第2話 氷室あかりはマッサージができない

自転車を走らせること十数分、愛着を通り越して哀愁のあるマンションに到着する。駐輪場でサドルから降りると、自転車に鍵をして、階段に進んだ。

今日は予備校の授業があった。「今日は」というか、「今日も」だけど。家から距離のあるところに学校があるので、行き帰りが少々億劫だが、サイクリングが適度な運動になるから嫌いじゃない。

階段を上りながら、宿題のことを思い浮かべる。予備校で勉強した直後に家で勉強って、どんな修行だよ。だが、それが受験生の運命なのだろう。だから、高校三年生は修行僧なのかもしれない。

なんてことをうれいていると、すぐに二階に到着した。おもむろにポケットから鍵を取り出して、我が家に向かおうとしたところで、思わず足を止める。

「あ、お、おかえりなさい」

マンションの廊下、俺の部屋の前で、あかりさんが立っていた。予想外の事態に「あかりさん!?」と声が裏返る。

「えっと、びっくりさせちゃった、かな? 家の前に誰かが立ってたら、ちょっと怖いもんね。……でも、なにも悪いことはしてないから、安心して」

あかりさんが空き巣を働くわけがないが、なんの予告もなく自宅の目の前にいられると、さすがにハッとする。

ふうと息を吐いてから、「どうしたの、こんな場所で?」と尋ねると、あかりさんはにこっと笑った。

「きみに会いに来たんだけど、留守みたいだったから、待ってたんだ」

どうやら、今日もウチを訪ねてくれたらしい。それは喜ばしいことだが、ずっと待たせていたことが申し訳ない。

「え? 待ってる必要はなかった? わたしの家はすぐ目の前なんだから、ずっとここに立ってる意味はないんじゃないかって? ……も、もしかして、鬱陶しかったかな? お家の前で、こ、恋人を待ち伏せするのって、重い? 重い?」

台風の直前の空模様のように、あかりさんの表情が一気に暗くなった。

「わたしみたいな、女の子、嫌い? こういう、重苦しくてべたべたした彼女、嫌いじゃない? ……ううん、きっと嫌だよね。きみにはきみの都合があるのに、付き合わせるようなことして、ごめんね? ごめん、ね」

どんどん雲行きが悪くなっていく彼女の言葉を、食い気味で否定する。あかりさんの存在にいつも助けられていると、なんとか伝えなくちゃいけない。

「え? 中に入っていいの? でも、きみの重荷にならない? 邪魔くさくない? む、無理してわたしに気を利かせなくて、平気だよ。きみが嫌なら、わたし、すぐに立ち去るから。きみが『いなくなれ』って命令してくれたら、わたしも、抵抗がなくなるし……」

あかりさんを説得しながら、家の鍵を開ける。

「わたしが一緒のほうが嬉しい? わ、わたしがいないと、寂しいんだ? ……そっか、そうなんだ。じゃあ、お言葉に甘えて、お邪魔させてもらおうかな。えへへ」

ドアを開けると、遠慮がちながらも、あかりさんが付いて来てくれた。ひとまず、持ち直してくれたようだ。


「今日は、なにしてたの?」

リビングで、荷物を置きながらあかりさんが質問してきた。「今日も予備校だったんですよぉ」と愚痴っぽく答える。

「あ、予備校だったんだ。お疲れ様」

年上のお姉さんの優しい言葉に、心が洗濯される。しかし、修行僧である俺は、まもなく宿題に取り掛からなければならない。

「え、これからまた勉強するの!? 大変だね。わたしが入れ替わってあげられたらよかったんだけど……わたし、大して勉強できないしなぁ」

せっかく俺の帰りを待ってくれていたのに、気の利いたもてなしができないのが心苦しい。

「ううん、わたしは大丈夫だから、気を遣わないで。勉強の妨げにならないように、隅っこのほうで、お掃除してるね。が、頑張って……!」

あかりさんが、ささやかながらエールをくれた。なんか、それだけで無性にガッツが湧くな。恋人の存在というのは、本当に偉大だ。


さっきまで自転車を走らせていた我が身が、今度はペンを走らせている。今日の宿題は作業みたいな内容だから、手を動かし続けていれば終わる。

とはいえ、何時間も机に向かっているから、さすがに疲労が蓄積してきたな。姿勢をぴんとさせると、背中がボキボキと豪快に鳴いた。

「あの、さ……疲れてるんじゃない?」

斜め後ろからあかりさんの声がした。振り返ると、こちらの顔色をうかがうような体勢のまま、彼女が接近してきていた。

「目とか、首とか、つらいよね? だって、ずっと、勉強してるんだもん」

「そうなんですよね」といいながら首を回すと、後頭部に重みを感じた。

「そうだ……ま、マッサージしてあげるよ!」

あかりさんがそんなことを言い出したのは、俺がペンを握り直した瞬間のことだった。

「うん、そう、わたしが、きみの、マッサージをするの。筋肉をほぐせば、疲れもだいぶ楽になるでしょ? 勉強が大事なのはわかるけど、リラックスも、た、大切なんだよ? ……マッサージ、やったことないんだけど、きみのために、わたしもなにかしてあげたいから」

