。小さなソファとテーブル。

「あ、まだ持ってきたお水があるので」

「じゃあ、スイカ切ってくるわね」

「わあ。ありがとうございます」

 エプロンをつけた中年女性はいそいそと奥へと消えていく。

 ニジノはソファに腰を下ろし、まわりを見渡す。日に焼けた観光ポスター。手入れの行き届いた植木鉢。豚の形をした蚊取り線香入れ。年代ものの黒電話。

(こういうのって、いいな)

 ポケットからスマートフォンを取り出す。船の老人から聞いていた通り、まったく電波が入らない。ここにいる限り、会社からの連絡もメールも来ないだろう。

 でも、それでいい。

 この夏は、日常から離れ――ここで過ごすことに決めた。そう割り切ってしまえば、後はどこか晴れやかな気分だ。ニジノはスマートフォンを旅行ケースの奥へと突っ込む。


 すとん、すとん、と奥の厨房から小気味よい音が聞こえ――やがてニジノの前にスイカが供される。

 鮮やかな赤。

 血のような赤。

 赤い赤いスイカ。


「お客さん、私だけなんですか?」

「そうよ。お客さんは貴女だけ。困ったことがあったら何でも言ってね。泊まってる間は、ここが貴女の家みたいなものだから」

 女性はそう微笑み、買い出しと準備に行ってくるわね、といって姿を消した。


 一人になったニジノは周囲をもう一度軽く見回してから、ソファに深く尻を沈める。ずっと東京のマンションで育った彼女にとっては、すべてが新鮮な経験だ。両親も共働きで、こんな風にスイカを食卓に並べてくれたことだって一度もない。スーパーで売っているサイコロ型のカットフルーツくらいがせいぜいだ。


「……じゃあ、いただきます」


 テーブルの上のスイカに手を伸ばし、ニジノは三角形の頂点を小さく切り取るように食べる。


 一瞬、口の中に、異様な風味が広がった。

 それは鉄のような、土のような、あるいは硫黄にも似た――。


「……?」


 おかしい、と思いつつも、もう一口食べる。

 するとその異様な風味は一気に消え、甘く瑞々しい果汁が口いっぱいに広がった。ニジノが知るスイカの味だ。いや、スーパーで売っているものなんかとは、密度も果汁も比べものにならない。美味しい。美味しい、美味しい美味しい美味しい美美美美美美美味しいスイカだ。


―――


 数刻後。ニジノは民宿の奥から現れた男児に声を掛けられた。


「おねえちゃん。とう京からきたの?」

 だぶだぶのシャツに短パンを履いた、いかにも地元の子供といった格好。

 あの女性の息子だろうか。

「そうだよ」

「とう京ってどんなところ。ぼく。ここから出たことがないから」

「楽しいところじゃないよ」

 つい数日前までの激務を思い出し、ニジノは自嘲する。

「そうなんだ。じゃあ。ぼくは。まだここにいても。いいのかな」

「?」

 その言葉に、妙な引っかかりを覚える。


「……おねえちゃんは。だいじょうぶな人?」

 健康的に焼けた丸い顔が前に出る。くりくりとした黒目がニジノを覗き込む。

「だいじょうぶ、って?」

「ううん。なんでもない」

「大丈夫……大丈夫な人、だとは思う。自分で言うのも変だけど」


「おばさんがいってたの。きいたから。島のうらに。へんな人。二人いるから。いっちゃいけませんって。あれは。だいじょうぶじゃない人たちだって」


―――


 どこ


 スイカを食べ、ボトルの水を飲み終えても、民宿の女性はまだ帰ってこない。

 しばらく散歩でもしてみようかと、ニジノはソファから腰を上げる。荷物は置いていって構わないのだろうか。東京なら目を離すこともできないけれど――きっとここならいいだろう。


 立て付けの悪い引き戸を開けると、ガラスが軋む音と共に風鈴が控えめに鳴った。民宿の玄関に掛けられた『舞丁荘』の看板を横目に外へと出る。海が近いとはいえ、今日は風も強くないようだ。おそらく島のメインストリートであろうその通りに、しかし人通りはまったく無い。犬や猫の姿も見えず、蝉時雨と波の音だけが響き渡っている。先ほど海から軽トラックが走るのが見えたので、今はたまたま見えないだけだろう。


 あ   あー


 潮風を浴びてところどころ剥がれかけた案内板を見る。

 そこには島の全容がイラストになって書かれていた。


 こっち


 ■■島。本土からは約■キロほど離れた、面積約1,5平方キロメートルの離島。

 中心にある標高150メートルほどの小さな山は“日向山”。その地形ゆえに平坦地は多くなく、民家や公共施設(学校もあるらしい)の大半は漁港のそばか、山の向こうに集中していて、あとは田畑やいくつかの建物――灯台などもあるようだ。

