アビサス・アビサム・インヴォケート/4



「う、うぅん……」

 湿った空気に蒸せ返る様なカビの臭いが充ちる部屋でシイナは目を覚ました。

「ここは……?」

 辺りは煉瓦の壁に囲まれた狭い空間で、薄暗く視界が悪い。霞んでいた視界が徐々に焦点を取り戻したところでシイナは自分が檻の中にいるという事に気付いた。

「でも、いつ……?」

 なんとか記憶を呼び起こそうとしてシイナはさっき出会った二人組の事を思い出した。紺色のコートに銀色のバッジ、一人は人間を引き摺っていた。思えば異様な二人組だ。

 きっと、私はあの二人に捕まったんだ。そう考えたシイナが逃げ出そうと体を起こした瞬間、足首に痛みを覚えてそちらに視線を向けると、じゃらじゃらと擦れ合う金属の音が鳴る。シイナの希望は容易く打ち砕かれる事となった。

「鎖……まぁそうだよね」

 はぁ、と溜息を吐いてシイナは壁に寄り掛かるとじんわりと湿る不快な感触が背中に伝わるのも気にせずにそのまま天井を見上げた。ここがどこなのかすら分からなかったが、恐らくここで死ぬのだろうという予感だけはあった。

「起きたみたいだね」

「──!?」

 がしゃりと鎖が擦り合う音を立ててシイナは鉄格子の向こうに立つ男の登場に驚いた。

 濃紺のコートに襟元の銀バッジ。やはり笑顔を湛えてシイナを見ていた。

「あの……! どうして私は攫われたんですか!?」

「それが知りたいのかい?」

 笑顔だが言葉に圧がある。余計な質問はするなという事だろうか、とシイナは息を呑む。だがそうだとしてもこれから辿る道を知らずにはいられなかった。それは知識欲かあるいはささくれだった罪悪感に似た感情がシイナの内には芽生えていた。

「知っているかな? 人の記憶は感情と密接な関係にあるって。例えば喜びの記憶、悲しみの記憶、怒りの記憶……みたいな感じでジャンル分けされてるんだよ」

「……?」

「よく分かってないって顔だね。まぁ分からなくてもいいけど。無知なままの方が都合がいいしね」

 がちゃりと鉄格子が開かれ男が中へと入って来る。そして目の前に立った男がすっと拳を振り上げるのが見え────

「えっ……?」

 ぎょっと目を見開くのと同時、その拳がシイナの腹部を打った。内蔵が押し潰されて胃液が逆流する感覚があって嘔吐しかけた所を男の手で思い切り押さえつけられる。口内に微弱な痺れが広がり、酸っぱさが充す。

「んぐぶッ……!?」

「吐くなよ? 掃除が面倒だからな」

 にこりと微笑んで男はシイナの腹部に膝を押し付け内蔵を押し潰す様に動かす。

「んふーッ……ぐぅぅぅう……!」

 ごりゅごりゅと嫌な感触をシイナは目に涙を貯めて耐えようとするが、男の手が口から外されると同時に押さえ込まれていた吐瀉物が溢れ出した。

「んぐぇ……! ぶぇっ! う、ふぅ……!」

「あーあー。汚ったないなぁ」

「あ、ごえんなさ──」

 朗らかな声音と裏腹に男自身から滲み出している狂気。今の一瞬で相手がまともな人間ではない事をシイナは理解する。恐怖と痛みで麻痺した思考で男に対して取り繕おうとするがそれすら男は許さなかった。

「喋るな」

「あぐッッ!!」

 ごすっ。革靴の固い感触が鳩尾を打つ痛みにシイナは呼吸がままならなくなり、汚れた地面の上に倒れ込む。

「ははは、自分のゲロの上に倒れたのか?」

 男が笑っている。

 痛い。痛い。きっと肋骨の何本かは折れている。お腹も痛い。きっと内蔵が傷付いている。怖い。怖い。なんでこの人は笑っているだろう。

 一瞬にしてシイナの思考は恐怖に染め上げられてしまっていた。

「もう泣いてるのかい?」

「うぅ! うぅぅ!」

「何言ってるのかわかんないな」

 男がにこりと笑うのを見て、シイナの脳裏に今さっき味わった苦痛が過ぎり、それ以上声を発する事が出来なかった。

「物分かりがいいなぁ。でもそんな風にいい子ちゃんだと余計に可愛がってあげたくなるよな?」

 寒気がした。血の気が引くと言うのはこう言うことかと思い知る。

 直後、視界が一瞬暗くなり気付くと頬が酷く熱くなっていた。口の中に鉄の味が広がり遅れて鈍い痛みが波紋の様に広がる。左の視界がやけに狭い。

 数分を要してようやく自身が殴られたのだとシイナは理解するが、現実感だけがやたら遠く別世界の出来事を眺めているかの様に他人の事に感じられていた。

「まぁ初日はこんなものかな」

 つまらなそうに呟き手袋に付いた血を拭って男はシイナに背を向けて檻から出ていく。

「明日からは色々道具も使っていくからね。ちなみに傷は一日寝れば全快するよ、そういう風に君の体を弄っておいたから。痛みってのは神経が生きてるからこそ感じるものだしね」

