ミス・ルチアーナはモノを知らない

帯屋さつき

Opening

 ミス・ルチアーナはモノを知らない。彼女はいわゆる世間知らずであり、その突飛な発言で周りを困惑させたことは一度や二度ではない。


 リンゴのことは知っている。甘くてさわやかな果物だと認識している。でもそれが木に生り、赤い果実であることは知らない。それもそのはず。かつての彼女にとってリンゴはすべて調理されたもので、それがどんなものか、どのようにしてテーブルに並べられているかなんてことは与り知るところではなかったからだ。


「ミス・ルチアーナ、貴方はほんとにモノを知らないね」


 人々からそんな言葉を呆れや嘲りとともに投げかけられても、彼女は透き通るような笑みを浮かべて言うのだ。


「そうよ。だから毎日新しいことを知れるのがとっても楽しいわ」


 そんなことを嫌味なく言うものだから、周りはいつしか彼女を嘲ることをやめた。そのうち率先して色々なことを教えたがり、ルチアーナも喜んでそれを受け入れた。純粋無垢で、ひときわ目を引く美しさの彼女のことを、天使と呼ぶ人もいるくらいだ。この世にはいるのだ。何もなくとも人を魅力する力を持つ者が。きっと彼女はそうなのだ。


 わたしの生まれ住むこの街は、何もない街だ。山間の街道に沿って店や宿が立ち並び、そこを通る旅人や商人が主な商売相手。わたしはこの街が嫌いだった。いつかもっと大きな街へ出て、もっといろんな世界を見たいと思っている。



 街を通り過ぎていく旅人が残していった冒険譚は、そんなわたしの気持ちを逸らせた。いずれ自分も、と思いながら、まだどうすることもできない自分に歯がゆい思いを募らせた。いつか、いつかと、日に日に思いばかりが大きくなっていった。





「アンナ、それってとっても素敵だわ!」


 きっかけは些細なことだったと思う。ルチアーナと話しているうちにふと自分の思いを吐露してしまったのだ。内心、しまったと思った。人に吹聴するような話ではない。自分だけが知っていて、自分だけがいつかこっそり出て行けば良いと思っていた。

 ルチアーナには思いがけなく本心を話してしまう。彼女の透き通る両の瞳で見つめられると、隠し事や嘘が吐けなくなる。


 わたしが一人隠していた夢を聞いたルチアーナは、瞳を輝かせてはしゃいでいた。すごいすごいと、臆面もなく真正面から褒められて、わたしは気恥ずかしさを感じてしまう。


「あなたならきっとできるわ、アンナ。その時はわたしも連れていってちょうだいね」


 一人で隠していた夢が、数秒のうちに二人のものになってしまった。


 ミス・ルチアーナ。モノを知らず、天使と呼ばれる美しい少女。

 わたしはそんな彼女が、──少し苦手だ。

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