第3話 夏(2)
石畳の道を歩く。ここは路地裏で通行人が少ない。ちょうど居酒屋の裏手に当たり、ビールケースが山と積んである。その横で猫が腹ばいになっていた。
日差しは強いが湿度がそこまでではないので、日陰になったこの路地裏は涼しい。建物の隙間から見える晴天が、どこか別世界のもののように感じる。
やがて路地裏を抜けると、煙突が現れた。それほど大きなものではない。四角柱の前面にツタが絡んでいて、もう長い年月使われていないことが分かる。昔この辺り一帯が陶磁器で栄えていた、その名残らしい。
煙突の向こうに入道雲。ノスタルジーを掻き立てる風景だ。
『あんた、何してんの?』
彼女の声が聞こえた気がした。
おぼろげだった記憶が、一気に逆流を始める。
あの時も、僕はここにいた。たった七歳だった僕には、煙突が今よりもずっと大きく見えていた。その時に彼女はやって来た。
白いタンクトップに、ジーンズ生地のショートパンツ。およそこの村には似つかわしくない若い女性。
幼い僕は警戒した。長く伸びた足がどれだけ白くても、こちらを見つめてくる瞳がどれだけ透き通っていても、アブナイやつはいる。
僕が選んだのは、返事もせず逃げる、という選択肢だった。彼女から目を引きはがし、石畳の上を駆け始め、それはものの数秒で終わった――彼女が僕の襟首をつかんだのだ。
ひょい、という擬音が付きそうなほど軽々と、彼女は僕を持ち上げた。子ども心に、この人は普通じゃない――少なくとも若い娘とは思えない怪力をもっている――と思った。しげしげと見つめられ、吊り下げられた格好の僕はただぶらぶらと揺れているしかなかった。不思議と首元は苦しくなくて、暴れる気も起らない。
『いい面構えだね、気に入った』
それだけ言うと、彼女は僕を降ろした。
『うちにおいでよ。どうせ家に帰りたくないでしょ?』
派手なつけ爪を光らせて、僕の手足を指さす。隠しようもないいくつもの青痣。
確かに、僕は家に帰りたくなかった。どうせ僕には関係のないことで、殴られたり暴言を吐かれたり食事抜きになったりするのだ。今日は何度目かの家出で、知らない大人の後について電車へと潜り込んだ挙句、無人駅を見つけて「ここならば」と降車したのだ。切符を出さずに駅を出た僕のことを、とがめる人間は誰もいなかった。
それでも、僕は首を振った。それは警戒心というよりも、自分一人で生きていってやる、という幼いプライドのようなものだった。
『無理に決まってる。おりゃ』
彼女は俺を小脇に挟み込み、そのまま歩き始めた。
『おい、離せよ』
僕が最初に発したのは、そんな暴言だった。
『思ったよりかわいい声してるじゃん』
『う、うるせえ』
彼女は、僕の知らない小路をすいすいと進んでいく。
ここからの記憶はまた輪郭を失って、おぼろげな写真の束みたいになっている。
彼女に連れ込まれた狭い家――家というよりも掘立小屋と言った方が正しいかもしれない。ステンレスの風呂に放り込まれる僕。エプロン姿の彼女。食卓に並ぶ山菜――その山菜を摘んでくるのは僕の役目だった。けんかしたときに食らった説教。縁側のお月見。
僕はそれらから顔を上げ、再び煙突を見上げる。どのくらいここに立っていたのだろう。かぶりを振って歩き出す。
思ったとおり、僕の記憶は少しずつ活性化している。今まで忘れていたことまで、風景や音、匂いを手掛かりにして呼び戻される。
僕は彼女とここで暮らしていたのだ。
目の前に坂道が現れた。道の両脇には、壁代わりに壺が積み上げられている。不思議な風景だ。
重い荷物はすべて宿に置きっぱなしだから、今日の僕は身軽だ。坂道を躊躇なく上り始める。
『重いってぇ』
ふてくされた声が聞こえる――僕だ。
『何言ってんの。このくらい運べるようになれ、少年』
山菜でいっぱいになった籠を背負い、えっちらおっちらと歩を進める僕。その横に並んで歩く彼女。その頃には、僕の背は彼女に届きそうになっていた。
『あんたがこうやって山菜取ってくれるから、あたしたちは食べていけるんだよ』
『いつ俺が大黒柱になった』
『え、あたしの旦那さんになりたいってこと? きゃー、息子が何言ってんの』
『誰がそんなこと言ったよ』
彼女は出会ったときから何も変わっていなかった。しわの一本も増えず、いつまでも若々しいままだ。きっと、人間ではなかったのだと思う――これは比喩ではなく、本当に。
彼女といるときに、他の人間と出会うことはほぼなかった。だから、誰も僕らがここで暮らしていることなんて知らない。声を掛けられることも、誰かが家に尋ねてくることもない。
坂道を上り切ると、汗がにじんでいた。身軽とはいえ、やはり暑さには敵わない。
振り返ると、半ば透けるようにして、彼女と僕がゆっくりと歩く姿が見える。もちろん、僕の幻想だ。
「母さん」
つぶやいてみる。結局、僕は彼女に直接母さんと呼びかけたことが無かった。それを今更ながら後悔する。
僕にとって、血のつながった人たちは、家族ではなかった。殴打と怒鳴り声の記憶しかない。僕が「育ててもらった」と胸を張って言えるのは、彼女だけなのかもしれなかった。
記憶の中の彼女が、ちらりとこちらを見た気がした。気がしただけだけど。
散歩を続ける。
また煙突が出現する。最初のものよりも小さく、十本ほど。何十年も前に使われていた廃炉だ。煙突のもとには登り窯がずんぐりと建てられている。窯というよりも、巨大な倉庫のようだ。
思い出した。ここには幽霊が出るという噂があって、僕は――僕らは、母さんに内緒でそれを確かめに来たのだ。
『おい、びびってんのか』
『んなわけあるか』
二人の声。片方は僕だ。もう一人は――誰だ?
