天壌霊柩 ~超高層のマヨヒガ~ 第22回
板塀の先から漂ってくる
「今夜はトンカツでビールだな。明日の弁当の分も揚げてるはずだから、そっちは拓也君に御馳走しようか」
敷石が四つだけの庭の奥に、波ガラスの引き戸が二連。片側が開け放したままなのは、真夏だけに風を通しているのだろう。
玄関の表札には『佐伯康成 綾子 沙耶』とあった。
「ただいま」
父親の声に、すかさず「おかえりなさい」と、娘や母親の声が重なって返る。
その内の一つに、拓也は内心、やはりこうなるか、とうなずいた。麻田真弓が昼に履いていた、黒革のローファーである。
他に並んでいる二足の革靴は、いずれも高価な海外ブランド品らしいが、派手に先の尖ったクロコダイルの男物と、ゴスロリもどきに編み上げられた女物のショートブーツは、この家の家族の物とはとても思えない。たぶん先客とやらの靴だろう。
「さあさあ拓也君、遠慮なく上がってくれ」
すぐ先の居間の障子は、玄関同様に開け放たれていた。
大ぶりの座卓を囲んで、四人の若者が座っていた。
あら、と驚いた直後、すぐに喜びを浮かべた可憐な顔は、やはり麻田真弓だった。
その隣で、中学時代より髪が伸び、ずいぶん大人びた佐伯沙耶が、しとやかに会釈した。あいかわらず日陰の花のようなたたずまいだが、その顔には屈託のない微笑が浮かんでいる。
拓也に背を向けていた残りの二人が、こちらを振り返った。
拓也は意表を衝かれ、数瞬、彼らしくもなく立ちすくんだ。
池川光史と犬木茉莉――。
中学時代、いじめの末に沙耶を転校させた、主犯格の二人である。
二人も拓也の登場に驚いたようだったが、あの頃とは別人のようにしおらしく、黙ってこちらに頭を下げた。
隣の台所から、沙耶の母親が、
「あらあら拓也君、すっかり細マッチョになっちゃって、もう無敵って勢いね」
この人の、こんな明るい笑顔を見たことがあったろうか――。
拓也は記憶を隅々まで探ったが、結局、思い出せなかった。
*
この家の家族三人と、来客の学生四人を交えた夕餉がなりゆきのように始まってからも、拓也は違和感を拭えなかった。
「まあ、池川君と犬木さんには、沙耶の父親として、まだ腑に落ちない気持ちも多々あるわけだが――」
「君たち二人も心から沙耶に謝ってくれたそうだし、沙耶自身が水に流すと言っているのだから、私もこれ以上、君たちを恨むつもりはない」
娘があんな辱めを受けて、こうあっさりと加害者を許せる父親がいるだろうか――。
記憶より老けているせいもあってか、拓也は改めて不審を覚えた。
そんな夫をにこにこと見守る佐伯綾子は、半年前に見かけた時と同じ年格好なだけに、表情の落差が異様なほどである。
池川光史と犬木茉莉は、どう見てもおかしい。中学の制服さえ着崩し放題だった二人が、進学した高校の制服をきっちり崩さずに着こみ、大人しく頭を下げ続けている。確かに池川と犬木の外見でありながら、中身は別物のように見えた。
そう思うと、麻田真弓にさえ不審がつのる。沙耶と不良たちの和解を心から喜び、華やかな笑顔を振りまいているが、昼間の憂い顔や恐怖の表情が記憶に新しいせいか、今は型どおりに整いすぎている。AI制御の、精密なロボットのようだ。
その点、半年以上も会っていなかった佐伯沙耶には、なぜか不思議に違和感がなかった。今見せているはにかむような笑顔も、あの事件が起きる以前なら、何度か見た記憶がある。お世辞にも綺麗とか可愛いとか言える容貌ではないが、それでも微笑すると、なにか独特の、陰った高貴さのようなものが感じられた。昔とは違う長い黒髪も、そんな顔立ちにふさわしい気がする。
いや、この情景すべてが、自分が自分で自分を癒やそうとしているだけなのかもしれない。自分の明晰夢を、無意識の内にできるだけ予定調和な方向に導いているとしたら、こんな出来過ぎた情景も確かにありえるだろう。三人家族の献立が、初めから七人分揃っていても不思議ではないように――。
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