天壌霊柩 ~超高層のマヨヒガ~ 第24回
拓也は完全な呆然自失に陥っていた。
「………………」
思考がフリーズしていても、条件反射は生きている。目の前の、唯一記憶にある顔貌に反応し、無意識に口が動いた。
「江崎……」
「――そう、江崎君だね」
死骸の向こう側、ひときわ暗い陰の中で、人影が言った。
「彼を招いたのには理由がある。あのいじめ事件が
人影は枯れ枝のように痩せ細っているが、佐伯康成と同じ声をしていた。
「この写真をネットにばらまかれたくなかったら、俺の前で同じようにして見せろ――そんなメールを何度も送りつけていた。他人の悪事に、こっそり便乗しようとしたわけだ。ある意味、見え見えの不良より姑息で
江崎なら、やりそうな話だ――。
現実的な状況判断が、フリーズしていた思考回路を呼び覚ましたとたん、凄まじい腐臭と瘴気が、拓也の鼻腔から肺まで一気に流れこんだ。昼にタワービルで嗅いだ臭気など、物の数ではない。
拓也はぶちまけるように嘔吐した。
胃袋や腸まで吐き出しそうな吐瀉だった。
人間には理性だけでは
「おっと、すまない」
人影が両手で宙を払うような仕草をすると、拓也の気道から一瞬に瘴気が消えた。
「君を苦しめるつもりはなかったんだ。そもそも私自身、こんな出羽三山の即身仏みたいな姿で、君と長話はしたくなかった。しかし、うっかり気を逸らしてしまってね。今はこの程度の応急処置で我慢してくれ」
それでもすぐには嘔吐が止まらない拓也に、人影は続けて言った。
「賢い拓也君のことだから、もう気づいているだろう。君は、君の夢の中にいたんじゃない。さっきまで君が目にしていたのは、私の夢の中――できるものならそう在りたいと、私が望んでいる世界だ」
吐き尽くした拓也は、涙目と口元を拭って、ようやく顔を上げた。
先ほどよりも暗さに目が慣れ、なんとか相手の姿が窺える。
死んで何年たつのか、すっかり
「そして今、君が目にしているのが、紛れもない現実だよ――君の目にどう映ろうと、信じようと信じまいとね」
干からびた康成の隣には、妻の綾子が愛しげに寄り添っている。腐敗が佳境を迎えて膨張しきっているが、体表のあちこちに張りついた地味なワンピースのなごりから、拓也にも彼女だと判った。
娘の沙耶も、綾子の隣に座っている。母同様に変わり果て、顔の皮膚はほとんど残っていないが、側頭部に抜け残った長い髪から、母親よりは沙耶らしさを残しているように思えた。
そして麻田真弓は、ぐったりと背後の壁にもたれ、沙耶の肩に頬を預けている。目を閉じたまま微動だにせず、沙耶が肩をずらしたら、今にもくずおれてしまいそうだ。
まさか彼女も、江崎と同じように――。
身構える拓也に、康成が言った。
「大丈夫。真弓君には、眠ってもらっただけだよ。私たちの手で丁重にお連れしたから、怪我ひとつない。そこの江崎君だって、これほどの目に合わせるつもりはなかったんだが――」
康成は横手に顔を向けて、
「おい、君たち。江崎君は普通に玄関から案内してくれと、お願いしたじゃないか」
池川光史と犬木茉莉が、壁際の暗がりに立っていた。
今は二人とも青黒く変色し、皮膚が爛れ始めている。
二人の背後の壁に、金属製の非常梯子が見えるのは、おそらくそれを使って江崎を誘いに行ったのだろう。それに失敗して江崎が落ちたのなら――十八階から、あるいは展望階から――いずれにせよ生きてはいられない。
「まあ、君たちは経験が浅いから、今回は大目に見よう。次はどうか頑張ってくれよ」
池川と茉莉は黙って頭を下げた。
拓也は二人の表情に、先ほど座敷で大人しくしていた時よりも、生前の彼ららしさを感じた。中身が腐っている、といった皮肉ではない。弱者には横柄だが強者には媚びへつらう彼らの、後者を前にした卑屈さが窺えたのである。
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