第2話 男の名は

「あ、あの……!」


ヴィクトリアは雨の中、男に向けて大声で呼びかける。


そこは研究棟に上がる階段の側で、角度によっては完全な死角にもなっている。


ヴィクトリアの部屋からここがほんの少しだけ見えており、先日研究棟に寄った際にヴィクトリアから声をかけ、2人は知り合った。


男はいつも、人気のないこの場所で何かをしているようだった。


時々人が出入りするが、誰かが男を咎めていることもなければ、それに気づく様子もなかった。


ヴィクトリアもこのことについて特に疑問も抱いておらず、ただただ興味本位で近づいたのだった。


「ん……?」


男は予期せぬ場所から掛けられた声に一瞬不信感を抱くも、それが知った顔だと分かって警戒を解く。


「おや、これは女王陛下。このような悪天候のなか急がれて、如何なされたのかな?随分と御召し物も汚れているご様子」


それは貴方もだろうと思い男を見ると、そのスーツもシルクハットも何一つ濡れている様子はない。


雨が彼だけを避けているかのように、水滴の一つも付いていないのだった。


ヴィクトリアの脳がそのことに違和感を覚えるまえに、パッタリと消えてしまう。


「……?そ、そうです、私は今追われているのです!誰にも捕まらないように、私を逃してはくれませんか?」


濡れねずみになりながらも、ヴィクトリアは男に懇願する。


捕まってしまっては、口封じのために何をされるか分からない。


人体実験など行なっている国だ。


悪ければ殺害、良くても軟禁といったところだろう。


「これはまた物騒な話だ。一体何が起こっているのですかな?」


「夫に事実を知っている旨を伝えたところ惚け始め、ついには私の口封じをしようとしているのです!現在宮廷中の人間が血眼になって私を探しています。ですが、今の私では逃げおおせることができません。そこで貴方のお力をお借りしたく、この場に参りました!」


「逃げてどうされるおつもりですかな?」


「まずは国民皆様にこの事実を知っていただきます。そしてこの命をもって謝罪を……!」


「それはなかなかに思い切った決断だと言わざるを得ない」


「身内が命を弄ぶような行為を行なっているなど、私には耐え難い苦しみです。それが自分の夫ならなおのこと。ですから、まずはここから連れ出してはいただけませんか?お礼にお金でもなんでも、差し上げられるものは差し上げます。命は謝罪のために残しておきたいので、それ以外のものであればなんでも仰ってください。事実を知らしめれば、王家もおしまいです。残された財産などに未練などありませんから、どうか、どうかこれで何卒……!」


今ヴィクトリアに頼れる人間はこの男しかいない。


心から願いを述べる。


「おい、いたか!?」


「そっちはもういい、次はこっちを探すぞ!」


遠くでヴィクトリアを探す声が響いている。


「ふむ……ここに長居しては、いずれ見つかってしまいますな。財産云々の話は後にして、ひとまず王宮から抜け出すことを優先させましょう。では、お手を拝借してよろしいかな?」


男は黒い革の手袋を外して、その手を差し出してきた。


「ええ、ありがとうございます。

このご恩は必ずや形にしてお返ししますので、私を外に連れ出してください」


ヴィクトリアは差し出された手を躊躇なく握った。


「ロード、ノン インターセプション。では私の手を離さず、付いてきていただけますかな?」


その後、男は雨の降りしきるなか通用門に向けて真っ直ぐに歩き出した。


今歩いている芝生の上は、ヒールの靴では少々歩きづらく、また所々泥濘んでいる。


ヴィクトリアはスムーズな歩行がなかなか出来ずにいたが、男はヴィクトリアを急かすことなく歩幅を合わせてくれている。


雨でぐしょ濡れなヴィクトリアに、それが心地よさを与え、濡れた衣服の気持ち悪さを軽減してくれている。


「おい、まだ見つからないのか!?」


ここの兵士と思しき男たちが、声を張り上げながらこちらへ向かってきた。


「ひっ……!」


怯えて、思わず男にしがみつくヴィクトリア。


だが何も気づかない様子で2人の前を走り去っていく。


「こ、これは……?」


しがみついたまま、頭上にある男の顔を見上げて質問を投げかけた。


「存在遮断の魔法を使っただけのこと。そんなに驚くこともありますまい」


男はそう言って何事もなかったかのように歩き始める。


その後もすれ違う人間が多数いたが、その誰も自分たちに気づくことなく通り過ぎていった。


それでも見られているのではないかと心配になり、通り過ぎる者を目で追いかけてしまう。


そしてふと、ヴィクトリアは思い出したことがあった。


「そういえば、前回お会いした時からお名前を伺っておりませんでした」


初めてこの男にあった時に名前を聞いたところ、別に知らなくてもいいと言われていた。


その時はそれに疑問を持たなかったが、何故なのだろう。


そんな疑問も、口に出す前にヴィクトリアの中から消えていく。


「ふむ、こうなってしまったのは私の責任でもあるか。これからしばし行動を共にするわけだ、教えておこくとしよう。私の名は、トンプソン。トンプソン=カーマ。呼び方は自由にするが良い」


