第4話 氷室あかりは添い寝ができない
ペンの筆記音が、家の中を駆け回る。今年に入ってから、我が家の定番となったBGMだ。しかし、今日はこのBGMが、普段にも増してボリューミーである。
「ご、ごめんね、きみのお家で勉強させてもらっちゃって……?」
テーブルの向かい側から、あかりさんがそう切り出した。こちらの顔を覗き込むような姿勢に、引け目のようなものを感じ取れる。
「受験生の、大事な時期なのに、わたしが一緒だと、しゅ、集中できないんじゃない? 効率、落ちたりしない? 邪魔に、なってない、わたし?」
あまりにも心配性なあかりさんに、つい笑ってしまう。たまに誰かと勉強することで、退屈な時間も適度に刺激的になる。だから、そこまで重く考える必要はないのだ。
「そう、なんだ。一安心したよ。もし、一人で集中したくなったら、遠慮なくいってね。すぐにいなくなるから」
あかりさんが再びペンを走らせる。そういえば、彼女が勉強しているところをみるのは初めてだ。大学生って、どんな授業を受けているのだろう。
「え? 大学の勉強は難しいかって? うーん……わたしの場合は、大好きな歴史について学べるし、り、理系の授業がないから、そこまで苦に感じないかな」
照れ笑いと共に、あかりさんが答えてくれる。なるほど、彼女は文系なのか。英語なんかは俺よりもよっぽど得意かもしれない。
「え、べ、勉強を教えてほしいの!? わたしが、きみに、勉強を!? むむむ無理だよ、わたし全然だもん……! いまの大学だって、ギリギリ合格したようなものだし」
だけど、あかりさんも受験生だったんだ、高校の勉強もなんとなく記憶にあるだろう。
「わ、わかったよ。きみがそこまでお願いするなら、お手伝い、してみる……。上手に教えられる自信はないけど、きみの役に立ちたいもん」
ということで、あかりさんにこちらの勉強をみてもらうことになった。俺が彼女の隣に移動して、二人の間に教科書を広げる。あかりさんは、少し落ち着かない様子だったが、誠実にアドバイスを教示してくれた。
「んぅ……む、難しいね。去年やったはずなのに、ところどころ不安になるよ。こんな大変なことを毎日できるなんて、き、きみは偉いね」
あかりさんに褒められて、穏やかな気分になる。彼女の体温が近くにあるから、いつもより母性のようなものを感じるのかもしれない。
その後もあかりさんに指導してもらいながら、ページを進めた。しかし、彼女に甘えすぎて俺の集中力が切れたのか、次第にうとうとしてきてしまう。
「眠い、のかな?」
あかりさんが、優しくこちらに問い掛ける。俺は、ふにゃふにゃになった首で、こくこくとうなずいた。
「そっか。……もしかして、わたしの教え方が、ダメだったかな?」
うなだれた姿勢ながらも、首を横に振る。
「……わたしと一緒じゃ、退屈、かな?」
背筋を正して、全力で首を左右させる。恋人と一緒にいて退屈なわけがない。あかりさんは、たしかに刺激的なタイプの人間ではないかもしれないが、いつだって変わらぬ安心感を与えてくれる。
「そう、なんだ。退屈じゃないんだね。わたし、きみと一緒に過ごすのが好きだから、ホッとしたよ。……でも、毎日何時間も勉強してるから、疲れちゃったよね?」
たっぷりの息を漏らしながら、「うん」と答えた。
「なら、お昼寝しちゃっても大丈夫だよ。わたしは自分の勉強を進めるけど、きみのこと、見守っておくから」
あかりさんの提案に、俺は思考を巡らせた。せっかく彼女が遊びに来てくれているのに、家主が寝込むのは申し訳ないし、もったいない。かといって、このまま勉強していても、正直なにも頭に入ってこないだろう。
宙に浮かんでいるような状態の脳味噌を稼働させて、俺はひとつの妙案を導き出した。
「わたしも一緒にお昼寝するの? へ、平気だよ、わたしは眠くないから。お布団もひとつしかないし」
「いや、そうではなくて、一緒の布団で昼寝をしよう」と伝える。
「えええええ!? そそそ、それって、
同衾がどういう意味なのかわからなかったが、とりあえず「うん」と反応しておく。
「そっか、添い寝するってことか……。いやいや、そ、添い寝でも大問題なんだけど!?」
