アライメント・エイドス/3


 浮遊する塊がベイルを認識し追跡を開始した。遺跡が崩壊しかねない破壊の渦となってベイルの背へと迫る。その勢いたるや既に物理法則の内には無い。

 背後で瓦礫が砕かれる激しい音を聞きながらベイルは暗く狭い通路を猫の様に駆け抜けていく。道順は鮮明に記憶していたので足に迷いは無い、けれど倒れていた場所の様に崩壊していれば最悪出口が塞がれているという想定もある。

 ────なるほど絶望とはこう言う時に感じるものなのか。

 などと逃げながら思考している時点でベイルの内にはまだ余裕があり、加えて次に取る手段は既にベイルの手の平に握られていた。手榴弾だ。仮に出口が塞がれていたとして、これで吹き飛ばせば何も問題は無い。結果として遺跡が崩れ去る事になろうと、自身の命を天秤に掛けるならベイルは迷い無く自分の命を取る。すぐにその瞬間はやって来た。

 ベイルの視界の先には遺跡の入口があった。瓦礫に塞がれているという最悪の想定は外れたが、このまま行けば外にエイドスを放つ事になる。もしも外に発掘隊が控えていれば彼らはベイルごとエイドスを始末するだろう。こうなれば後は運に縋るしか無い────ベイルが出口へと向かって更に足を早めようとした時だった。

《レクゥィエスカト》

 ベイルの脳内に不気味な重低音が響く。洞穴の風鳴りにも似た深い暗闇から響く様な声音だ。この時、ベイルは一つ失念していた事を思い出していた。

 ────感応系。そうだ、この手のヤツはとりわけタチが悪い能力を持ってる。

 それを思い出すと同時、ベイルの視界の風景は見ていたはずの希望を絶望へと塗り替える。

 出口に見えていた場所は瓦礫の山に──まして出口に向かっていたと思っていた脚は最初の場所から一歩たりとも進んでいなかったが、ベイルの正面に浮遊する塊が佇んでいた。

「……まいったな」

 まず“いつからだ?”という疑問がベイルの中で先行する。ここで目覚めた瞬間はまだ何もなかった。声を聞いたのは動き始めてしばらくしてからだ。しかしそこで更なる疑問が浮かぶ。

 ────なら何故俺はこの目覚めた場所まで戻っている?

《レクゥィエスカト》

 ベイルの脳内に響く声が大きくなった。次第にそれは荒れ狂う風雨が如くベイルの思考にノイズを生じさせる。幾重にも重なって響く重低音、脳内に直接“情報”として注ぎ込まれる声はベイルの脳髄を焼きつけ痛みとなって襲いかかった。

「ぐ、ぁア……!」

 ────まずい。このままじゃ、思考が定まらない……!

 頭痛は酷く、立っているのもままならなくなり倒れ込むベイル。その頭上から脳内から延々と降り注ぎ響き続ける異形の声。

《レクゥィエスカト》《レクゥィエスカト》《レクゥィエスカト》《レクゥィエスカト》

 思考すら許さぬ“情報”が、ベイルの脳内を充す。

 ────だ、めだ、なにも、

レクゥィエスカト・イン・パーケ死者に安寧を

 浮遊する墓標エイドスが告げる。ベイルは既に身動き一つ取れず光の無い瞳で墓標の前に倒れ伏すのみ。

 思考を充すノイズにベイルの自我すらもが掻き消えようとしている。視界の中心が暗くなり、闇が広がっていく様を眺める事しか出来ない。さながら黒い海の中に沈んでいく様な感覚だろう。冷たくあれどこのまま溶けて無くなっていく事に安堵すら覚えてしまう様な。

 ベイルの視界が完全な闇に閉ざされた時、視界の隅に淡い燐光が漂っていた。

「思い出せなかったのね」

 呆れたと言わんばかりの声音が溜息と共に吐き出される。

「まさかこんな危機等級の低いエイドスにやられるなんて情けないにも程があるわよ」

 今度はあからさまに呆れた様子の声だった。

「今回だけ」

 怒った様な声。

 けれど何処か────ベイルが何かを感じ取ろうとした瞬間、頭の中のノイズが消え去り思考がクリアになった。同時にさっきまで感じていた感覚が遠くになっていく。何か忘れてはならないモノが消えてしまう様な寂寥感と共にベイルの手には先刻までは無かった刃渡り十四センチ程の短刀ダガーが残されていた。

「これは────」

 刃から柄までが漆黒の短刀を見つめ、ベイルは漸く一つ思い出した。

「そうだ……俺は」

 立ち上がり浮遊する墓標の怪物を見据える。曖昧だった自我が定まり、己が存在を固定し、自らの精神を自由に支配する。

 それは一種の“力”であった。

 精神具象体エイドスが荒ぶる精神の形相の獣であるならば、ベイルの手の平にある短刀は獣を使役する為の調整された精神の手綱であり自らのエゴそのものである。

自我理想の鎖アライメント・エイドス

 そう呟くと体内で“力”が循環するのをベイルは感じ、この瞬間から自らが目の前の怪物と同等の化物になったのだと理解する。見た目には何一つ変わりはしないが、ベイルと相対するエイドスもまた相手の雰囲気が変わった事を知覚してか“声”を発した。

レクゥィエスカト・イン・パーケ!死者に安寧を

レクゥィエスカト・イン・パーケ!死者に安寧を

レクゥィエスカト・イン・パーケ!死者に安寧を

 だが、その声は最早ベイルには届いていなかった。

「死ぬには騒がし過ぎると思わないか?」

 浮遊する墓標に対して狙いを定めているかの様にベイルは短刀で軽く宙を薙いで見せた。すると、刃など一寸たりとも触れていない浮遊する墓標の老人の彫刻に一筋の黒い線が奔った。

《レクぅィエすカと……い、ン……》

 墓標はその先の言葉を刻まず上下に分かたれると、ごごんという重く耳を打つ音を立てて崩れ落ちる。怪物から瓦礫の山の一つへと変わり果てた瞬間だった。

「……」

 ベイルは再び短刀を見つめ、思い出した記憶の一つを口にする。この遺跡の奥で倒れていた理由の一端を。

「────俺は、俺から全てを奪った奴らを許さない。この都市でクソったれな幕を開いた奴を必ず見つけ出して、この手で殺してやる」

 この日、深い遺跡の奥底で密やかに黒いきざしの火が灯った。

 

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