「トンプソン様、ですか。しばらくお世話になります」


そのまま2人は何事もなく通用門を抜け、王宮の外に脱出することができた。


「まずは私の拠点にご案内しよう。何をするにもその格好は目立ちすぎる。姿を隠せるとはいえ、この魔法も万能というわけではではないのだから」


ヴィクトリアは豪華なドレスを身に纏っている。


今では雨や泥に濡れてその面影も残さない状態だが、見る人が見ればバレるかもしれない。


これは自分の意思で着ているというより、無理やりに着せられたものに違いないのだが。


それでも服装が身分を表すということには変わりない。


「その拠点というのは、どちらに?」


「貧民街だ」


「貧民街?私は、寡聞にしてそのような場所を聞いたことがありませんが……」


それを聞いて、トンプソンは冷ややかな視線を向けてくる。


「まさか全ての国民が平等に生を謳歌できているとお考えか?それならまずはその勘違いを払拭しなくては。それでも、王族ならそのようなことを知らないのも無理からぬこと。王宮から見える範囲の国民は、裕福な者ばかりですからな。ヴィクトリア殿が外出する時も、おそらくその辺りしか歩かれぬのだろう。だが、この国には明らかな貧富の差がある。王宮を光と表すならば、貧民街は謂わばこの国の影の部分。光が差すだけ、そのぶん影も濃くなるというもの」


「そんな……。それが事実なら、私は何も知らずに生きてきたということに……!」


ワナワナと、自分の知らなかったことに慄くヴィクトリア。


「あいにく、これは逃れようのない事実だ。直接その目で確認するのが早かろう」


「私は、知らないことばかりでしたのね……。命で謝罪しようとしていましたが、間違いでした。そのような王国の影の部分が残っているなら、死ぬ前にそれらをどうにかせねばなりません。これも贖罪の一つとして受け取ってもらえるでしょうか……?」


「受け取る受け取らないは、相手次第。自己満足なら、しない方がマシだというもの。本当に償う気持ちがあるのなら、評価など気にせずやれるだけのことをやるべきだと思うがな」


「たしかに、そうですね……。トンプソン様の言う通りです。この期に及んで我が身かわいさに自己満足な行動をするところでした。気づかせていただいて、ありがとうございます」