現在の僕が見ている風景に重なって、釣りざおを抱えた僕の姿が見える。年は高校生くらいだろうか。
そう、釣りの帰りに立ち寄ったのだ。
『だいぶ古いな。今にも崩れるんじゃないか』
僕は幽霊よりも建物の倒壊のことを気にしていた。それを、もう一人がなじる。
『臆病だな。中に入ってみようぜ』
『ばか言え。母さんが知ったらブチ切れる』
『いやいや、真夏の冒険だねぇ、の一言で終わりだ』
すったんもんだした挙句、引き返すことになった。
『兄貴は真面目だなぁ』というぼやき声。
――僕には弟がいたのだ。
もちろん血のつながらない弟だ。僕と同じように、母さんが拾った子どもだ。
あいつはどうしているんだろう。僕はなぜ、弟のことまで忘れていたのだろう。
登り窯は静まり返り、頭上の煙突から蝉の声が降り注いでいる。
どこをどう歩いたのか、僕の前には石段が広がっていた。もう何年も手入れがされていないのだろう、石段の隙間から草が飛び出している。その両脇は鬱蒼とした茂みになっていて、トンネルのように頭上をも覆っていた。嫌なところだ、と思う。
『あんたら、何の用だ』
威嚇する声。母さんの前に立った僕が吠えている。その横に立った弟が、目線で威嚇している。
僕らはとっくに母さんの背を追い越した。二人の後ろで、母さんは両腕で身体を抱くようにしている。
僕らの目の前、石段の中ほどに、三人の人間が立っている。一人は神主姿の男だ。ぞっとする冷たい眼をしている。その横に、巫女さんが二人。
『何の用だって聞いてんだ』
僕の裾を母さんがつまむ。震えた声で『あんたら、手出したらだめだよ。あいつらは本当にヤバいんだからね』とささやく。
『このまま引き下がれってんのかよ』
弟が小声で返す。
光が弾けた。僕と弟が崩れ落ちる。何をされたのか全く分からない。
現在の僕はどうすることもできない。苦痛のうめき声を上げている僕自身、そして弟を見下ろす。
『分かった! もうやめて!』
強い声が聞こえる。母さんだ。
『そっちに行くから、この子たちには手を出さないで』
母さん、行かないでくれ。
僕は――現在の僕は――手を伸ばす。当然だけれど、記憶に触れることはできない。僕の手は母さんの肩をすり抜ける。
『あんたら、今までありがとね』
精一杯虚勢を張った声が聞こえる。
『元の世界に帰るんだよ。いいね?』
そして、僕の目の前から、透き通った過去の映像が消失する。
そうだった。こうして僕は、彼女とも弟とも別れてしまったのだ。
それ以降のことは、鮮明に覚えている。気付くと僕は、彼女と出会った煙突の前に立っていた。それも、七歳の身体で。時間は一切経過していないことになっていたのだ。
僕は再び電車に潜り込み、家を目指した。
村を出た途端、記憶はおぼろげになり、学んだことにも経験したことにも霞が掛かってしまった――つまり、僕の頭の中は七歳のままだったということだ。それでも、ちゃんと残ったものだってある。
僕は降車した駅で、無賃乗車した旨を駅員に伝え、警察を呼んでもらう。やって来た女性警察官に、身体の痣を見せ、「家に帰りたくない」と訴えた。こうして、僕は家族から脱出することに成功した。
こうして記憶が戻りつつある今、はっきりと分かった。
僕はここへ、母さんを探しに戻ったのだ。
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