Case.1 涙した客

File.1

 時候ではようやく秋に差し掛かったが、夏の尾を引く暑さが花火の残り香のように体にまとわりついてくる。

毒島ぶすじま君、ホットコーヒーを」

 クロスワードパズルに目を落としたまま毒島に一瞥もせずドリンクのオーダーをかましたのはここの所長兼テナントオーナーの不動国光。これが彼の定番スタイルだった。

きっちり詰められた襟とポマードで固められた濡れ羽黒の頭髪。四つ掛けのブリティッシュベストからは色映えしたネクタイがアクセントとして覗いている。

「アイスコーヒーじゃなくていいんですか」

 不動の注文に対して驚いた様子もなく毒島は訊ねた。なんなら冷蔵庫に水出しの紅茶も用意してある。

 対する毒島はベージュのスラックスに糊の取れかけた半袖ワイシャツ。それと桃色のサマーニットだ。毒島のお気に入りである。着古しているので程よくクタクタになって体によくなじむ。ニットも柔らかく毛羽立っていて、毒島の丸いおなかを包んでいるせいで本当の桃のようだった。

 一応彼なりにこの事務所の雰囲気を崩さないように配慮した装いだ。

 するとようやく視線をよこした不動と目が合った。瞳の色からやれやれと言いたげな様子だ。

「毒島君、今の時刻は」

「もう十八時を過ぎてます」

「昼間ならまだしももう日が暮れる。つまり気温が下がるということだ」

「はあ」

「残暑が厳しいとはいえ今は秋。今夜は冷え込むらしい」

 クロスワードを解きながら、さっきのニュースを聞いていたらしい。

 合点がいった毒島はなるほどとうなずいた。

「ああ、さっきお天気お姉さんが言っていましたね」

 しかし毒島はわかっていた。単純に彼の好みなのだ。キンキンにクーラーの効いた部屋でホットコーヒーを飲んでいたりする。

 そんな回りくどい言い方なんてしなくてもいいのに、と思いながら頭の片隅でいつも一言多いんだよなあと独り言ちた。

 そのとき、事務所のインターホンが鳴った。

 すみません、と事務所の扉を開けたのはこのビルの一階で美容室をしている愛島早苗だった。家賃やもろもろの経費は口座引き落としなので金銭を支払いに来たわけではない。となると設備の不具合か何かの相談だろうと毒島は付けていたテレビを消した。ちょうど高速道の工事による規制を知らせるコマーシャルが映っていた。


 不動と対面した愛島は落ち着いた様子でコーヒーを口にした。どうやら今日の予約はすべてけたらしく、閉店準備のみ残してやってきたらしい。

「それで、相談というのは」

「相談……ということのほどではないのかもしれないんですが」

「はあ」

 愛島は困惑した様子で不動に視線をよこした。対岸の不動は「何が言いたいんだ」とでも言いたげな表情をしている。毒島は肝が冷えた。

 愛島早苗は腕のいい美容師として高い評価を得ている。予約サイトや店のレビューを見ても悪評はほとんど見かけない。なんでも指定通りにヘアスタイルをまとめてくれるらしく、こだわりが強い顧客の心をつかんで離さないらしい。


 愛島は少し視線を落とすと指を組んでから話し出した。

「実はクレームが来るかもしれなくて」

「それはあなたのお店の話でしょう。僕はテナントオーナーですがお店のオーナーはあなたです」

 毒島は胃が痛んだ。困っている相手の息の根を止めにいっているのかと思うほどだ。実に容赦がない。気が弱い毒島には耐えられそうもない。

 しかし、愛島は特に気にした様子もなく言葉を続ける。

「ええ、おっしゃる通りなんですが……、どうもお客様の様子がおかしくて、腑に落ちないんです」

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