第3話 コードブルー

 その日の夜勤は、外科当番の日だった。


 葵の住む街には救急を担ういくつかの大きな総合病院があり、各病院に輪番制で内科、外科、小児科と大きなくくりで割りあてられている。


 勤務開始前には各科担当医師や看護師たちは顔合わせし、挨拶を兼ねた軽い申し送りを受け情報を共有する。


 本日は外科当番であるため、責任者に救急医1名、外科医2名(整形外科医1名、外科医1名)、内科医1名、研修医2名、看護師4名(病棟師長1名、副看護師長1名、救急看護師1名、外来看護師1名)で夜勤をこなす。


 今日は当番日でもあるため、いつもに比べ医師も看護師も人数が多い。

 だが、実際にはこれだけの人数が揃っていても、全員が朝までフル稼働状態も珍しくはない。


 その時、突如降り出した雨がパラパラと不規則な音をたて木の葉を大きく揺らし始めた。チカチカッと光る閃光が窓の外の景色を青白い世界に染めた。


 ――なんだろう・・・・・・胸騒ぎがする・・・・・・


 間もなく帰宅ラッシュの時間帯。


 窓の外をじっと見つめる葵は、遠い目をしていた。


「いつまで外を見ているつもりだ?申し送りは終わったぞ」

 突如声を掛けられハッとする葵。


「今夜も忙しくなりそうだな。宜しく」

 消化器内科医師桐生はクールな面持ちで語る。


「あっ、桐生先生、こちらこそ宜しくお願いします」

 ペコリと頭を下げる葵。


 その時、ホットラインが鳴った――


 緊張した面持ちで見つめ合う二人。


「○○救急隊、救命士○○です!ロードアンドゴーの傷病者収容依頼です!35歳男性、郵便バイクで走行中スリップし転倒。そのまま対向車線を走行中の軽自動車に巻き込まれた交通事故。到着時の負傷者はブリッジした体位で車の下に挟まれた状態。右側胸部にフレイルチェスト(3本以上の肋骨が折れている)、右上腹部に打撲痕と同部位の緊張、圧痛あり、腹腔内損傷疑い。両骨盤部に打撲痕と骨盤の動揺を認め骨盤骨折疑いあり。意識レベルはJCS1桁。顔面蒼白、冷汗あり、呼吸は浅くて速く、橈骨動脈は弱くショック状態です。高濃度酸素投与開始、骨盤固定具装着、フレイルチェストをガーゼ固定、バックボードにて全脊柱管固定しています。病院到着まで20分!」


 嫌な予感は的中した。

 現場救急隊からの第一報は医療現場の緊張感を一気に高めた。

 葵は瞳を閉じ、深く大きく深呼吸する。


「始まったな・・・・・・さあ、君の出番だ。行ってこい!」

 葵は、桐生の言葉にパッと目を開き気を引き締め、スッと顔をあげる。

 桐生の言葉にポンと背中を押された葵は、駆けだした。




 ロードアンドゴー。高エネルギー外傷や重症度が高く救命できる可能性のある外傷患者し対して観察、救命応急処置を施したのち、5分以内に救急車に収容、迅速に病院に搬送することを目指す救急救助現場などで使われる言葉。


 交通外傷時は、現場に駆けつけた救急隊が負傷者の首に頸椎カラーを巻き、負傷者の身体を捩じらず一本の丸太状に動かし、バックボードと呼ばれる固い板の上に真っすぐ仰向けで寝かし、胸部、骨盤、大腿部、下腿をバンドで固定した後、頭部を固定具にて固定する。

