白衣の戦士
龍音
第1話 対照的な二人
その時、ホットラインが鳴った――
現場救急隊からのプロトコールだ。
瞬間、フロアーに緊張感が張りつめ、視線は一斉にその一点に注がれる。
「はい、○○総合病院 救急救命センターです」
フロアースタッフは皆、声の主に耳を澄ませた。
「こちら○○市消防局○○救急隊の救命士○○です!心肺停止状態患者に対する指示 要請です!患者は二十歳の男性――トラックの荷台から荷の積み下ろし作業中、約500キロの荷が崩れ、フォークリフトと荷物の間に挟まれ出血多量!初期波形CPA(心肺停止状態)にて現在CPR(蘇生)施行中!これより、地域MCプロトコールに従い特定行為の静脈路確保アドレナリン薬剤投与の指示要請をお願いします!」
救急隊の、心の高ぶりと焦りを抑えきれない乱れた声音、背後から聞こえる音声からも現場の混乱した状況が伝わってくる。
それを聞きながら手際よく動き出すスタッフ。
救急指導医から現場救急隊に口頭指示が言い渡された。
救急医は、救急要請を受け現場に駆けつける救急隊と協力し、病院前医療が実施される。
それには、救急救命士が実施可能な医療行為『特定行為』がオンラインメディカルコントロールにより救急医から救急救命士に対して指示、指導、助言が行われ迅速に処置対応が施される。
―――命をつなぐリレーが始まった―――
「到着まで約5分――到着次第ルート確保と同時に採血、アドレナリンとDC、挿管の準備を――」
医師から指示が出される頃には、ほぼ準備は完了していた。
救急カートには挿管セットとアドレナリンシリンジが並べられ、点滴台には補液、ストレッチャー周辺には、酸素に接続されたバックバルブマスク、吸引の用意、リザーバーマスク、モニター、カウンターショック、人工呼吸器他諸々が設置された。
「来た――」
意識しなければ聞こえない程微かなサイレンに、心臓がドキリと音をたて気持ちが引き締まる。
救急入口で救急車を迎える私は、ハッチが開かれたその瞬間目を眇めた。
この時、一目で患者の重症度を改めて理解する。
AEDのアラームと共にバックバルブマスクにて補助換気を行われながら、機械的に心臓マッサージを施されたまま搬送される患者。
胸骨を圧迫するたびに発せられる無機質なリズム音は、何度聞いても不快で痛々しい。
頭部に引かれた処置シーツは、頭部や口や耳鼻から流れ出た鮮紅色の血液がこれ以上吸えない程沁みこんでいる。
搬送時、だらりと崩れ落ち弛緩した上肢から生温かな血液がポタポタと滴り落ちてゆく。
それはあたかも、初めて来たものが処置室までの道のりを迷うことなく辿り着けるほど、廊下を赤く染めあげた。
そこはまるで戦場で―――。
目の前にいるのは攻撃をくらった手負いの兵士。だとしたらここは、野戦病院か。
ふと一瞬、ほんの一瞬だが、私の脳裏には血塗られた戦場が広がっていた。
激しい怒号と炸裂する爆裂音の戦場に、勇猛果敢に立ち向かう白衣姿の自分が佇んでいた。
その姿はまるで、白衣の戦士――。
目を覆いたくなるほどの凄惨。
鼻に纏わりつく鉄のような異臭が、救急室一帯に充満する。
少し前の自分であれば、確実に吐き気をもよおしていたであろう。
看護師になる前は、自分の脈にさえ触れることさえできなかった。
だが、今の自分は最前線。救命救急の看護師だ。
こんなことで怯んでいたら、患者の命を救うことなどできない。
―――つながれる命のバトン――
患者の前胸部に電極を装着しモニタリングを開始すると同時に、気道内に溢れた血液を素早く吸引し、無機質な心臓マッサージの機械を外す。
「波形確認!」
モニターに祈りを込めた皆の熱い視線が注がれる。
心臓の波形はフラットのまま変化はなかった。
「心静止です!」
「心マ再会!」
―――まだ、温かい・・・・・・
胸骨を的確に圧迫する私のグローブ越しの手に、伝わる患者の生きていた証。
―――戻ってきて・・・・・・あなたはまだ死ぬには早すぎる・・・・・・
ほんの少し前まで元気に活動していたであろう患者の姿を、何故かこの時思い描きながら心臓マッサージを施行する私は、心の中で語りかけていた。
心臓マッサージを施行しながら、A採血(動脈採血)と抹消からのルート確保が急がれる。
「ルートはまだか!取れ次第アドレナリンシリンジ1筒I.V.(静脈注射)!」
緊迫した不穏な空気感の中、強い口調で医師の指示が飛び交う。
「ルート確保しました!アドレナリンシリンジ1筒I.V.します!」
静脈からルート確保した看護師が医師の指示に従い施行する。
「3分タイマー開始しました!」
記録する看護師が全体の様子を見ながら声をかけた。
医師、看護師たちは限られた人数の中で連携を図り、患者の命に向かい合う。
心臓マッサージを継続する。
―――心臓よ動け!あなたにはまだやりたいことがあるでしょ!