湯気でも噴出するのかという勢いで、あかりさんは叫び出した。まあ、彼女の性格を
「うーん……わ、わかった。それできみの疲れがなくなるんだもんね? なんの取り柄もないわたしが、きみを元気にさせてあげられるなら、が、頑張る」
本当に渋々といった口調だったが、あかりさんは了承してくれた。そうと決まれば善は急げだ。俺は畳んでいた布団を敷き直して、シーツを適当に払うと、布団の中に潜った。
「……ほ、本当に、入っていいの?」
布団から顔を出すと、あかりさんが不安そうな眼差しを向けてきた。
「嫌じゃない? わたし、みたいな、地味な女の子と密着するなんて? きみも男の子だもん、どうせなら、もっと、華のある女の子のほうが、よかったんじゃない?」
俺は女の子と添い寝をしたいのではなくて、あかりさんと添い寝がしたいのだ。そういうと、彼女はちょっと持ち直した表情をみせた。
「きみが、そこまで想ってくれるなら、わたしも応えなきゃだよね。……じゃあ、お布団の中、入るよ? し、し、し、失礼、します」
心を決めた様子のあかりさんは、カメが水中にダイブするかのようなスピード感で、布団の中に入ってきた。
「お邪魔します……。すごい、本当に同衾しちゃった」
あかりさんが極めて小さな声でなにかをつぶやいている。
「だ、大丈夫? 嫌じゃない? 暑苦しくない? 匂いとか、変じゃないかな? 臭くない? あ、鬱陶しい? 近寄りすぎ? 離れようか? っていうか布団からでようか?」
小声でひとりごちていた彼女は、しかしその数秒後に攻め立てるような声音で疑問形を乱用した。
「は、恥ずかしいな、やっぱり……。きみの体温を、お布団の中で、すぐ隣に感じるなんて」
「俺は嫌じゃないけど、あかりさんは嫌?」と尋ねてみる。
「う、ううん、嫌なんかじゃないの……! ただ、ドキドキする。顔とか腕とか、熱くて熱くて、心臓がものすごくバクバクする」
あかりさんが両手を心臓の位置に持っていった。かなり緊張しているのだろう。ちなみに、おなじ布団の中にいるというのに、俺たちの間にはだいぶ距離があった。
「……これ、添い寝、できてないよね? 本当は、手を繋いだり、くっついたり、ささやきあったり?するんだろうけど」
やっとパニックが治まったのも束の間、あかりさんは悲しそうなトーンでそういった。
「いつも、恋人らしいことできなくて、ごめんね。きみも、もっといちゃいちゃとか、したいはずなのに。わたしに、明るさとか、勇気とか、あればよかったな……。こんなんじゃ、わたしのこと、好きになれないよね? 嫌になったら、いってくれても平気だからね。きみと別れるのは寂しいけど、きみのためなら、わたし──」
別れない。たった一言、そういった。
「……え? わたしと別れるつもりはない? わたしと別れるくらいなら、し、死んだほうがマシなの?」
俺はあかりさんのことが好きだ。好きだから、別れるつもりがないのは当然だ。好きじゃなかったら、あかりさんの告白をオッケーしていない。
「し、死ぬのはダメだよ? きみがいなくなったら、わたしも、生きていける気がしないし……。でも、す、好きって、真正面からいってくれて、ありがとう。わたし、
誰かに好かれた経験なんて、ないから、きみに、想ってもらえて、すごく、幸せだな。あのね、わたしも、きものこと、す、す、好き、だよ」
あかりさんが、控えめながら、喜びに満ちた表情をする。臆病さの
「ねえ……きみも、いま、ドキドキしてるのかな?」
あかりさんが訊いてきた。「ドキドキしすぎて眠気が吹っ飛んだ」と、笑いながら答える。
「そっか、きみも、おなじ気持ちなんだ。でも、ドキドキで眠気がなくなっちゃったなんて、本末転倒だね。わたしも、正直、これ以上は耐えられなさそうだし……勉強、しよっか」
そして、俺たちは再び机に向かうことにした。
ほんの数分の添い寝だったけど、本当に夢を見ているかのような気持ちになれたことを、俺は寝ても忘れないだろう。
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