 そう言い残し男はシイナの前から姿を消した。コツコツと靴音が遠ざかっていき、シイナの思考は戻ってきた。

 鈍い痛みの中に意識を漂わせながら男の言葉を何度も反芻している内に遠かった現実感が肥大化してシイナの思考に去来した。

 明日からも苦痛は続くのだと理解すると嗚咽が止まらなかった。

 シイナを嬲った男にとっては小手調べ程度だったのだろうが、先刻の苦痛だけでもまだ十五になったばかりの少女の心を押し潰すには充分過ぎた。


 ──三日後。


「はは、昨日あれだけ電流を流したのにすっかり元通りになってるね。黒焦げになった後しばらく動かなかったから本当に死んだのかと思ってたけど流石だね」

 男にそう言われたがそんな記憶は無かった。きっと電気で神経が一度全て焼き切れたからだろう。

 

 更に二日後。


「血管に極小の針を入れて心臓を突き破られた感触はどうだった?」

 熱くて寒かった。痛みが体中を駆け巡って全身が沸騰しそうな熱の後、酷く寒くなってただただ気持ち悪かった。


 更に一日後。


「もうすぐ一週間になるのか、今日は簡単なのにしようかな。色んな薬品持ってきたから順番に注射したら面白そうじゃない?」

 気付いた時には椅子に拘束された状態だった。目の前の男は相変わらずの笑顔を湛えて傍には医療用の銀台とその上に数百本の試験管が並べ立てられている。そこにあるどれも体に入れてはならないような薬品なのだろうが、シイナには抗う術など無かった。

「さてどれから始めようかな」

 男が手に持った注射器にどの薬品を詰めようか悩んでいる。

「も、もうやめてください……殺してください……」

 死ねない体。終わらない苦痛。繰り返される悪夢。シイナの口から漏れ出た言葉は自然と死を願っていた。

 住んでいた街が崩壊し、都市まで辿り着いた事は幸福な事では無かったのだと自らの運命を呪っていた。生き延びる事はこの世界で苦痛を味わい続けるだけに過ぎないのだと。

「だめだよ」 

 無論、そんな願いを男が聞き入れるはずも無かった。

「どうして……死にたいのに、死ねないの……」

「最初の日に言った事覚えてるかな、記憶は感情と密接な関係にあるって。血管街にも芸術家は幾らかいるけど僕のはその中でも一際特別なんだよ────痛みの記憶、要するに君の悲鳴とか叫び声とか肉の焼ける音とか道具の金属音とか血の滴る音とか、そういうのをさ一つの音楽……いや音楽のその先を行く新しい表現としたいんだよ。ほらレコードとかあるだろ? ああ言う風に僕も都市とその生活を彩りたいんだよ」

 男は狂っていた。とうに分かりきっていた事だったがこの男はどうあっても自分を殺してはくれないだろう。そして注射器を得体の知れない液体が満たし──針がシイナの腕に当てがわれる。

「なんとなく適当に選んでみたからどんな薬か分かんないけど、いい悲鳴をお願いするよ?」

 針がシイナの腕へと刺さり、薬が注入され────。


 一日後。一日後。更に。一日。一日。更に。更に。更に。更に。一日が経過した。


 ここはどこだろう。私は誰だろう。

 何か酷く恐ろしい夢を見ていた気がする。

 ここは昔読んだ本の景色に似ている。

 そうだ、宇宙に似てるんだ。そう言えば、人の脳は宇宙に似てるらしい。

 じゃあここは私の頭の中なのかもしれない。

 そう考えていた矢先、声が聞こえた。

 耳からじゃない。頭の中全体に響く声だ。

 声は確かにシイナへと語りかけていたが声音は無く、陽射しの様な温かい光の中から言葉だけがあるみたいだった。


「……あなたは誰……?」


「違う、私は死にたいの……痛いのはもうイヤだ……」


「生きていてもこの苦痛の輪から抜け出せない。抜け出したところで新しい痛みがきっと私を捉えて離さないから……」


「あなたは私を殺してくれるの……?」


「なら、どうして……?」

 

「そう……苦痛から逃れられないなら……」


「でも……」


「……そうだね、私は生き延びてしまったからこんな苦痛の中にいる。死んでしまった人達はきっと幸福なのかもしれない……だとしても……私には……」


 一日後。


 檻は壊れていた。並べ立てられた数多の“苦痛”が男を貫き、骸を飾り立てている。その前で静かに立つ少女は紺色の髪を靡かせ、黒と青の装束に身を包み背には巨大な十字架を背負い、両の手にそれぞれ白一色の剣と黒一色の剣を握っている。

 少女の目は柔らかく閉じられているもののその目が開く事は無い。苦痛から目を閉ざしながら苦痛そのものに終止符を打つのが少女の新しい在り方だからだ。


 この日、一〇二番街から幾つもの苦痛が終わりを告げる。

 数百の命と共に。

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