 これは、搬送時負傷者の脊髄の損傷を悪化させないようにするため。


 今回の外傷は骨盤骨折が疑われ、骨盤の動揺を防ぐための骨盤固定装具も装着されていた。


 骨盤の内側は消化管、泌尿器、子宮など需要な臓器の他、内腸骨動脈などの血管が存在しているため骨折による血管損傷から出血性ショックを起こし死に至ることもある。


 この患者は、骨盤骨折による血管損傷からの出血性ショックの可能性が高い。出血を止めなければ命にかかわってくる。


 出血性ショックの場合の治療は、まずは止血のための血管内治療、輸血が急がれる。


 救急隊が到着すると共に手際よく処置、観察がほぼ同時に施行される。


「酸素10リットルで継続しました!」

「血圧90/58、脈105、サチュレーション98%、心電図サイナス!」 

 葵は声を張り上げ医師に状況を報告する。


「大至急輸血を依頼して!」

「はい!」


 全脊柱管固定は、レントゲン、CT検査を行い脊髄損傷が否定され医師の指示が出るまでは外すことはできない。


 よって、固定された状態のまま患者の衣服をはさみで切り、隙間から衣服を抜き取るように脱がす必要がある。


「わかりますか?治療のために服をはさみで切ってもいいですか」


 葵は、意識レベルの低下がないか確認しつつ処置を進めた。


「あなたの名前を教えてください」

「では、生年月日を教えてください」

「今どこにいるか分かりますか?私は何をする人かわかりますか?」

「今日は何年何月ですか?」


 事故の衝撃から酷く動揺し興奮と混乱が入り混じった様子であったが、質問に正答できていた。


「意識レベルJCS1桁(JapanComaScale1=だいたい意識は清明だが今ひとつはっきりしない)です」


 葵は的確に医師に報告する。

 患者の意識レベルは救急隊の第1報時と変わらなかった。


 医師が患者の動脈採血を施行している間に、看護師は静脈から抹消ルートの確保が急がれる。

 造影剤使用のCT検査に備え、右肘に20G(針の太さ=結構太い)で留置針をとり、専用の耐圧チューブを接続し点滴を開始する。


「採血が取れたら、レントゲンとCTへ急いで!」

 まだ処置が途中であるにも関わらず、医師からの性急な指示が出る。

「はい」


 レントゲン結果から、脊髄損傷は否定され全脊柱管固定は外された。


「ではいいですか!いち、にの、さん!」

 頭側を持つ者の掛け声に合わせ、6人で慎重に患者をフラットリフトしCTの検査台に移動する。


 CT検査中、操作室で撮影が済むまで待機する放射線科医、外科医、研修医、レントゲン技師、看護師は画像の映し出されるPC画面を食い入るように見つめていた。


「あ~、これは酷い・・・・・・」

 嘆きのような声があちらこちらから漏れ出る。


「・・・・・・今すぐTAE(動脈塞栓術)の準備を・・・・・・」

 放射線科医堂本は、眼鏡をクイッと押し上げながら落ち着いた口調で指示を出す。

 その瞬間、葵はピリリとした緊張感に包まれた。

「はい。準備が整い次第コールします」




 当病院の救急看護師は救急外来の他、緊急内視鏡、緊急カテーテル治療の処置対応もこなさなければならない。

 全てをこなす看護師は少ない中、葵だけは全ての治療に対応できた。


 TAE(動脈塞栓術)は足の付け根に局所麻酔をして、大腿動脈の血管から細いカテーテル(管)を挿入し、造影しながら出血部位を確認し、動脈を塞ぐ薬剤やゼラチンスポンジなど詰め止血する治療である。