たしかに、あかりさんの言う通りだ。根を詰めるのはよくない。勉強一辺倒で体調を壊したら、元も子もないもんな。

「じゃあ、せっかくだから、お願いしようかな」というと、あかりさんは小学生のようなハキハキとした声で、「うん!」といってくれた。


「じゃあ、うつ伏せで、横になってね」

マッサージ用のマットなどもちろん持っていないので、布団の上に身体を横たえる。

「え、えっと、まずは、首と、肩のあたりから、ほぐしてみるね。知識とかないけど、きみのこと、気持ちよくさせてみせるから……!」

「よろしくね」とこちらがいうと、肩甲骨のあたりに感触を覚えた。マッサージが始まったみたいだ。

「んっと……きみを、傷つけないようにしなくちゃだから、丁寧に、丁寧に」

あかりさんがぶつぶつとなにかをいっているが、それ以上に気になることがある。

「ど、ど、どうかな? できるだけ優しい力でやってるんだけど、い、痛くない?」

恐る恐るといった感じのあかりさんだが、マッサージはまるで痛くない。それどころか、ほとんど指圧を感じない始末だ。

「痛くない? じゃ、じゃあ、こういうのは?」

痛くない。

「痛くないんだね、よかった。ここは、どうかな? もしかして痛い?」

痛くない。

「痛くない、か。で、でも、心配だな。気を抜くと、きみのこと押し潰しちゃいそうだし。ケガとかさせちゃいそうで、怖いし。もしかして、わたしに遠慮してない? い、痛かったら、ちゃんというんだよ? ね?」

……えっと、心配してくれるのはありがたいが、マジでまったく痛くない。いや、マッサージを受けているという感覚もない。あかりさん、背中の肉を親指と人差し指でつまんでいるだけなんじゃないか? それくらい、弱々しい施術だった。

「大切な、きみの、身体だから、万が一のことがないように、注意しなくちゃ……」

彼女に注文をいおうと試みたが、あまりにも熱心な様子だったので、水を差すのをやめた。というか、健闘してくれているあかりさんを制することができなかった。

その後も、ひ弱な施術が続行された。途中、背骨をなぞるという秘技?も披露されたが、五分くらいで上半身のマッサージが終わった。

「ね、ねえ……下半身も、やって、あげようか?」

あかりさんが、ぎこちない口調で提案してきた。

「だって、足とかも、くたくたでしょ? 予備校まで自転車でいってるんだし。だったら、ちゃんと、ケアしないと」

「いいの?」と尋ねると、「や、やってみるよ」とあかりさん。

「じゃあ……し、失礼します」

そして、あかりさんの指先は俺の臀部でんぶを突いた。

「わ!? ど、どうしたの、急にくの字になって!? もしかして痛かった? 力、強かった? ごめん。ごめんね、本当に」

たしかに、俺は腰を浮かび上がらせた。しかし、それはあかりさんの力が強かったからではない。お尻の謎のツボを刺激されたからだ。

「は、はは、恥ずかしいけど、きみが痛く感じないように、真剣にやるよ。そっと、そっと……くぅ、恥ずかしい」

どうやら、あかりさんはなぜか恥ずかしがっているらしい。その証拠に、彼女がさっきからしているのは、人差し指で足をつんつんするという行為だ。俺はエレベーターのボタンかなにかだろうか。

さすがに効能を感じられそうにないので、「もっと強くして大丈夫だよ」と伝えてみる。

「だ、ダメだよ、これ以上は。きみに痛い思いをさせたくないもん。それに、もっと強くしたら、その……は、は、破廉恥はれんちなんだよ」

あかりさんは、「恥ずかしい」を連呼しながらマッサージに勤しんでくれた。しかし、下半身の施術はほんの一瞬で終了してしまった。どうやら羞恥に耐えられなかったみたいだ。

「はい、こ、これで終わりだよ。これ以上したら、大変なことになっちゃう。……どう、だった? 気持ちよかった? 疲れ、なくなった? わたし、うまくマッサージできた?」

正直、筋肉はまったくほぐれなかった。下半身に至っては疲労が増えたのではないだろうか。

だけど、あかりさんが頑張ってくれたんだ、よしとしよう。癒されたことに変わりはない。

あかりさんに「ありがとう」と感謝する。

「う、うん、どういたしまして……! またきみが疲れたときは、マッサージしてあげるからね。そ、それまでに、握力を鍛えておくよ」

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