一分間あたり100回の速さで行う心臓マッサージ。
これは、某有名子供向けアニメのオープニングソングに合わせて行うとその速さと 言われている。参考までの話。無論、心の中でも歌うつもりなど毛頭ないが。
心臓マッサージを一人で続けるのは正直キツイ。
というより、質の良い確実な心臓マッサージの施行のためには、1~2分を目安に交代しながら行うことが理想的だ。
「1,2、―――10―――20―――」
胸骨圧迫を的確に施行しながら数をカウントする。
「次、変わります!」
患者を挟んで私の向かい側に立つ若き救急隊員が声をあげた。
アイコンタクトにて互いに意思疎通を図る。
「―――30!」
医師が、患者の胸郭のあがりを確認しながら、バックバルブマスクにて肺に酸素を2回送り込む。
30対2。胸骨圧迫と人工呼吸の組み合わせ。
胸郭の上がりが不良のため、私は吸引を施行し気道内の血液を取り除いた。
その間に心臓マッサージを交代する。これを繰り返し行う。
けたたましく、3分タイマーが鳴り響く。
「波形確認お願いします!」
波形は微弱な波形を示した。
頸動脈に触れ、脈の拍動を確認する医師は首を横に振る。
「PEA(無脈性電気活動)」
心電図上は波形を認めるが、有効な拍動はなく脈拍を触知できない状態。
「心マ再会!アドレナリンシリンジ1筒追加でI.V.!」
「アドレナリンシリンジ1筒I.V.しました!」
「3分タイマー開始!」
再会される心臓マッサージ。
―――紡がれる命のリレー―――
―――早く目をあけて!皆が待っているんだよ!
それから5筒目のアドレナリンをI.V.するも波形が戻ることはなかった。
ここまでくると蘇生する確率はかなり低い。
電話連絡のついた患者家族からの強い要望もあり、家族が到着するまで心臓マッサージは継続されることになった。
搬送されてから約45分経過する頃、交代しながら心臓マッサージを施行する私の身体は、全身筋肉痛に見舞われ手が勝手に震え出す。
家族が到着し、状況説明した医師から心臓マッサージ中止の指示が出る。
皆の願いも虚しく、患者の心拍が再会することはなかった。
患者と面会する家族。
「ぎゃーー!たっくん!たっくん!目をあけてー!どうして?どうしてこんなことに!?ねぇ、何かの間違いよね!?ねぇ、答えて!たっくん!わぁー!」
母親だろうか。奇声を上げ発狂する女性の悲痛な叫びに、どうしてあげることもできない私は、ただただ胸が苦しくなった。
できる限りの処置は施した。
だが、患者の心臓が再び動き出すことはなかった。
二十歳になったばかりの男性は、年明けに成人式を迎える予定だった。
男性が朝家を出る時は、こんなことが起こるなんて誰も思いも寄らなかったことだろう。
エンゼルケアを行った。
血液で汚れた顔を綺麗にふき取っていく。
まだあどけなさの残る、端正な顔立ちの男性だった。
男性にはこれからまだやりたいことが山ほどあったことだろう。
仲間たちと時を共有し、はしゃいで馬鹿言い合ったり、趣味を楽しんだり。
恋をして、愛を知り、いつか家庭をもって・・・・・・
そんなありきたりの夢さえも、今の彼には叶えることができないのだ。
そう思ったらなんだかとてつもなく悲しくなって、やるせない気持ちが募っていった。
その日、時を同じくして救急室の一角の個室では、その最期の時を家族に看取られながら息を引き取った患者がいた。
「おばあちゃん、大往生だったね。孫、ひ孫に囲まれて幸せな人生だったね」
そう呟く娘の言葉に続き、孫やひ孫たちは故人にこれまでの労いと感謝の気持ちを言葉にして伝える。
故人へ向けられた家族の眼差しと言動はとても穏やかで温かく、皆笑顔だった。
今年、九十八歳を迎えた患者は、子供、孫、ひ孫たちにあたたかく見守られながら、老衰でこの世を去った。
皮肉にも、同じ日、同じ時刻に息を引き取った九十八歳と二十歳の患者たち――
どちらも尊い命の重さに違いはないけれど、これ程までに年齢も死因も対照的な二人の患者の最期に、私は偶然立ち会った。
その日のことは今でも忘れることはできない。
―――人が生きて死ぬこと―――
当たり前のようで、そうでないこと。
この時私はこの二人の患者に、人生を通して学ぶべき気づきを投げかけられたように感じた。
いつかこの世を去るその時までに、その答えを見つけ出すことができるのであろうか。
今はだた、どんなに苦しくても、どんなに心打ちひしがれようとも前を向いて空を見上げて歩んで行く――
いつか答え合わせができるその時まで、悔いなく精一杯生きること―――
それが今の私の答え―――
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