 放射線科医は清潔操作にて治療を進める。

 看護師は治療の手順に従い、カテーテルや薬剤を清潔操作で医師に渡し、PCに記録しつつ、治療中患者の状態を観察し急変時は迅速な対応が求められる。


 夜勤帯は放射線科医師と放射線技師、看護師3人体制での治療となる。

 よって、夜勤帯の緊急カテーテル治療は葵一人で対応しなければならない。

 今回は急変も考えられ、ICUより1名看護師の応援をもらうことができた。

 部署が違うため主だって行うのは葵だが、一人いてくれるだけで何より心強かった。


 放射線カテーテル治療室にてTAE(動脈塞栓術)が始まった。


 被ばく防止のため、重い鉛のプロテクターを身に着けた葵は、特殊な治療台に患者を移動させ治療の準備を始めた。


「室伏さん、治療の台が狭くて高いので治療中は動かないでください。私はすぐ傍にいますから、何かありましたら遠慮なく声をかけてくださいね」

 葵は少しでも患者の不安を軽減してあげたく、笑顔で対応した。


「看護師さん、俺、死にませんよね・・・・・・まだ死ぬわけにはいかないんだ。もうすぐ子供が生まれるんです」

 死という言葉に敏感に反応する葵は、放射線科医堂本に視線を向けた。


「室伏さん、これから治療しますから大丈夫です。頑張りましょう」

 患者は堂本医師の言葉に安心したのか、顔を綻ばせた。


「室伏さん、先生がそう言っているから安心してください」

「先生も看護師さんもそう言ってくれるから頑張ります」

 患者の前向きな言葉に無事治療が済んで欲しいと葵は祈った。


 仰向けで横たわる患者のサイドには、100インチ以上ある巨大なモニターが。

 医師は、モニターに映し出される血管画像をじっと見つめながら、手元のカテーテルを進めていく。


 物静かで声を荒げるところを一度だって見たことがないくらい穏やかな堂本医師だが、葵はいつもと違う医師の様子に気づいていた。

 言葉や表情こそ変わらないが、彼の手技に焦りの色を感じた。

 それは、患者の状態が思わしくないことを意味していた。



 静まりかえった治療室。

 2分毎に自動測定される血圧計の加圧音がやけに気にかかる。

 その時だった。血圧低下のアラームが鳴り響く。


「血圧78/52、脈116、サチュレーション98です」

「メインの点滴、ボルベンに変更。輸血全開で」

「はい」

 葵は口頭指示に素早く対応する。


「血圧93/59です」

「では・・・・・・そのまま・・・・・・」

「室伏さんご気分は大丈夫ですか」

「はい、大丈夫です」


 治療は順調に進んでいるかのように思えた。

 その後も血圧低下のアラームが幾度となく鳴り響く。

「先生、間もなく輸血が終わります。次の輸血どうしますか」

「追加して全開で」

「はい、わかりました」


 救急外来の診察の合間をぬって、外科医が様子を見にやってきた。

「今どんなですか?」

「塞栓できた部位もありますが、出血部位がいくつかあって・・・・・・」


 とその時。

「んっ、う、う、うっ・・・・・・お腹が痛い・・・・・・」

 患者が疼痛を訴え始めた。

 口頭指示にて痛み止めの点滴指示が出たため葵はすぐさま対応した。




「寒い・・・・・・何だか急に寒くなってきた・・・・・・」


 葵は胸騒ぎを覚えた。


 バイタルは先程と大きく変わらないが、指先に装着したサチュレーションが測定不可となり患者のチアノーゼが先程にも増している。


 ――ショック状態!?


