第3話 甘くない
「けほっ、けほっ!?こ、ここが……?」
すでに後方の扉は消え失せている。
辿り着いた瞬間、気道に入り込む異物に生理反応を抑えきれないヴィクトリア。
手で口と鼻を覆い、呼吸も控えめにしてなんとかそれ以上体内を冒されないように瞬時に心がける。
目を開けているのも、正直したくないほどだ。
今彼らがいるのは塵芥の舞い散る薄暗い路地裏だが、光の濃い通りの方も褐色がかって控えめにも明るいとは言い切れない。
「私の拠点としている自宅が、しばらく歩いた先にある。それまでは、この悪辣な大気には我慢していただきたい」
「は、はい……」
抑えた口から少なめの単語だけ発しておく。
通りに出ると、驚くほど遠くが見えない。
これが貧民街の日常なのかと、すでにここの住民に憐憫を禁じ得ない。
「わっ!?」
急にトンプソンに腕を引かれ、驚きもそのまま通りの端に寄せられる。
何をするのだと言い掛けた時、すぐそばを馬車が通り抜けた。
かなり狭いところを馬車が通るのだなと不思議に思う。
馬車によって、通りの両端には人間が1人歩くことができれば十分なほどの幅しかない。
トンプソンに連れられながら周りを見たところ、通りに座り込んだ人間もいれば、死んだように動かない者も多数散見する。
しかしその誰もが何かを訴えるように呻きをあげている。
どうなっている……?
「ここは、こんなにも──けほっ!」
「余り無理はなされるな。まずはこの薄汚い空間から抜ける。話はそれが終わってからだ」
自分と違い、トンプソンは淀む大気のなか平然と話している。
やはり、トンプソンは大気の影響を受けていない。
ここに来て分かったが、トンプソンの身体の表面は何かしらの薄い膜が張り付いているように見える。
よく目を凝らさねば分からないほどの薄いものだが、たしかにそこに何かがある。
それが色の付いた大気によって浮き彫りになっている。
雨の影響も受けなかったのも、これによるものだろう。
迷路のように区画分けされた様々な通りを縫いながら、時には裏路地のようなところも経て、一つのアパートの前でトンプソンは足を止めた。
途中工場のような場所もあり、どのアパートも赤いレンガ造りで見分けがつかない。
一度迷子になったら、同じ場所にまた戻って来れるとは思えない。
エントランスを抜けて階段で5階まで登る。
このアパートはそれぞれの階層に1部屋しかないらしい。
まだ上に階段は続いていたが、何階まであるかなどの疑問は後回しにしておこう。
全身に纏わり付いた水分以上に、大気中に含まれていたであろう粉塵ともいうべき黄褐色の粒子が余りにも不快だ。
アパートの中の空気は外よりも遥かにマシだが、誰かがエントランスの扉を解放したままにすれば即座にアパート内が汚染されることも考えられる。
「ここだ」
トンプソンは懐から鍵を取り出すと、それを使って錠を解除。
部屋の上に書かれた数字は501。
ヴィクトリアはようやくトンプソンの部屋に案内されることとなった。
中は思ったよりも広い。
部屋の中までは汚染が届いていないようなので、これでもかというくらい目一杯に空気を吸い込む。
綺麗な空気がこれほどに美味だとは。
ここでは今までの何もない日常でさえ幸福に感じる。
そんな日常すら謳歌できない人間が多かったのを見ると、哀れでいたたまれない気持ちになってしまう。
「衣類は用意しておくから、まずは全身の汚れを落とすと良いだろう。
奥にシャワーがあるので、使用するがよい」
そんなことを考えていると、トンプソンから声がかかる。
「はい、お世話になります」
まずは清潔にすることが先決だ。
いつまでも汚いまま家の中を彷徨くわけにもいかない。
そこでふと思い出す。
「そういえば、魔法を使えば良いのでしたね。色々な驚きで、すっかり忘れていました。ロード、クリア」
魔法の効果により全身が綺麗に──。
「ならない?ロード、クリア、クリア、クリア!」
──ならない。
一向に魔法が発動する様子もない。
体内に意識を向けても、マナが切れているという感覚はないのだけれど。
それ以前に魔法陣すら現れていない。
「トンプソン様、これは一体……」
「だから先にシャワーを浴びるように言ったのだ。ここの状況は少し異質だからな。少なくとも今魔法を使うことはできない。話せば長くなる。疑問は一旦無視して、早くシャワーを浴びるのだ」
「は、はい。これは申し訳ありません。すぐに行ってまいります」
急ぎ足で言われた通りシャワー室へ向かう。
とりあえず置いてあったカゴに汚れたままの衣服全て納め、シャワー室の扉を閉める。
「あら?」
見れば、左前腕に数字が刻まれている。
「いつの間にこのようなものが……。160というのは何の数字でしょうか?ま、あとでトンプソン様が教えてくださるでしょう」
疑問は彼方に放り投げ、全身にシャワーを浴びせる。
そういえば1人で風呂に入るなどいつ以来だろう。
王宮では常に誰かが付き従い、髪さえ自分で洗うこともなかった。
クリアの魔法使えば風呂など入らなくても問題ないのだが、たまの休息は必要だ。
