第5話 夏(3)
朝から大忙しだった。まず、六時台にたたき起こされる。
「掃除に手を貸せ」
お、おばあさん……
これじゃあ利用客じゃなくて住み込みバイトだな、と思いつつ、宿泊代をただにしてもらっている恩義もあるので文句を言わず手伝う。働きぶりに納得がいったのか、一時間もしないうちに解放された。
「よし、後はやっておくからもういいよ。あんたも頑張るね。この宿継がないかい?」
後半は冗談と受け取っておこう。
まだ動き出すには早すぎるし、二度寝でもしようか、それとも読書か何かで有意義に時間を過ごそうかと思案していると、襖の向こうからおじいさんがひょっこり顔を出して手招きする。
案の定、将棋のお誘いだったわけだ。
ルールは知っているものの、対戦経験は少ない。詰将棋はパズルのようで一時期はまっていたけれど、ほとんど一手詰めばかりだった。
そんな僕とおじいさんの対戦は、五分五分の状況へもつれこんだ。ということは、おじいさん、あんまり強くないんじゃあ……。
気温がどんどん上がり、蝉たちが鳴き出すころ、僕の「うわあ、参りました」という言葉で対戦は終わった。おじいさんは満足げである。断じて、ちょっと手加減したとか、そういうことはない。
将棋を終え、宿の朝食――これがまたご飯にみそ汁、焼き魚という最高のメニューなのだ――をとり、そうするともう約束の時間だ。ジュンと一緒に釣りをするという約束なのである。
ここ数日、暇さえあれば散歩して回ったこともあり、この辺りの地理もかなりつかめてきた。もちろん、ジュンの家も把握している。
訪ねていくと、歯磨き途中のタケシさんが顔を出した。
「ふがんな(すまんな)。ごえんちゅう、ふっひんだはら、ふんほほほひふは(午前中、出勤だから、ジュンをよろしくな)」
僕にとってはなんら問題ないが、教師というのは夏休み期間中もちょくちょく出勤せねばならないものらしい。それにしても、数日前にやって来たばかりの旅行者に、息子を預けて大丈夫なのだろうか。まあ、小さい村で、どこかに必ず人の目もある。よほどのことはないだろう、という考えなのかもしれない。
母さんの捜索も行き詰っていた。一緒に過ごした家はおろか、新たな記憶も見つけられていない現状だ。
「おはようございまーすっ」
麦わら帽姿のジュンが飛び出してきた。タケシさん曰く、僕の迎えを今か今かと待ち構えていたらしい。二人分の釣りざおを僕が抱え――僕の分もタケシさんが貸してくれたのだ――、野池に向かって歩き出す。ルアーの入ったウエストポーチがじゃらじゃらと音を立て、ワクワク感を掻き立てる。
そうして、僕は午前中いっぱいをジュンと釣りをして過ごした。釣果は、僕がブラックバス七匹、ジュンも四匹。ジュンは目を輝かせて喜んでいた。
バスのいる場所のレクチャーから始まり、池の端へアプローチする方法や、「ずる引き」の技術など、僕の知りうることはすべて伝授した。それらを彼が習得するたびに、ここの純朴なバスが食いつくわけである。釣りのトレーニングにはもってこいの池だ。
ちょうど正午に、タケシさんがジュンを迎えに来る。ジュンは飛びつかんばかりの勢いで、釣果や教わったことをまくし立て始めた。
「汗かいたろう。うちでシャワーも浴びてけ。昼飯も食ってけ」
有無を言わさず、シャワーをいただくことになった。キッチンでは、タケシさんの奥さんがネギを刻んでいる。「おしとやか」という言葉がぴったりの黒髪美人で、正直なところ、タケシさんとは真逆のタイプに見える。二人の間にどんな馴れ初めがあったのだろうかと気になる。
ジュンと交代でシャワーを浴びていると、ガラガラと戸が開いた。
「ねえ、旦那が買ったんだけど小さくて使えなかった下着があったから、ここに置いておくわね」
お、おおお、奥様!
返事もできず、前を隠そうと慌てふためく僕が面白かったのか、タケシさんの奥さんは「ハハハ」と大きな笑い声をもらした。
「遠慮せず使ってね、この下着」
「は、はいいっ」
彼女はまた「ハハハ」と言って戸を閉めた。何というか、やっぱりタケシさんの奥さんだ。
そのままタケシさん宅にて、そうめんをごちそうになり、そのまま縁側でスイカを食べる。タケシさんはこのタイミングで酒をあおり始め、いびきをかいて寝てしまった。
どうせなら夕食も、というタケシさんの奥さんのお誘いを、さすがに申し訳ないからと辞して、少し日が傾き始めた道を僕は改めて散歩に繰り出した。
怒涛の一日。少し疲れたが、充実していた。風が涼しい。
前方から人影が近づいてくる。黄昏と言われる時間帯、表情がよく見えない。
「すみません、民宿『なつみ』を探しているんですが」
「ああ、僕も旅行者で、『なつみ』に宿泊しているんです。よければ、一緒に行きますか?」
「本当ですか? 助かります」
若い男の声。案内をしようと横に並んだところで、まじまじとその顔を見た。
鋭い記憶のフラッシュバックが、僕の脳内を満たす。
相手も同じだったようで、僕の顔を指さしながら一瞬たじろいだ――それはちょっと失礼だぞ。
「あ、兄貴?」
相手の声が震えている。僕も同じはずだ。
「――光夫?」
「なんだ、知り合いかい? じゃあ宿泊代いらないよ!」
と吐き捨てる『なつみ』のおばあさんを説き伏せるのに時間がかかった。結局、僕と同じように、光夫は一週間無料(代わりに働く)、僕はそろそろ期限の一週間になるので、延長した分は通常どおり料金発生、ということで収まった。
「あんたの兄貴はよく働いたからね。あんたにも期待しているよ」
光夫は、よろしくお願いします、と頭を下げている。僕と同じ大学生だろうか、シャツに綿パンというスタイルで、パーマをかけた茶髪が長い。悔しいほどに爽やかだ。
おばあさんとおじいさんには、義理の兄弟――ちょっと複雑な家庭事情をにおわせながら――ということで話をした。明日には、村中に広まっている気がする。
僕の部屋に集い、夜通し光夫と話をする。
光夫も僕と同じく、おぼろげな記憶をたどって、ここへとやって来たらしい。僕が、母さんと過ごしたエピソードを話して聞かせるたびに、「ああ、そうだった」と膝を打った。彼の記憶も順調によみがえっているようだ。
「母さんは、今どこにいるんだろうな」
光夫がぼそりと言う。
「まだ家も見つけられてない」
「あの家は、たぶん『この世』じゃなかったんだろうな」
「でも、どこかに入口があるはずだ。まずはそれを見つけるところから――」
僕らはここにとどまりながら、母さんを探すのだ。
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