「本当に償うべきは、王と国の中枢を担う人間たちだ。ヴィクトリア殿がそこまで背負う必要も無いと思われるが?」


「しかし……」


「今ここで立ち話をしていても仕方があるまい。それにそのままでは風邪も引きかねない。急ぎ移動を開始するとしよう」


トンプソンはヴィクトリアの手を取り、歩を進めていく。


そして連れてこられたのは、よく見慣れた施設。


「ここは、マーケット……ですよね?何かご入り用なものでもあるのでしょうか?」


マーケットはその広大な範囲を天幕のように覆われており、雨の中のあっても湿気があることを除けば快適に過ごすことができる。


そのため、店舗に自分の住居を構えている者も少なくはない。


このマーケット内に店を構えることは一種のステータスでもあり、店舗同士の小競り合いも珍しくない。


特に重要なのは店を構える場所であり、奥に行けば行くほど客足は遠のくので、入り口付近は激戦区である。


店舗同士の潰し合いも多く行われて入れ替わりが激しいため、しばらく時間を開けてマーケットを訪れると風景が様変わりするのも特徴である。


そういった争いの絶えない空間のため、裏の金の流通も盛んであり、一般人の落としていく金も合わせて莫大な金の流れが存在する。


「着いてくれば分かりますぞ」


そのまま、マーケットに足を踏み入れる2人。


雨の影響なのか、人通りもまばらだ。


店を閉めているところも多い。


奥へ奥へ向かうほど、陰鬱な雰囲気が漂ってくる。


さすがのヴィクトリアも供回を連れてここまで奥に来た事はない。


しばらく歩くと、競売場受付という看板が目に入る。


しかし受付もいないし閑散としている。


「おや、トンプソンさん。今日はいかがなされましたかな?」


突如、頭上より声が降り注ぐ。


声の先を辿ると、高い場所に腰掛けている男が1人。


どうやって登ったのだろうか。


男の金色の瞳が、薄暗い空間の映える。


「ああ、これから貧民街へ向かおうと思ってな。扉を開けてもうおうか」


「そうですか、そうですか。お隣の高貴なる方もご一緒で?」


「ああ、2人だ。少し違った風景を見たいと御所望なので、連れていくことにしたのだ」


「畏まりました。ほっ、と!」


高所から飛び降りる男。


着地動作もなく、そして音もなく着地する。


「今から鍵を開けさせていただきますが、お帰りはどうなされますか?どうも最近、外出は厳しいようで」


「適当にモノを売れば問題なかろう」


「それもそうですね。それでは……」


男は懐に手を突っ込むと、そこから掌ほどもある大きさの鍵を取り出した。


「ロード、クリエイト スピリットゲート」


何もない空間に、ぼんやりと扉が浮かび上がる。


扉がはっきりと形を得たところで、男は鍵を差し込み扉を開いた。


光の溢れる扉に向けて、躊躇無く進むトンプソンに合わせてヴィクトリアも歩き出す。


ヴィクトリアには驚くことの連続だが、トンプソンに関わっている限りずっと驚いてもいられない。


トンプソンは恐らく自分とは異なる世界の住人。


貴族とも、一般市民とも違う。


そこに興味をそそられてしまう。


もういっそのこと、トンプソンと一緒にどこか遠くへ消えてしまいたくもなる。


だが、王国の内なる悪はどうにかしなくてはならない。


そのために、今は身を隠さねばならない。


その流れで貧民街という存在も知ってしまった。


何も知らないとは、あまりにも愚かなのだということをここ数日で実感させられた。


蝶よ花よと愛でられて生きてきた生涯が疎ましい。


これからは多くを知り、そして王国の悪行を根絶しなければならない。


そういう思いを持って、ヴィクトリアは扉を抜けた。


「この先は欲望と絶望渦巻く貧民街。是非楽しいひと時を」


不適な笑みを浮かべる男を後ろに見ながら、扉が閉じられた。


一方、王城では──。


「一体どうなっている!いつになったら見つかるのだ!?」


机を強打し、怒りを抑えきれないアイゼン。


その様子に、報告に来た兵士も萎縮してしまって次の言葉が紡げない。


フーッフーッと息を荒げるアイゼンの怒りが収まるのを、兵士一同黙って待つ。


「……取り乱した。本当に王宮内にはいないのだな?」


「はい……。魔法も使用して何度も確認しましたが、少なくとも王宮内には居ませんでした」


「外に出たと言うのか?警備に気づかれずにか……?」


「それ以外に考えられません。方法は不明ですが……」


「何者かがヴィクトリアに協力しているな……。まずは城外の警吏に報告だ。絶対にそれ以上外には出すな。そして協力者も突き止めよ。さぁ、行け!」


兵士たちが一斉にアイゼンの前から走り去る。


「まさかこんな事態になるとは。あれの中には、外に出しては行けない情報を封じてるのだぞ……。もしあれが外に解き放たれてはマズいことになる。どうにかしなくては……」


どうしたものかと、思惑を巡らせるアイゼン。


顎に手を当て、同じ場所を行き来すること数分。


唐突に動きを止める。


「やはりあの者どもを使うしかないか」


アイゼンが机を3回ノックする。


すると、天井から1人の男が姿を現した。


「お呼びで?」


「ああ、グレッグ。これより貧民街へ向かう」


「左様ですか。目的のモノでも?」


「ヴィクトリアが外に出た可能性が非常に高い。だがあいにく人を探すという能力の長けた者がいない。その人材を確保しに行く。最善はヴィクトリアを見つけて連れ帰ることだが、次善の策としてアレだけでも回収出来ればよいからな」


「その場合は、あっしが受け取り手で大丈夫なんですかね?」


「人材がいればそのまま借り受ける。能力だけでも良いのだが、使える人材の方が効率よく運用してくれるからな。都合よくあれば良いが……」


「ヴィクトリア様は王城内では見つかりそうにないんで?」


「すでに城内にはいないという話だ。恐らく1人ではない。何者か手引きした者がいる。地下での実験のことも、その何者かからもたらされた可能性が高い。容易にいかないことが分かっているのなら、初めから効率良い手段を講じた方が懸命だ」


「供回はどうされますかね?」


「大人数で貧民街を彷徨くわけにもいかんからな。あと1人だけ連れていく。ミラあたりが良いだろうな。準備ができ次第出発する。声を掛けておけ」


グレッグは音もなく消えていった。


アイゼンには暗殺や諜報に使う人員が数名いる。


その中でも最も優秀なのがグレッグ。


そのほか数名いるが、今回連れていくミラは性格に難があるものの、グレッグに次いで優秀だ。


だが、女性はミラ1人しかいない。


何かの場面で女性ということが有利になる場面があるだろう。


そういう意図があっての選出だ。


今回の外出は公式のものではない。


その間王が不在になるが、王がいなくてはならない事態などそれほど多くない。


ヴィクトリアは恐らく見つからないだろうから、捕らえ次第軟禁しておけとでも伝えておけば良いだろう。


準備が終わり部屋を出ると、グレッグとミラが待機している。


「グレッグからさっき聞いたけんだけどさぁ、またあんな辛気臭いとこ行くのぉ?」


ミラの言葉はどうあっても王に向けられるものではない。


「緊急事態だから仕方ないのだ。また好きなものを買ってやるからしばらく黙って仕事をしてくれ」


しかしアイゼンはこれを承知した上でミラを雇っている。


それらを差し引いても、余りある価値がミラの能力にはある。


「くれるって言うなら我慢して仕事するけどぉ」


とりあえずエサをチラつかせていれば黙るから制御しやすい。


「今回もマーケットからの侵入で?」


「この辺りの管理人は彼くらいだからな。他にもあるにはあるが、彼がいる間はあそこを使えば良いだろう」


「そうですかい。んじゃいつも通りこっそり出ていくとしますか。ロード、ノン インターセプション」


3人の気配が王城から消え、彼らも意図しないままトンプソンらと同様に貧民街へ向かう。

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