第2話 優しさの力

 東雲葵しののめあおい。夫あり、二児の母でもある彼女は、結婚し子供を出産後ひょんなことから看護師を志し資格を取得してから早数年。

 彼女は現在、救急救命センターの看護師として日々奮闘していた。


 休日の救急救命センターは多種多様な患者が押し寄せ多忙を極める。


「東雲さん、5分後に到着予定の梗塞疑いの患者、そこの処置室で受けるから準備と受け持ちお願いね。それと、さっきの嘔吐の子、入院になったからいつでも申し送りできるようにできるだけ早く記録と最終バイタル頼むね。でさ、その子の母親がさっきから子供一人にしてちょいちょい居なくなるの。一度自宅に帰りたいって言ってたから、代わりの家族が到着するまで勝手にいなくならないように見張っていて。あと、例の観察室にいるオーバードース(薬の過剰摂取)の患者さん。あれだけ睡眠薬飲んだから暫くは目が覚めないと思うけど、モニタリングしているとはいえ急変も考えられるから。兎に角、寝ながら嘔吐してないかだけ時々様子を見に行って。なんてったって自殺企図じゃん。家族には絶対患者の傍から離れないように伝えてあるけど、万が一ってことがあるといけないから・・・・・・今さ~病室のあきが無くて困ってるのに、先生たちガンガン入院させるから簡便してもらいたいわけよ~。そんなわけで、後は頼んだわよ」


 早口でリーダー看護師から、愚痴交じりの指示の雨が容赦なく降り注ぐ。


 ――ああ・・・・・・業務が山のよう・・・・・・

 言われたこと以外にも、やらなければならないことが頭の中で溢れている。

 先程、指を切断した患者に使用したナートセットの物品定数確認と後片づけ、使用した物品のコスト入力、破傷風の注射施行と次回注射の説明。追加オーダーの採血、 入院患者のバルン挿入と採尿、メイン点滴の更新、云々・・・・・・


 指示を受けながら、思考を巡らせる葵。


 ――落ち度なくきっちりと業務をこなさなければ・・・・・・

 自らに課するプレッシャーが、重く心にのしかかる。

 こんな時、葵は大きく深呼吸する。

 ――落ち着け私・・・・・・


「すみません。うちの者が便をしたようなので見てもらえますか?」

「はい、わかりました。直ぐ準備して参ります」


 また一つ業務が増えた。

 看護師は顔で笑って、心で泣いて・・・・・・


 医療の現場における多重課題――看護師あるある。

 緊急事態であっても、優先順位を考えて行動する力が求められる。

 苦手だった多重課題にもだいぶ慣れてきた葵。

 だが、予測できない緊急事態に見舞われるとプチパニックに陥ることがある。


「それと。ステった人(ステルベン=死亡)、葬儀屋さんが1時間後に迎えに来ることになったけど、エンゼルケア(死後処置と死化粧)は済んでる?」

「はい。霊安室に移動していただきご家族様と一緒に待機されています。ただ、死亡診断書がまだ出来上がっていなかったので、先程担当の医師に依頼をしたのですが・・・・・・」

「わかった。書類の確認はこっちでやっておくから、救急車頼んだわよ」

「はい。わかりました。ありがとうございます」


 葵はまたひとつ、大きな深呼吸をする。


 突如呂律が回らなくなり、麻痺で救急搬送された患者は軽度の脳梗塞と診断された。

 発症後48時間以内に適応可能な特効薬にて、麻痺症状はみるみる改善し後は入院を待つばかりとなった。


 ホッとしたのも束の間。

 突如、怒号がフロアーに響き渡った。


「ふざけんなー!コノヤロー!俺を誰だと思っていやがる!あ~!?」

 その声の迫力に一瞬肩を竦めた葵。

 50代の強面で屈強な男が、診察室から声を荒げて出てくるところに出くわした。

 担当した看護師が患者をなだめに追いかけたが、横柄な態度の男に対し不快感を滲ませた看護師の表情が患者の気に障り、事態は悪化した。

「んあ?何だその面は・・・・・・文句あんのか!」


 救急救命センターを受診する患者は、思いも寄らぬ突然の病や怪我に見舞われ来院する。

 苦痛が伴う中、治療のためにとそれまでのADL(日常生活動作)を制限されたり、そのまま緊急入院や手術の適応となることも多く自宅に戻ることすら許されないことも多々あり、患者のフラストレーションはピークに達する。