ただその休息でさえ、誰かがいて気が休まらない。
嫁ぐ前までは息苦しさを感じることもなかったのに。
そんなことを思い出しつつ、しっかりと時間をかけて汚れを落とし終え扉を開ける。
するとカゴにあった衣類は消えて、バスタオルと黒いワンピースが置かれていた。
流石に下着までは用意できないか。
下着も全てひっくるめてトンプソン回収されてしまったのかと考えると恥ずかしさを感じたが、キャーキャーいうほどの年齢でもない。
エリザを産んで、30も半ばに差し掛かろうという年齢だ。
全身を拭いて適度にバスタオルで髪の水分を取ると、あとは髪をバスタオルで覆ってトンプソンの元へ急いだ。
かなりゆっくりしてしまったが、彼を待たせるわけにもいかない。
「お待たせして大変申し訳ありません」
「十分に汚れは落とされたかな?」
「ええ、お陰さまでキレイになりました。しかし魔法が使えないというのは不便なものですね。今使えないと仰ってましたが、いずれ使えるようになるのですか?」
「まぁ、そこにお座りなされ。まずは一服して気分を落ち着かせると良いだろう」
ヴィクトリアは言われるままトンプソンの対面のソファに腰掛ける。
目の前には湯気を放つ紅茶らしきものが置かれている。
それを手に持ち、ゆっくりと啜る。
「まぁ、美味しい。このようなものもあるのですね。こんな、場所で……」
言葉に出して言い淀む。
すぐ外では飢えている人間もいるということを忘れていた。
「生憎この家には髪を乾かす道具がないので我慢してくれ」
「いえ、何から何までお世話になりっぱなしですし、お気遣いなく」
「そうか。では色々と疑問もあるだろうから、解消していこうか」
「お願いします」
「この貧民街だが、先ほど見てもらったように、ここにおいても貧富の差は存在している」
「王国ではあのように屋外で寝ている人など見たことがありませんでした。
思った以上に過酷な状況でしたね。あの様子では、亡くなられている方もいるのではしょうね……」
「ふむ……。まずはこの貧民街、今では空間がどこまでの広がりを見せているか不明だ。私もそれほど頻繁にここに来るわけではないが、訪れるたびに人間も建物も増えている。それが誰の意図で行われているかも、ここがいつ生み出されたのかも分からない」
「空間自体が広がるということですか。そもそもここはどこにある空間なのでしょうか?」
「我々が過ごしていた地上とは別の次元に存在する空間と言えばいいだろうか。あちらからこちらへの一方向的な移動は、マーケットで見た男──管理人と呼ばれる存在によって成されている。彼ら管理人がどうやって生み出されているかということを知る人間もいない。ただ彼らはあのように地上に存在して、仕事を全うしている」
「そのような存在が……」
「一方向的な移動と言ったが、あれは本来の入り方ではない。ここに住む全ての住民は、地上で居場所を失った者たち。彼らが死を迎えようとした時この世界への扉が現れ、貧民街へ誘われる。そして地上での死か、それとも一縷の可能性にかけるか、という具合にな」
「一縷の可能性、ですか。何かしらの働きでここから出られるというのですか?」
「そうだ。不定期だが数年に一度、地上へ上がるチャンスが転がり込む。ここに住む人間はそれを目指して過酷なこの環境を生き抜くわけだ。当然、その生存競争に負ける者もいる」
「そして私たちが先ほど見てきたように、路上で苦しんだり亡くなったりする方もいるわけですか」
「いや、この世界はそんなに甘くない」
▽
2人がトンプソン宅に到着したのと時期を同じくして、アイゼンおよびグレッグ、そしてミラの3人も貧民街に到着していた。
「最悪ぅ、また環境悪化してるしぃ。よくこんなとこに何年もいたよねぇ、グレッグぅ?」
「あっしは運が良かっただけで。あれはただ巡り合わせによるもんでさぁ。アイゼン様が拾ってくれなけりゃあ、またここに逆戻りでしたでしょう」
「ワシの元にいる限りは戻ることはないだろう」
「そう言ってもらえると助かりまさぁ」
「あたしにも感謝してよぉ?」
「ああ、お前がいなければこの薄汚れた空気を吸う羽目になっているからな」
「じゃあさぁ、ここで何個か見繕っていいかなぁ?」
「都合よく売りに出されていれば考えなくもないぞ。お前たちが強くなるに越したことはないからな」
「ちゃちゃっとやって帰ろぉ?」
「ここでの襲撃がないとは限らないから、ミラは前方、ゲイルは後方を警戒しつつ歓楽街へ向かうぞ。ミラは『
方針が固まった3人はアイゼンの指示した陣形で歩き始める。
「他は寄らずに行くんだよね──っと、倒れてる人間多すぎぃ」
「確かに前回の比ではないな」
「これで死ねないってんだからぁ、かわいそうだよねぇ?」
「そう言ってやるな。彼らは死を逃れるべく、この世界の奴隷になったのだ。これは自業自得以外の何者でもないんだ」
「ぐうの音も出ないですなぁ」
3人は歩き慣れた汚染地域を進んでいく。
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