氷室あかりはキスができない

あーる

第1話 氷室あかりは耳掃除ができない

参考書とにらめっこしていたら、インターホンの軽快な音色が部屋に響いた。

数十分ぶりに立ち上がる。視界がチカチカして重苦しい気分になったが、それも一瞬でクリアになった。

足の小骨をポキポキと鳴らしながら、玄関に向かう。覗き穴の向こうには、案の定、見慣れた姿があった。

玄関の照明をオンにしてから、ドアを開けた。


「あ、こ、こんにちは……! 突然お邪魔しちゃって、ごめんね」


来客は、俺と目が合うとハッとした表情をみせた。そして、控えめな声で挨拶の言葉を口にした。お腹の前で両手をわせている仕草が、いかにも彼女らしい。

「あかりさん、いらっしゃい」と俺がいうと、彼女は顔をほころばせた。

「あのね、今日も、きみのお手伝いをしにきたんだ。一人で暮らしてると、なにかと大変だろうから」

あかりさんは、親元を離れて暮らす俺を気遣って、頻繁に我が家を訪ねてくれる。

「も、もしかして、勉強してた? 受験生だもんね。……迷惑、だったかな?」

俺は首を横に振った。あかりさんのおかげで生活の負担が減っているのだ、それを迷惑だと感じる道理はない。

「そっか。なら、ホッとした。あ、でも、もし嫌だったら、遠慮なくいってね。きみに嫌われたくないから……」

あかりさんが全身をもじもじさせる。彼女がなにをためらっているのか、彼氏である俺は過去の経験からなんとなく察した。そして、彼氏であるなら、恋人の望みに応えてあげるのが筋だろう。

だから、俺はあかりさんに、「上がってく?」といた。

「いいの、お家に上がらせてもらって? 嬉しい……う、嬉しいな。えっと、勉強の邪魔じゃない?」

前のめりなあかりさんに、「邪魔じゃないよ。むしろありがたい」と伝える。

「そっか……! じゃあ、今日も、わたしがお手伝いしてあげるね」

あかりさんの無邪気な笑顔で、俺まで喜ばしい気分になった。


リビングの机で、再び参考書と見つめ合う時間が訪れた。無機質な紙面にびっしりと羅列された黒文字が、俺の脳内で不純物となる。

コイツと少し距離を置こうと、周囲に視線を泳がせる。部屋の角のほうで、洗濯物を畳んでくれているあかりさんに目が留まった。正座をしながら丁寧に俺のTシャツを積み上げている様子が、なんとも家庭的だ。

参考書に意識を戻す。しかし、すっかり集中力が切れてしまった俺は、自分でも無意識のうちに耳元をいじっていたようだ。

「……もしかして、お耳、かゆいの?」

あかりさんがおずおずと口を開いた。それで、俺は自分の耳垢がたまっていたことを思い出す。

「耳垢が鬱陶うっとうしいと、勉強に集中できないよね。……じゃあ、きみのお耳、わたしが綺麗にしてあげようか?」

「いいの?」とこちらが聞き返すと、あかりさんは「う、うん」と答えてくれた。

「わたし、お掃除とか嫌いじゃないから。全然、器用なタイプじゃないけど、き、きみのためなら、頑張れる気がする」

それではお言葉に甘えようと、あかりさんの隣に移動する。そして、おもむろに彼女の膝を枕にした。

「え、ちょっと、どうしたの!? 急にわたしの膝で横になって!?」

あかりさんが慌てふためいている様子が真下から観察できる。喉元まで真っ赤だ。

「……あ、そっか、そうだよね。こうしないと、耳掃除できないもんね。ごめんなさい、考えが足らなくて」

あかりさんの声が低くなっていたから、彼女の膝をくすぐってみた。そしたら、あかりさんは「だ、ダメだよ、そんなところをこちょこちょしちゃ。えへ、えへへ、くすぐったいよ」と笑ってくれた。

「じゃあ、お耳の掃除、始めるね。緊張するけど、き、きみの役に立ちたいから。なにかあったら、いってね」

細い棒が、ゆっくりゆっくりと、耳孔じこうのフチに触れた。そのまま、小さなスプーンが耳垢をすくっていく。

「……どう、かな? 痛くない? 嫌な感じとか、しない?」

「へーき」と、間延びした声で伝える。

「本当に? 本当に、痛くない?」

「うん」と返事をする。

「い、痛くないんだね? じゃあ、このままするよ。あ、膝の寝心地は大丈夫? わたしの肌、別に柔らかくないし……」

「大丈夫だよ」と笑いながらいうと、あかりさんは「ご、ごめん、心配性で。きみのお耳に集中するね」と気を取り戻した。

耳元でもぞもぞという音が反復的に鳴り続ける。耳垢がどんどんなくなっていくのが、皮膚の感触からわかる。あかりさんの膝は、男のそれとは大違いで、まるで本物の枕のような弾力を備えていた。

と、全力でリラックスしていた瞬間、棒の先端が耳の奥を派手にいた。反射的に両目を閉じる。

「あ、ご、ごめんね……! 痛かったよね。奥のほう、思い切り引っ掻いちゃった。ど、ど、どうしよう。鼓膜とか、傷つけてないかな」

狼狽ろうばいするあかりさんを、声でなだめる。「大して痛くなかったから」というと、少しだけ落ち着いてくれた。

「……ごめんね。不器用なくせに、こんなことするから、きみの迷惑になっちゃうんだよね。他人ひとの耳掃除なんてしたことないのに、きみのお世話ができるからって、つい調子に乗っちゃった。できもしないのに、自分の気持ちを優先したばっかりに、きみを傷つけようとした。身勝手なことで振り回して、本当に、ごめん。もう、耳掃除したいなんて、いわないから」

目を伏せるあかりさんの頬を、できるだけ優しく撫で下ろす。

「……迷惑じゃ、ない? もっと、してほしいの? で、でも、またお耳を傷つけちゃったら」

「じゃあ、今度は綿棒でお願い」と、あかりさんに提案する。

「綿棒で? それなら、心配いらない、のかな? ……だけど、わたしで大丈夫なの? わたしみたいな未熟者が、きみのお耳のお掃除、しちゃダメだよね」

恋人が不安に陥っている。こういうとき、彼氏が全うするべき仕事は一択だ。

俺は、自分のありのままの思いをあかりさんに伝えた。

「か、彼女に耳掃除してもらうのが、嬉しいの? わたしにお世話されるのが、特別感があって、幸せなんだ? だって、わたしたち、恋人だから? ふ、ふーん……えへへ」

あかりさんが笑みを漏らす。線が細いけど、穏やかで、ぬくもりのある笑顔。俺の大好きな表情だ。

「じゃ、じゃあ、今度は綿棒でやってみるね。完璧にできる自信はないけど、きみを幸せにしてあげられるように、頑張るから……! だって、わたしたち、恋人だもんね」

あかりさんが小さくガッツポーズをする。よかった、恋人がこれ以上不幸にならなくて。

これで、俺も癒しと幸せを堪能できそうだ。

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