 この患者もその一人だろうか。病気の認識、受容はそれぞれの性格にもよる。


「入院てなんだよ!痛てーんだよ!早く痛み止めよこせ!この藪!藪医者が!」

 診察した担当医師に向かって罵声を浴びせる男性患者。


 本日の内科当番医は消化器内科医師、|桐生健きりゅうたける桐生健。

 三十代前半の彼は、代々医者の家系。実家は彼の地元では有名な病院を経営する一族、彼はその次期院長と噂されていた。

 常に冷静沈着の桐生、的確で無駄がない指示は看護師の間でも好評だった。

 だが、その顔立ちからも喜怒哀楽を表に見せない桐生はよく言えばクール、実際は何を考えているのかよくわからない冷徹な人として皆に認識されている。


「だいたい、説明がなってねーんだよ!お前、俺を殺す気か!おい、聞いてんのか!」

「先ほども申しましたが、痛み止めは検査結果が出るまでお待ちください。まずは痛みの原因を明らかとし、診断名がつき次第治療方針を決定します。それまでは点滴を行いましょう」

 桐生医師は、診察室から患者の元までやってきて怒り狂う患者を前に表情ひとつ変えず、淡々と説明していた。


 男はチッと舌打ちすると、案内された観察室のベッドにしぶしぶ横になった。




 観察室で入院待機していた患者たちが順に病棟にあがり落ち着いてきた頃、事件は起きた。


「謝れー!ミスを認めろー!」

 検査結果を伝えに観察室に出向いた桐生医師に、再び男が絶叫した。

 患者の男は今にも桐生に飛び掛かりそうな勢いで詰め寄った。傍で対応するリーダー看護師が血相を変え狼狽える。

 それを見ていた葵は応援に駆け付けた。


「おっしゃる意味がよく解りません」

 理不尽に怒鳴り散らかす男に対し、物怖じすることなく対峙する桐生。


「お前、入院とは言ったが内視鏡検査するとは言わなかったじゃねーか!」

「採血、CT、エコーの検査結果より、今から緊急内視鏡検査が必要となりました。おそらくは中を見て、そのまま治療することになるかと思います。検査・治療のリスクにおいては先程説明したとおりです。了承いただけましたらこちらの同意書にサインをお願いします」

