天壌霊柩 ~超高層のマヨヒガ~ 第21回

 冗談混じりで勧める沙耶の父親に、拓也は言った。

「大丈夫です。もう頭も痛くないし、気分も悪くありません」

「それなら何よりだが――」

 沙耶の父親は、拓也の肩を誘うようにして、

「じゃあ、私の家に寄っていきたまえ。確か、あの頃も何度か寄ってくれたろう。あいかわらず路地裏のあばら屋だが、麦茶とお茶菓子くらいは出せるよ。そろそろ喉が渇いたんじゃないかい? なんなら晩御飯も一緒にどうだい?」

 相手の邪気のない笑顔に、拓也は一種のためらいを覚えた。

 先ほど資料室でスマホ越しに聞いた、麻田真弓の言葉――『私、今、沙耶ちゃんの家にいるの』――それは、いつの時制の『沙耶ちゃんの家』だろう。

 沙耶の父親は、夏用背広の懐からスマホを取り出した。拓也には骨董級に思えるほどの古い機種である。

「――ああ、綾子。――うん、あと二三分で帰る。沙耶も、もう帰ってるんだろ? ――それから、珍しいお客さんをひとり連れて行くから。――ほう、そっちにも珍しいお客さんがいるって? 久しぶりに早く帰ったら、千客万来だなあ。――いやいや、賑やかなのは大歓迎だよ。仕事場じゃ、みんな黙りこくってCADキャドのデータチェックばかりだもの。――え? ウスターソース? うん、わかった。途中で買って帰る」

 そんな通話を聞きながら、やはり真弓は佐伯家にいるらしいと、拓也は推測した。夢の続きとしてそこにいるのなら、なんの不思議もない。

 沙耶の父親は、上機嫌で通話を終え、

「すまん、ちょっと待っててくれ、拓也君」

 そう言って、病院のはす向かいにある、木造の個人商店に入ってゆく。

 拓也は目を見張った。

 拓也の記憶によれば、その場所は廃屋のはずだった。

 間口の造りから、本来なんらかの店舗であったことは小学生にも推測できたが、朽ち果てた雨戸のあちこちに、割れたガラス戸が覗いて見えた。

 この世界は、本当に自分の夢なのだろうか――。

 想定していた前提条件がいきなり崩れてしまい、疑念を抱いて店の奥を覗くと、沙耶の父親に愛想良く応対している、店主らしい中年男が目に入った。

 その顔に、どこかしら見覚えがある。

 しばらく凝視して、なるほど、と拓也は苦笑した。中学時代の教頭と、同じ顔だった。あの頃の尊大な渋面と、商店主そのものの愛想笑いはまるで別物だが、間違いなく同一人物なのである。

 そう気づくと同時に、拓也は、先ほどタワービルの地下で若い警備員と話した時、既視感を覚えた理由にも思い当たった。以前、警備員として見かけたわけではない。そう、あれは確か、冬にいじめ問題の調査で中学を訪れた、若い市教職員の一人と同じ顔だった。

 つまり今日、あの資料室で目覚めた後に、はっきりと顔を合わせた人々は、いずれも拓也の記憶の反映なのである。

 そう思えば、この食料品店も、けして初見とは言えない。この町には存在しなかったにせよ、たとえばNHKの朝ドラや映画版『三丁目の夕日』など昭和を舞台にした映像作品には、いくらでも登場しそうな造作をしている。

 やはり自分自身の明晰夢――そう拓也は納得した。

「じゃあ、行こうか、拓也君」

 買い物を終えた沙耶の父親は、商店の少し先の路地に、拓也をいざなった。

 家々の軒下に釣り忍、路傍には朝顔の鉢植えが並ぶその細い路地にも、拓也は確かに見覚えがあった。ただし多くは冬の思い出、雪を踏んで歩いた記憶である。

 風邪で休んだ同級生の家に、これも市内の小学校の慣例として、下校ついでに給食の食パンを届けた記憶――。

 届け先は、病弱な佐伯沙耶の家であることが多かった気がする。そして麻田真弓も、何度か同行していたはずだ。

 さほど昔の出来事ではないのに、退色した古写真のような思い出を反芻しながら、数軒の平屋の前を通りすぎる。いずれもほとんど同じ造りの、狭いなりに板塀や小庭を備えた、昭和以来の市役所職員官舎である。

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