1話


 ルチアーナはもともとこの街の生まれではない。少し遠くにある、小さな城に住む本物のお嬢様だった。まるで、というより、貴族そのものであったのだろう。そこの一人娘としてまさしく蝶よ花よと愛でられて暮らしてきたらしい。

 生まれてこのかた城から出たこともなく、両親と使用人に囲まれて生きてきた。彼女の世間知らずぶりも、彼女がたまに話してくれる城での暮らしを聞くとさもありなん、という感じである。




 彼女の生活が変わったのはほんの一ヶ月ほど前のことだ。詳しくは教えてもらえなかったけれど、お金目当ての賊に襲われ、城は荒らされ、使用人は逃げ出し、彼女の両親は殺されてしまった。

 彼女がどうやってここへたどり着いたのかは知らない。けれど、きっと想像もできないほどの大変な思いをしてきたはずだ。わたしなんかでは考えられないように辛い気持ちだったはずだ。……それなのに、そのはずなのに。


「ミス・ルチアーナ、貴方はほんとにモノを知らないね」

「ええ。だからわたしにもっといろんなことを教えてね」


 今や慈愛とともに向けられるその言葉に、彼女はいつものようにたおやかにそう答える。皮肉でもなく、本心から、天使じみた微笑みでそう返す。

 辛いはずだ。苦しいはずだ。怖いはずだ。──それなのに、ああして天使でいられる彼女のことが、わたしには理解ができなかった。






 ルチアーナの朝は早い。ついでに言うならわたしの朝もだ。わたしの家はこの街で一番大きな宿屋を営んでおり、ルチアーナもまたここに住み込みで働いている。朝から一日の準備を始め、夜まであくせくと働き続ける。それがわたしたちの日常だった。


 わたしは家の手伝いで、ルチアーナは住み込みのための条件として宿屋の業務を行なっている。わたし達の役割は水仕事に始まり水仕事に終わると言ってもいい。冬の朝早くから、洗濯、掃除、食器の片付けなどでひっきりなしに水に触れている。


「ルチアーナ、4号室のシーツ持ってきて」

「はあい」


 経験の浅い彼女に指示を出すのはわたしの役目だ。物心ついた頃から仕事を手伝わされていたわたしが、先輩として彼女に作業を教えている。ルチアーナは慣れない環境のなか従順に従う。その代わり住む場所と食事、賃金も出ているのだから当然のことではある。


 でも彼女は辛そうな顔ひとつしない。わたしの指示を聞く彼女は、楽しそうですらある。なんだか無性に気に食わなくなり、ニコニコしている彼女に言ったことがある。


「ルチアーナ、あんたってマゾよね」

「? マゾってなあに?」


 当たり前だ。墓穴を掘ってしまった。ルチアーナがこんな言葉知っているわけがなかった。その後、彼女の好奇心を突いた代償の質問責めを交わさなくてはいけなくなり、非常に苦労した。


 閑話休題。


 そうしてわたし達は昼まで仕事をした後、ようやく仕事から解放される。ここからは服を着替え、二人揃ってとある場所に向かう。この街に唯一ある学校だ。18歳になるまではこの学校へ通うのが街の決まりであり、14歳のわたしとルチアーナも朝の仕事を終えた後に家から通っている。ただこの街ではどこの家の子供も家の手伝いがあるので、それに合わせて朝ではなく昼から通えるようになっている。


 大きな学校ではないので決して深い学問が修められるわけではないが、わたしはこの場所をこよなく愛していた。外とのつながりをかすかに感じられる大事な瞬間だからだ。特に歴史を学ぶことや、社会の仕組みを知ることはたまらなく楽しかった。


「アンナ、今日は歴史の授業があるわね」


 学校へ歩いて向かう途中、ルチアーナが嬉しそうに話しかけてくる。彼女も学校がとても好きなのだ。好奇心旺盛な彼女にとって、知らないことを幅広く教えてくれる貴重な場所だからだろう。彼女もまた、特に歴史を学ぶことが好きらしい。


「楽しみにするのはいいけど、歴史の前にあんたはもう少し学ぶべきことが多そうね?」

「あら、そうかしら。わたしも随分いろんなことを覚えてきたつもりよ」


 意地悪を言うわたしに、ルチアーナは言い返してくる。


「ちゃんと勉強しているもの、わたし。知らないことを知るのって、こんなに楽しいことなのね」

「ふぅん、ならいいけど。それならもう亀の上に大陸が載っているなんて言わないでね?」

「……アンナって意地悪だわ!」


 ルチアーナは一瞬で顔を赤らめた。彼女は以前の授業の際、『大陸は大きな亀の上に乗っている』という、絵本から得た知識を披露したことがあったのだ。

 彼女の知識はそういった、絵本や小説といったフィクションから得られているものが多い。その割には良いとこのお嬢様らしくテーブルマナーや言葉遣いは完璧で、非常にアンバランスだ。

 ただ、確かに彼女はどんどん新しい知識を吸収していて、自分の中にある常識が、ひょっとしたら正しくないのかもしれないと気づくことができるようになっていた。そうやって、彼女はどんどん"普通"になっていく。


「アンナ、怖い顔」


 ルチアーナはくすくす笑う。こちらの考えていることなど気にもせずいつも穏やかな彼女に、肩の力が抜けてしまう。


「……あんたがまた変なこと言った時にどうやって誤魔化すか考えてたの」

「やっぱり意地悪」


 そう言いながらも彼女は楽しそうだ。きっと楽しいのだろう。ルチアーナは生まれたてとなんら変わらない。こうして軽口を叩くことさえ彼女にとっては新鮮なのだろう。


 だからなのだろうか。わたしはそれを聞かずにはいられなかった。


「ねえ、ルチアーナ」


突然立ち止まったわたしの数歩先へ行ったルチアーナが、不思議そうな顔をして振り返る。


「あんた、辛くないの?」


 聞いた。


 聞いてしまった。誰もが口にはしなかった問いが、わたしの口からするりとこぼれ出た。言って、目を下に向ける。ルチアーナの顔を見るのが怖かった。どんな顔をしているのか、知りたくなかった。


 ルチアーナは答えない。沈黙がわたしの肩に重くのしかかる。聞かなければ良かったと、わたしの胸の中に後悔が広がり始めた時、ルチアーナの声がした。


「──アンナは、どう思う?」


 いつも通りの声で、優しげに聞く声。それなのにわたしはまるで父親に厳しく問い詰められているかのような気持ちになった。


「そ、そんなの──わからない」


 下を向いたまま、わたしはなんとか声を出す。わたしはルチアーナに何と言ってほしいのだろう。どんな答えを、期待しているのだろう。

 どちらもなにも言わず、周りの音も遠くで聞こえるような気がする。今のは忘れてと口にしようとした瞬間、クスクスと場違いな笑い声が聞こえた。咄嗟にわたしは顔をあげて、ルチアーナを見る。


 目眩が、した。


「アンナにも知らないことがあるのね」


 そう言って、彼女は──天使のように微笑んでいた

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