 島を一周する遊歩道や道はそれなりに整備されているらしく、時間はかかるが、歩き回るのには良さそうだ。どうせ時間だけはたっぷりある。ニジノは案内板を前に、早くも期待に胸を膨らませていた。ここで自分は“夏”を満喫するのだと。


 どこ   こっち


 案内板には■■島の説明書きや文化、見所などが書かれていたが、そのどれもが不自然なまでに掠れ、また不可解な文字によってまったく解読できない。だが、その時のニジノはそれに気付くこともなかった。

 よく見ると島には神社もある。どうやらこの神社では■■ ■■  ■■■に ■■■■があり   ―――――― ■■   という。


 こっ ちに おい で   よ


 ここからはそう遠くない場所。歩いても時間はかからなさそうだ。行ってみようか、と思った瞬間――ニジノの口の中に、あの猛烈な異臭が戻ってきた。


「……?」


 こっち


 異臭はまたしても一瞬で消え、同時に、喉の渇きが襲ってくる。

(さっき、やっぱり麦茶もいただいておけばよかったかな)

 やはり神社は後にしよう。まず商店や自販機のある場所を確認しておかなければならない。ニジノは飲み物の調達がてら、神社のある方から背を向け、商店街のある漁港へ向かって歩き出した。


 こっ ちこ な いの   ?


 家々の隙間に、一本の■■■が咲いている。

 それはニジノに顔を向け、去りゆくその背中を見つめていた。


―――


 同時刻。洋上。


『続いてもう一度お伝えします。昨夜――沖で発生した台風は約――で速度を保ちながら北上しています。現在まで――で―――上陸のおそれは低いとみられますが、今後の進路に注意して下さい』


 今のところ、海はベタ凪。


 老人は眉根を寄せ、胸ポケットから煙草を取り出して火を点けた。ラジオを切り、船舶無線の横に引っ掛けられた衛星携帯電話を手に取る。


「こちらエージェント・タコ。任務は完了した。“ゆるふわOLは島の暮らしに入った”。繰り返す、“ゆるふわOLは島の暮らしに入った”」

『こちらハチスカ。了解。ただちに帰投せよ。帰投後は指示に従い、すみやかにスクリーニング検査を受けること』

「了解。……なあハチよ」

『はい』

「これは任務だ。どうこう口を出すつもりはねえ。だがな、お前、本当にこれでイケると思ってるのか?」

『……言いましたよね、タコさん。すべてが完璧な作戦なんて無いって。上手く行くか無駄になるか、それとも悪い方向に転ぶかは“やってみないと分からない”って。僕達はずっとその繰り返しなんです』

「汚染が拡散することになるかもしれねえんだぞ」

『そのためのバックアップも送り込んであります』

「人の命をなんだと思ってやがる」

『今さらですよ。奴らを封じ込める……そのためなら、僕は死んだ後に地獄に落ちたっていい。どこまでも暑い“夏のような地獄”に』

「……わかった。その時は付き合うさ」

『お願いします』

「どうせ俺達は、もう後戻りなんて出来ねえんだからな」


 老人は吸いかけの煙草をまた海に投げ捨て、海の向こうを睨む。背後には島があるが“振り返ってはいけない”のがルールだ。先ほどまでニジノを相手にしていた快活な雰囲気は既に消え、表情のない顔でまっすぐ前だけを見つめている。本土の港には既に連中が待ち構えているだろう……このクソ暑い中、防護スーツを身に着けて。


 本当にこれでよかったのか。

 自問したところで答えは出ない。もし答えが出ても、聞く者はいない。


 皺の刻まれた口元から出た悪態が、穏やかな海風に吸い込まれていった。


―――


 がこん、と音がして、細長い缶のオレンジジュースが出てくる。今時なかなか見ないようなレトロな自販機から出てきた、これまたレトロなパッケージのジュースだ。プルタブまで切り離すタイプ。復刻版みたいなものだろうか。タブを空けて一口飲む。渇いた喉に染みこんでいく。

 飲みかけのジュースを片手に、ニジノは海の近くまで歩く。そして空を見上げる。天気は快晴。水平線の向こうまで、雲ひとつない。きっとこれなら、と、ニジノは自身の想いに確信を持つ。天気予報は何度も確認した。自分にかけられた(と思っている)忌まわしい呪いも、さすがにここまでは来ないだろう。


 ――今度こそ。今度こそ、私はこの夏の休暇を満喫してみせる。

 青空に向けて決意と確信を固め、そのまま視線を落とす。


 少し向こうに人影が見えた。


 それはコンクリートの防波堤の上で、細い足場をつたうように、バランスを取りながらゆっくりと歩いている。やがて人影はニジノに気付き、軽やかに足場の上から飛び降りた。長い黒髪と、身に着けていた白いワンピースの裾がふわりと翻る。


 青い空と海の下。

 人影は――彼女は――白ワンピースの少女はそこにいた。


 そしてニジノの姿を見るや、彼女は向日葵のような笑顔を浮かべるのだった。

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