「先生!患者さんの様子がおかしいです。バイタルは大きく変動はありませんが、口唇のチアノーゼが増し、サットが測れません!」

「寒い、寒い・・・・・・ああ、ここは何処だ。家に帰らなくては・・・・・・」


 突如、患者は身体をプルプルと震わせ、治療中だというのに起き上がろうとする。


「先生!不穏状態に陥っています!」

 葵は慌てて患者が落ちないように押さえ込みながら声を張り上げた。


「死にたくない・・・・・・嫌だ・・・・・・死にたくない・・・・・・」

 放射線技師も駆けつけ一緒に患者を支えた。


 悪いことは重なるものだ。

 突如、心室細動(心静止の前に出る波形)のアラームが鳴り響いた。


 その瞬間、葵の心拍は一気に跳ね上がった。


「ここは俺が対応するから応援を呼べ!」

 外科医が心臓マッサージを開始する。

 葵はスタットコール(緊急コール=コードブルーともいう)を急いだ。

 緊張に受話器を持つ手が震え出し、番号を上手く押すことができない。


 その後、外科医の指示にてアドレナリンシリンジ1筒I.V.(静脈注射)した。

 応援が来るまで外科医と交代し心臓マッサージを行う。時間にしてほんの数分。

 だが、応援が来るまでとても長く感じた。


 ――動け!動け!動け!・・・・・・

 一心不乱に患者の前胸部を圧迫する葵。

 止まりゆく患者の心臓の鼓動と激しさを増していく葵の鼓動。


『看護師さん、俺、死にませんよね・・・・・・まだ死ぬわけにはいかないんだ。もうすぐ子供が生まれるんです』


 患者の言葉が葵の頭の中をループする。


『死にたくない・・・・・・嫌だ・・・・・・死にたくない・・・・・・』


 右肋骨を骨折している患者の心臓マッサージ。

 圧迫する度に折れた肋骨が転位し、グジュリとした気持ち悪い感触が手に伝わってくる。


 間もなく、スタットコールに応じた院内の医師たちが大勢駆けつけた。

「東雲さん!どうした!?」

 当直内科医桐生もその中にいた。


 一目で状況を把握した桐生は、葵に挿管準備の指示を出す。

 麻酔薬にて患者を眠らせてから、挿管チューブを挿入し気道確保する。


 思いは通じたのか、患者の心臓の波形が一時戻った。


 その場に居合わせた皆が患者を救いたかった。

 応援医師たちのおかげで治療に集中できる放射線科医師。


 だが、再び患者の容体は悪化する。


「脈、39!血圧・・・・・・測れません!」

「ポンピング開始!10のシリンジと三活よこせ!」

「ボルベン頂戴!」

「まだか!早くしろ!」

「こっちにサーフロー頂戴!」

「輸血が足りなーい!急いで!」


 患者を取り囲む医師たちから、まるで一斉射撃を開始した銃撃戦の弾丸の如く指示が飛び交う。


 ――ここは戦場・・・・・・命をかけた戦い・・・・・・


 押し寄せる緊張の波と重圧――

 葵は大きな深呼吸をまたひとつする。


 あの手この手を尽くし全力で患者を救う医師たち。

 それに応える葵も必死に立ち向かう。




「血圧90/59、脈88、サチュレーション99%、波形サイナス(正常なリズム)です!」


「止血終了」

 放射線科医師堂本が安堵の表情を浮かべた。


「おお~!」

 医師たちから、安堵の声が沸き上がる。

 

 ――患者の命を繋ぎ止めることができて本当によかった・・・・・・

 張りつめた緊張感から解放され、それまで全身に込められていた力が一気に抜けたとたん、葵は脱力しよろめいた。


 その瞬間、背後から両手で抱き留められた。

「大丈夫か?」

「あっ、桐生先生・・・・・・そそっかしくてすみません」

 心配な面持ちで葵の顔を覗き見る桐生。


「大変な中、よく頑張ったな・・・・・・」

 思いも寄らぬ労いの言葉と優しい声音が突如降ってきた。

 重くのしかかったプレッシャーから心解き放たれた瞬間だった。


 どんなに辛く大変でも、それをやりこなす事が当たり前とされる看護師業務。

 頑張って当たり前。できて当然。できなければただの役立たず。仕事のできない人と評価されてしまう厳しい世界。

 葵はこれまでコツコツと地道に努力し頑張ってきたけれど、その頑張りを褒められたことも、認めてもらったことすら一度もなかった。


 桐生は葵の心にスッと入り込み、本人すら気づいていない心の声にいつだって応えてくれる。

 それはいつだって唐突で。信じられないくらい優しくて。


 そんな桐生の言葉に葵は、せきを切ったように泣き出した。


「おい、おい・・・・・・今、俺そんな酷いこと言ったか?」

 珍しく狼狽える桐生。


「はい・・・・・・桐生先生は、意地悪です・・・・・・」

「えええ~!?なんだって?」


 葵は、ポロポロと零れ出る涙を拭いながら天を仰いだ。

 桐生はそんな葵をあたたかな眼差しで見守った。


 今宵の夜勤はまだ始まったばかり・・・・・・

 外来では次から次へと搬送されてくる患者たちが葵を待っていた。 

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