アビサス・アビサム・インヴォケート/5



 醒めぬ夢の狭間に潜り込んだ糸が都市の人々を絡め取っている。それを因果と呼ぶのかそれとも操り人形と呼ぶのかは誰にも分からない。ベイル自身、その糸から逃れられているとは思ってなどいない。

 だが例え自分の行動が糸に操られたモノだとしてもこの糸を手繰る事だけだと定めていた。


「この様子じゃスェズ運送は壊滅か。血管街の区画一つ潰すほど大きな事件が起きるなんてな」

 大きく崩壊した一〇二番街の周辺には一〇三番街から来た住人達が野次馬としての人垣を形成しており、隙間から見えるのはアノヤ協会の請負人達が騒々しく行き交い隔離プロトコルの実行に奔走している姿だ。更にその奥の方には巨大な十字架の様な物が見えたが、今は気に掛けていられる程の余裕はベイルには無い。

協会あいつらに見つかるのは面倒だな」

 ベイルは早々にその場から離れる事にして、依頼主の元へと向かった。目的地は一〇五番街だ。本来であれば一〇二番街を通り抜けていければ楽だったが、一〇二番街が封鎖されている状況では遠回りをするしかない。ルートとしては今いる一〇三から一〇六を経由して半時計周りに一〇五番街へと向かう。多少時間は掛かるがが使えない以上面倒でもそうするしかないのが現状である。

「ムルムルのババァがまたキレるな……」

 頭を掻いて俯きがちに歩いていると急にどんと肩がぶつかってベイルは顔を持ち上げた。

「おっと悪いな」

 見るからに呑気そうなぼさぼさな白髪頭にもみあげまで繋がった白髭をたくわえている男が眉を上げて気軽そうに謝罪を口にする。濃緑のダッフルコートに黒のスラックス、革靴はだいぶ年季が入っている様に見える。年齢は四十あたりだろうか。年齢の割にかなりがっちりとした体型をしている上に、コートの内側に包帯か何かでぐるぐる巻きにされた刀の柄の様な物が見える事から恐らくはどこかの請負人だろうとベイルは察した。

「俺の方こそ」

 それだけ告げて白髭男の横を通り過ぎる。都市で他人と関わり過ぎていいためしは無い。なんにせよ自らの気が抜けていたのは間違いないだろう。普段のベイルであれば視認していなくともアレくらいは簡単に避けれたのだから。


 

 ◇



 ネオン光に満ちた一〇六番街を通り抜けて伝統的な雰囲気の残る石畳の道に出れば一〇五番街に着いたという証拠だ。基本的に貧乏人の多い血管街でも一〇五番街は比較的金持ちの多い地区だと認識されている。それなりに名の通った工房や取次所が構えられている事で人も金も集まりやすいのだろう。

 表の道から少し外れた路地裏へと入ると袋地に建てられた四階建てのビルがある。それがムルムル工房だった。

 両開きの木製の扉を押し開けがらんがらん、と古くさい鐘の音が来客を知らせる仕掛けだ。

「戻ったぞ〜」

「遅ぇんだよクソガキぃ!」

 入るなり工房の奥の方から怒鳴る声が響く。更に更に何故か金槌までもが飛んで来ていた。真っ直ぐ頭蓋へと飛来した金槌の柄を掴んで姿の見えない工房の主人へとベイルは苦言を返す。

「おいハンマーはやめろよ!」

「そんなもんも簡単に止められない請負人なんざ死んだ方がマシだろ」

 なんてババァだ、と思いつつベイルは工房の奥へと向かう。態度はどうあれ相手はクライアントだ報告はしなければならない。

 試作品の山の向こうから聞こえるガチャガチャとした音を頼りに鉄屑を踏みつけベイルはようやくムルムルのもとへと辿り着いた。

 そこには油汚れのついた白シャツに淡い紫のスカートの上から薄汚れた白衣を羽織った金髪の幼い少女が得体の知れない機械の前で胡座をかいて座っていた。彼女こそがムルムル本人であり、見た目からは想像出来ないが彼女の実際の年齢は六十を超えている。

「そんなガラクタに囲まれたところからよくあんな正確にハンマー投げられたな?」

「あたし専用の特別製だからな。はやくソレを返せ!」

 ぎゃんぎゃんと喚き声を上げ、手に持っていたハンマーをがっと奪い取るとムルムルは再び機械へと向き直ると低い声音で不機嫌そうに言葉を続ける。

「その様子じゃいい報告はなさそうだね」

「そうだな。あんたの依頼にあった様な人間はいなかった」

「あの子は特別だ。死んではいないだろうけど……嫌な予感がするよ」

 ムルムルが胡座のまま俯き呟く。その中にあった言葉の一つに違和感を覚えベイルは聞き返す。

「特別?」

 都市で特別な存在などいない。誰もが与り知らぬところで都市に張り巡らされた糸に絡め取られている。特別なんて言葉は──この街じゃ忘れ去られた言葉だ。

「どうせお前の事だ、あたしの事を思い上がった老害だとでも思ってるんだろう? でもそうじゃない」

「は? どういう意味だよ」

 ムルムルのあえて核心から逸らした様な言動に苛立ちを覚えつつもベイルは彼女の言葉の続きに耳を傾けた。

「【エルゴスムの遺産】はお前も知ってるだろう? もう二十年以上も前の事さヤツはずっと待っていたのさ、もう一つの可能性……それこそ世界を変えてしまう様な何かを」

「……何かってのはなんだ?」

「そこはあたしも聞いただけだから最初はホラ話にしか思っていなかったよ────あの子に会うまでは」

 あの子とは、恐らく依頼にあった人物の事だろうと察する。今まで都市の外で暮らしていたそうだ。先日この都市へとやって来たという少女らしいがそこに何ら特別性は感じられない。

「【コギト】、エルゴスムが言うにはそれは一種の生物らしい。閉ざされた空の向こう側の更に向こうの暗黒に住まう小さな生物、それと呼応した人間は限界を超えた力に目覚めるそうだよ。お前にも覚えがあるだろう?」

 言われ、ベイルは自らの内に芽生えた黒い萌し──己自身の自我理想の鎖アライメント・エイドスを想起する。

「エルゴスムは“精霊”なんて呼び方をしていたけれどあたしにはそんな綺麗なモノには思えなかったけどね……とにかくあの子にもお前と同じ様な力がある。なんとしてもあたしの庇護下に入れておきたい」

「……分かった。俺の方でもう少し探してみようと思う。どうせ俺の目的を果たすにはしばらく時間が掛かるからな」

「そこは頼んだよ」

「ところでそいつの名前は?」

 見た目や特徴は聞いていたが肝心の名前を聞いていなかったと思い出す。


「そう言えば言ってなかったね。恐らくあの子はシイナ・アドラーと名乗っているだろうけど、本当の名前は【シイナ・ゼラー】。エルゴスムの本当の娘さ」

 


 

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