最終話 氷室あかりはキスができない

インターホンの呼び出しを受けて、玄関まで移動する。来客が誰なのか、ほとんどわかっているようなものだ。だから、俺はなにも考えずにノブに手を置いて、ドアをばっと開けた。

「あ、こ、こんにちは」

目を丸くさせたあかりさんが、跳ねるような口調でいった。こちらも挨拶を返して、彼女を中に通す。

「お邪魔します」

あかりさんは静かな動作で靴を整列させると、小動物のような足並みでリビングに進んだ。

「今日も、お家に上がっちゃって、ごめんね。受験の勉強で忙しいはずなのに、きみの時間を、横取りするようなことばっかりして、ちょっと、反省してる……。図々しくない、わたし?」

あかりさんが遊びに来てくれるのは素直に嬉しい。それに、勉強の息抜きにもなるから、俺はこの時間が好きだ。

「気に病む必要はない? ……そっか。きみが許してくれるなら、わたしも、一安心。だけど、これからは、気を付けるね。あ、でも、今日は、今日だけは、どうしてもきみに会いたくて! だから、いまは、わがままなわたしを受け入れてほしいな」

あかりさんの顔がどんどん下を向いていく。やがてその視線が手元までたどりつくと、彼女は持っていた紙袋をがさごそとさせた。

「これを、き、きみにあげたくて」

あかりさんが、袋から箱を取り出した。両手よりもサイズが大きい。

「今日、きみのお誕生日だよね? カレンダーと手帳と携帯にメモしてるから、たぶん、勘違いじゃないはず。それで、ね、世界で一番大切な一日だし、きみに会ってお祝いしてあげたかったから、け、ケーキ、用意したの……!」

テーブルに置かれた箱が、あかりさんの手によって開かれる。水色の上品な箱から現れたのは、なんと、真ん丸なイチゴのケーキだった。

「お、お、お誕生日おめでとう。きみに会えて……きみが生まれてきれくれて、自分のことのように幸せだよ」

サプライズすぎるサプライズに驚きを隠せない。あかりさんに祝ってもらえるなんて予想だにしていなかったし、そもそも、今日が誕生日だということも忘れ去っていた。

「え? 今日がお誕生日だってこと、頭から飛んじゃってたの? 勉強ばっかりの毎日だったし、一人暮らしで祝ってくれる家族もいないから? ……わ、わたしはこの一週間、ずっとドキドキしてたよ。はじめて一緒に迎えるお誕生日だし、どんなケーキなら喜んでくれるかなとか、わたしに祝われて、嬉しいかな、とか」

あかりさんに祝ってもらえて、嬉しくないはずがない。進級してから平坦な日々の連続だったけど、久々に有頂天な気分になれた。望外の幸せをくれたあかりさんに、感謝を伝える。

「う、うん、どういたしまして……! それに、こちらこそありがとう。家族でもないわたしに、きみのこと、お祝いさせてくれて。特別な時間に、きみと一緒にいられて、すごく、すごく、ハッピーだよ」

感謝すべきは俺のほうなのに、なぜか俺が感謝されてしまった。そんなところが、とても彼女らしい。きっと、今日のことを誰よりも大切にしてくれているのだろう。あかりさんの優しさに触れて、胸が熱くなった。

「ケーキ、切り分けてあげる。さすがに、この量を一気に平らげるのは、難しいだろうから。 ……え、わたしも、もらっちゃっていいの? 一人で食べ切れる自信がないから? そういうことなら、お言葉に甘えさせてもらおうかな」

ということで、俺とあかりさんでケーキをシェアすることになった。フォークを進めながら、好きなケーキの種類とか、実家にいたときはどんな風に祝われていたかとか、どんなプレゼントをもらっていたかとか、他愛もない雑談に花を咲かせた。イチゴのショートケーキは甘くてふわふわで、懐かしい気持ちを思い出させてくれた。