 桐生医師の、低く落ち着いた冷静な口調と声音。


「これだけ待たしておいて、今更内視鏡だと~!?きっ、さま~!俺がどれだけ痛い思いしたのか分かっているのか!これは医療ミスだ!謝りやがれ!」

 男は何かと因縁をつけては脅し、怒りを滲ませた表情で拳を振り上ると桐生医師にゆっくり詰め寄った。


 観察室に緊張感が張りつめる――


「謝りません。これは医療ミスでもなんでもない。暴力を振るうならば警察を呼びます」

 桐生医師は気後れすることなく、先程と変わらぬ口調できっぱりと返した。


 この時葵は、桐生医師のその細く長身の体躯と育ちから想像もつかない程、彼は骨のある人だと思った。

 だが、このままでは本当に殴られてしましそうな勢いだった。


 葵は目を閉じて、これでもかというくらい大きく息を吸い込み、本日何度目かの深呼吸をする。


 ――では・・・・・・

 パッと瞳を開いた葵は、かけていた眼鏡をそっと外しながら口元にふふっと小さく笑みを浮かべた。


 ――確かドラマのワンシーンにこんな場面があったなぁ・・・・・・

 そんなことを思い浮かべる葵は、スッと男と桐生医師の間に立ち塞がった。


 ――さてと、この後どうする?葵・・・・・・

 男と桐生医師は葵の突拍子もない行動に一瞬目を丸くする。

 興奮している男は葵を避け、桐生医師に殴りかかろうとした。


 キュッ――

 本日おろしたての真っ白なナースシューズから床を踏み込みターンする小気味いい靴の音が響き渡った。

 葵は踵を返し、再び二人の間に割って入り身体を張って暴力を阻止した。


「てめぇ、看護師を盾にして恥ずかしくねぇのかよー!医者は弱ぇ~よな!」

その時、桐生医師の瞳の奥に、キッとした強さが宿ったことを感じた。


 ――ダメ・・・・・・挑発に乗ってはいけない・・・・・・

 葵は桐生医師に一瞥を投げると男に向き直り見据えた。


「・・・・・・恥ずかしのはあなたの方です・・・・・・」

「あぁ!?」


 葵の切り出す一言に、凍りつく観察室――


「桐生先生は、決して弱くない・・・・・・弱いのは・・・・・・あなたです」

「なんだと~!?」

 激昂する男。


 辺りがざわつく――


「勘違いしないでください。私は今、医師ではなく、あなたを守る盾になっているのです」

 葵は臆することなく男の目を真っすぐに見据えて答えた。


「どういう意味だ!?」

 葵を睥睨へいげいする男。


「今暴力を振るったら、あなたは警察に逮捕されてしまいます。だからです。何より私は、あなたにこれから内視鏡の治療を受けていただきたい。ただそれだけです」

 恐れるどころか勇猛果敢に立ち向かう葵。


 男は呆けた表情で見つめ突如笑い出した。

「ぶっ 、わっはっはっはっ・・・・・・これは、面白れぇ・・・・・・気に入ったぜ、あんた!俺としたことが、すっかりやられちまったな・・・・・・」

 葵はそんな男を驚きの眼で見つめた。


 突如、男は葵の胸元からボールペンを引き抜くと、内視鏡の同意書に力強くサインした。


「ほら!お前にくれてやる!」

 男は書類とボールペンを葵につき出した。

 その瞬間、葵の表情はパッと明るくなり、満面の笑みで男を見つめた。


「おい、そこの藪医者!しっかり治療しないと許さねえからな。覚悟しておけよ!」

 患者の変わりように、驚きの表情を浮かべていた桐生は「はい」とだけ短く返答し、葵を見つめた。


「はい!では桐生先生、ただいまから内視鏡の支度をして参ります。準備が整いましたらコールいたします」

「おっ!?ひょっとしてお前ら二人が治療するのか?」

 ドスの利いた声はどこへやら・・・・・・。うわずった声で質問が投げかけられた。


「はい。勿論その予定ですが・・・・・・それが何か?」

 桐生医師の低音ボイスがやけに冷たく聞こえるのは気のせいだろうか。

 そのやり取りに、笑いを堪える葵。


「そうか・・・・・・いや、何でもない。お手柔らかに、頼む・・・・・・」

 眉根を下げて、しょぼくれた様子の男。


「さあ、それはどうでしょう・・・・・・さっきのこともあることですし・・・・・・お仕置きしちゃいましょうか、先生!」

 葵は愛嬌たっぷりにおどけて見せた。

 桐生は、先程から繰り広げられる葵の突拍子もない発言に目をしばたかせた。


「うっ・・・・・・それは勘弁してくれ。さっきは悪かった・・・・・・」