「そういえば、今年はお誕生日プレゼント、もらったの?」

ケーキを食べ終えて休憩していると、あかりさんが質問してきた。そういえば、今年はまだもらっていない。まあ、自分でもおぼえていなかったくらいだしな。

「そう、なんだ」

なぜだろう、あかりさんがもじもじしている。変なことを口走っただろうか。

「あの、さ……ほ、欲しいものとか、ある?」

こちらを見上げながら、眉を八の字にして、あかりさんがいった。

「もし、なにか、気になってるものがあれば、わたしが、ぷ、プレゼントするよ」

どうしたのだろうと少し心配になっていたら、あかりさんがそんなことを言い出した。すかさず俺のほうから断りを入れる。いくら恋人だからとはいえ、ケーキをご馳走してもらった上に、プレゼントまで頂戴するのは申し訳ない。

「ううん、お誕生日なんだから、申し訳ないとか考えないで。ど、どちらかというとね、わたしが、きみにプレゼントをあげたいから……。あ、でも、誰かにプレゼントとかしたことないから、どういうのが喜ばれるか、わからなくて。だから、なにが欲しいか、教えてほしいな。わたしに、お祝い、させて?」

連綿と言葉を紡ぎながら、あかりさんは、まっすぐな熱視線をこちらに向けてきた。彼女の期待の大きさが、これでもかというほどに感じ取れる。特に欲しいものはないが、あかりさんのために、なにかひねさないとな。

考えに考えた俺は、「あかりさんのキスが欲しい」といってみた。

「えええええええ!!!!!?????」

案の定、あかりさんは仰天した。しかし、声のボリュームは予想外だった。

「き、き、ききき、き、キスっていった!? わたしの聞き間違い!?」

俺は首を横に振った。

「や、やっぱり、き、キスって、いったんだ。えっと、き、キスって、あのキス、だよね? お魚のほうじゃないよね?}

俺は首を縦に振った。

「そんな……。きみは、わたしの、キス、が、欲しいの? わたしに、き、ききき、キス、されたいの?」

思い付いたプレゼントがそれくらいしかなかったが、俺も男子だ、恋人とキスがしたいという思考に行き着くのは変じゃないだろう。

「そう、だよね。年頃の男の子だもん、そういうの、興味あるよね? ……でも、キス、だよ? 唇と唇をくっつけるんだよ? ちょ、ちょっと、破廉恥じゃない?」

なるほど、あかりさんはキスに抵抗があるみたいだ。だが、キスは至って健康的な行為だし、俺はキスがしてみたい。

「えっと、その、わたしが相手でいいの? わたしの、キスで、いいの? 唇かさかさだし、ブレスケアしてないし……あ、歯磨きしてこようか!?」

すぐにでも走り出しそうなあかりさんを声で引き止める。俺はそんなこと気にならないし、俺がキスしたいのはあかりさんだ。

「そっか……。きみは、キスとか、したことあるの?」

両手で自分の顔を包みながら、ゆっくりと、あかりさんがいった。俺にキスの経験はない。

「そうなんだ。……なんでだろう、ちょっと、ホッとした。きみにとっては不愉快かもしれないのに、そんなことで安心するなんて、わたしは最低だね」

斜め下をみるあかりさんに、こちらのほうからも、意を決して訊いてみる。「あかりさんは?」と。

「わたしも、したことないよ、キス。当たり前だもん、きみが、は、初めて好きになった男の子だから」

低く、小さく、起伏のない声で、あかりさんは答えた。その返答に、俺もホッとしてしまう。

「……き、キス、してみたい?」

相変わらずの声色で、俺の顔をみたりみなかったりしながら、あかりさんがいった。俺は、「してみたい」と一言だけ返した。

「じゃあ、目を、閉じてみて」

あかりさんの言う通り、すっと目を閉じる。沈黙と暗闇の中で、心臓の鼓動だけが存在感を主張している。

「い、いくよ」

あかりさんの息が接近してきた。俺、ここで初めてキスをするのか? あかりさんと、唇を重ねるのか? 心臓が膨れ上がっていくたびに、それと連動して、脳味噌がパンクしそうになっていく。

なんて長いだろう。あかりさんはどんな表情をしているのか。いろんな思考がごちゃごちゃに混ざり合っているうちに、あかりさんの体温を近くに感じた。ヤバい、ついにするんだ。人生初のキスを、いま、ここで──


「ごめん、無理ぃぃぃぃぃ!!!!!!!」


再び、あかりさんの爆音が部屋中にこだました。俺はといえば、驚きよりも、「やっぱりか」という気持ちのほうを強く感じた。

「あ、あのね、さすがにキスはハードルがすごくて。どんなに頑張っても、は、恥ずかしさがまさっちゃって。小心者のわたしには、まだまだ、難しくて……」

あかりさんは俺から離れると、両の人差し指をくっつけながら、縮こまった。

「きみのことが嫌いとか、生理的に無理とか、きみとキスがしてみたくないとか、そういうことじゃないの。わたしにも、その、憧れはあるから……。だけど、あと一歩のところで勇気がでなくて。なんで、わたしって、こんなに意気地なしなんだろう。もっと、普通の女の子になれたら、よかったのに──」

あかりさんの肩をがっと抱く。それ以上は、聞きたくない。

「う、うん、わかった。きみがいうなら、これ以上は、自分を責めないよ。……自分の不甲斐なさが嫌になるけど、今日は、きみのお誕生日だもんね」

あかりさんは両目をこすると、諦めたように笑った。儚い微笑みが、無性に、愛おしくて仕方がない。

「で、でも、どうしよう。きみに、なにをあげればいいのかな。結局、キスはプレゼントできなかったし……」

「なにもいらないよ。気持ちだけで十分だから」と伝える。キスだって、無理を承知の上でのお願いだった。

「じゃあ、さ、キスはできないけど……大事なもの、あげる」

ゆっくりと、途切れ途切れに、あかりさんがそういった。「大事なもの?」と聞き返す。

「うん。わたし、全体的に暗いし、しゃべるのも下手だし、長所なんてひとつもないけど……きみのこと、ほ、本当に、好き、なの。きみは、年下なのにわたしをリードしてくれるし、ドジなわたしのペースにあわせてくれるし、こんなわたしを、他の人とおなじようにみてくれるから。だから──」

瞬間、あかりさんの両手が、俺の両手の上にかぶさった。咄嗟のことに、一気に体温が上昇する。


「きみのこと、だ、大好きだよ……!」


頬を朱に染めて、必死の表情で、あかりさんがいう。短い言葉だし、不格好な告白だけど、それは、俺の心を確かに満たした。目に見えないけど、温度のある、なにかで。

「だ、大好きなんて、初めていった。でも、きみに絶対に伝えたかったから、言葉にしてみたよ。どう、だったかな? わたしのプレゼント……?」

あかりさんの手を、今度は俺が包み込む。あかりさんは長所がないっていっていたけど、こんなにも素晴らしい魅力がある。あかりさんはキスができないけど、こんなにも幸せで、ドキドキした気持ちを、俺にプレゼントしてくれる。

たしかに、彼女は他の女の子とは少し違うのかもしれない。だけど、それがどうしたというのか。あかりさんはちゃんと俺を愛してくれている。俺も、あかりさんを心の底から愛している。なら、不器用な俺たちは、不器用な俺たちなりに、ゆっくりと、愛を形にしていこう。

「うん。わたしも、いま、とっても幸せだよ。来年も、きみのお誕生日をお祝いしたいな。その次の年も、きみと、一緒にいられたらいいな。……ううん、ずっと、一緒にいようね。わたしは、きみのことを、想い続けるよ」

目の前に、太陽のような笑顔が咲く。「あかり」という名前にぴったりの表情だ。

「大好き……!」

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氷室あかりはキスができない あーる @initialR0514

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