 あれほど狂犬のように吠えていた男はすっかり葵に手懐けられ、今や借りてきた猫みたいに大人しくなった。


「では、頑張りましょう!」

「ああ、よろしく頼む」

 完全に葵のペースに巻き込まれた男は、最早彼女のいいなりに。


 ――不思議な人だ・・・・・・

 桐生はそんな葵を優しい眼差しで見つめた。


 人というものは、心の在り方ひとつでこれ程までにも変われるものだと、改めて実感した葵だった。




「東雲さん、さっきは助けてくれてありがとう。おかげで無事治療が済んだよ。君は勇敢だね・・・・・・一つ聞いてもいい?どうして身体張ってまで阻止してくれたの?」

 桐生の何気ない質問に、一瞬動きが止まる葵。


「う~ん・・・・・・それはきっと・・・・・・私は、白衣の戦士だから・・・・・・」

 そう言いながら、自身の顔の横に両手で銃を構えたと思いきや、桐生に向かって狙いを定める葵の珍妙にして滑稽な姿に度肝を抜かれた桐生。


「本当はね・・・・・・美味しかったからかな・・・・・・」

「何だ?それ??」

 頭に大きなクエスションを浮かべた桐生は、全くもって意味がわからない様子だ。

 そんな桐生を見て小さく微笑んだ葵は、この部署に配属された頃を懐古した。




 まだ慣れないことばかりで失敗を繰り返す葵は、救急の診察室で一人しくしく泣いていた。


「あの・・・・・・この部屋使いたいんだけど、いいかな・・・・・・」


 その日、初めて桐生と出会った。

 葵は慌てて涙を拭い去り振り返りると「どうぞ・・・・・・」と言って退室した。


「ちょっと待って・・・・・・」

 桐生に呼び止められ葵は振り返る。


「さぁ、どっち?」

 突如葵の目の前に、グーに握られた桐生の両手が現れた。

 逡巡する葵に、桐生は「さぁ・・・・・・」と言って更に両手を前につき出した。

 葵は、迷わず一方の手を指さした。

「あたり・・・・・・」

 優しい眼差しで微笑む桐生の手の平から、丸い銀色の包みが出てきた。

「これあげる・・・・・・」


 葵は、帰りのバスの中で丸い銀色の包みを開き口に含んだ。

 何故だか涙が溢れ出し、止めることができなかった。

 桐生からもらったチョコレートは、これまで味わったことのない優しい味がした。




 あなたはもう覚えていないかも知れないけれど、あの時受けた優しさは今でも忘れられない。


 ねえ、知ってる?

 人はね、苦しいとき辛いときに受けた何気ない優しさを、いつまでも覚えていることを。

 あなたにとって、それほど大したことではなかったかもしれないけれど、その何気ない優しさに心救われた人がいるってこと。


 優しさの力って凄いね。

 優しさって形ないものだけど、底知れぬ力を秘めている。

 まるで凍てついた心がじんわりと温められ溶かされていくような。

 その優しさに触れたとき、受けたの者の心まで優しくなれるのだから・・・・・・


 ――私こそ、ありがとうだよ。桐生先生・・・・・・



「それと・・・・・・」

 そう言いながら、辺りを窺うように視線を彷徨わす桐生の不自然な行動。


「はい?」

 きょとんとした表情で葵は桐生を見つめた。


「さっき・・・・・・眼鏡を外した君は、別人かと思った・・・・・・」

 葵から視線を逸らせながらそう言う桐生。


「??そうですか?ああ、確かに。仕事の時だけ眼鏡してるから、職場でしか会わない人は眼鏡の私しか知らないかもですね」

「え!そうなの!?何で?何で、仕事の時だけ?」

「遠くのモニターの数字がよく見えるようにです」

「ふっ・・・・・・君は、真面目だな・・・・・・」

「むしろ私の主人は、眼鏡をかけていることすら知らないと思います」

 はにかみながら夫の話をする葵を見つめる桐生。


「そうか・・・・・・旦那さんが羨ましいな・・・・・・」

 桐生は葵に聞こえないくらい微かな声で呟いた。


「ん?よく聞こえなかったのですが・・・・・・今、なんか言いました?」

「んんん?何でもない・・・・・・さぁてと、患者が待っているから急いで戻ろうか」

「はい。今頃リーダーさんが、首を長くして先生の帰りを待っていることでしょう」


 今、白衣の戦士が再び戦場へ駆け出した――

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