ナンシェが、死んだ。

ぬぬぬ

カプグラ

 あなたは様々な理由を抱えている。様々な理由を突然そこいらにポイと放り投げても、無責任者などと一切言われないために、あなたは大連に逃れようと企てる。恐怖とオンボロの身なりを猫背になるくらい背負って、大連を目指す。真夜中、あなたは時代に似合わない素足で硬いアスファルトを蹴る。小石が食い込んで嫌になる。汗を流す。空港に滑る。煙草を忘れたんじゃないかと、あなたはポケットをはたいたが、吸い殻も何も出てはこない。煙草を買う経済的余裕なんて、今のあなたには微塵もない。あなたは落胆する間も無く第2ターミナルを目指す。走る。あるいは歩く。少し走る。歩く。目的を忘れる。動悸が激しくなる。ひたすら脚を動かす。喫煙所に着く。あぁ、無意識だ。呪いだ。あなたは目の前にいる黒スーツの男に煙草をせがむ。お願いです。お願いします。煙草を1本恵んでください。どうかお願い。1本だけで良いの。2本くれたって構わない。いやそれはただの傲慢だが、とにかく煙草をくれ。煙草を、

「1本ください。」

 黒スーツの男は吸っていた煙草の火の籠った先端を、あなたのこめかみに強く靡いて、革靴の硬い先端で、あなたのみぞおちを思い切り蹴飛ばす。あなたは何が起きたのか分からなくなる。この出来事を一体どう解釈すれば良いのか脳に問いかけている間、あなたは声にもならない声を出す。男の顔に眼をやる。笑ってやりたいがどうもうまく笑えていないのがわかる。武者震いと、引き攣った顔を誤魔化すような、不自然な笑み。善悪。男は帽子を阿弥陀に被って、革靴と硬い床との接面からコトンコトンと音をたてて、早足で去った。あなたはこめかみを触る。それから指を見る。あぁそうだった。そういえば、と自分の血がこんなにも黒く穢れた液体であったことを思い出す。それから間もなく、それが血ではなく灰であることを思い知る。だが自分の血も、この灰も、もはや同じようなものだ。あなたが社会的弱者に成り下がったのは、きっとこの時である。

 あなたは今、ありとあらゆる全てがまるで分からなくなる。あるいは今、そのありとあらゆる全てを理解した。

 例えば、リベラリズムとかいう中身のないすっからかんな言葉は、自由主義をうたう傍ら、理性がなければ成り立たってはいけない、つまりはこんな矛盾も正当化できるほど分厚く固い条理、信頼、都合の良いもの、自分によって機転が簡単に利くものをただただ純粋に表現する言葉である。あなたは呆れる。まるで小学4年生じゃないかと呆れる。怒りにも似た動的な呆れを顕にすることを、今はもう躊躇すらできない。リベラリズムだけじゃない。多様性、モラル、コスモロジー、道徳、SDGs、倫理観、時間。金。大衆娯楽。健康で文化的な最低限度の生活を営む権利。それは一体なに。わからない。健康ってなに。文化的って曖昧。何をもって最低限度なの。素直であればあるほどに、それが遠のいて行くのを感じる。

 そしてあなたは決断する。自分を受け入れない社会に正面からぶつかって死んでやろう、と決断する。

 精神的あるいは身体的障がい者、性的マイノリティ、左利き、なんだっていい!

 うん。

 誰だっていい!

 はいはい。

 どんなあなただって素晴らしい!

 うん。

 自分らしさに誇りを持って!

 はい。

 だから私たちに教えて!

 え。

 社会に教えて!

 うんうん。

 どんなあなただって受け入れるから!!

 はーい。

 私たちの手に抑え込める程度の異端者かどうか確認させてください。

 レズ、ゲイ、バイセクシャル、障がい者。みんなみんな同じ人間なんだから!誰も、何も、どんなあなたも、否定する権利なんか!どこにも無いんだよ!

 あはは。

 ほんとキモい、ロリコンってなんなの。幼児に手ぇ出すとかマジ理解できない。あり得ない、もう二度と社会出てくんなよ。

 否定。

 実は私……同性愛者なんです!

 そのカミングアウトに勇気づけられました!

 肯定。

 でもやっぱり少し前の時代だとそういうことに理解とかなくて…本気で自殺考えたことが幾度となくありました!

“庇ってもらえるって分かってて傷晒してる奴ってなんなんだよ。”

 共感。

 私は先天的、後天的、障害があります。それでも強く生きています。なのであなた達も強く生きてください。弱いお前は、私たちを見習って、強く生きてください。

 強制。

 かわいそうだね、辛かったね、でももう大丈夫。

  “そういう安い傷みてるとさ、アイスピックでほじくり返してやりたくなるんだよね。”

 疑問。 

 わたし。私はあなたの気持ちがよくわかる。俺。そのスタンスがもう上から目線じゃねえかよ。お前。理解。あなた。別に。僕。彼。あいつ。彼女。人間。

 あなたは理解した。あなたは理解されない。理解されたとて受け入れられない。あなたはそれらの様々を抱えて大連に行くための飛行機に乗る。あなたは今、いたって冷静である。機体が離陸する。浅く息を吸って、まったく釣り合わないくらい深く息を吐く。またすぐに空気を吸う。あなたはフランク・シナトラのAll of meを口ずさみながら席を立つ。あなたは操縦席を目指す。あなたは左手にナイフを握る。清潔感に満ちた身なりのCAが行手を妨げる。お客様、どうされましたか?大丈夫ですか?その笑顔はなんだ。背後にいる何者かに叩き込まれたような不正直な笑顔は。あなたは力を込めてCAの喉にナイフを刺す。押し込む。声にもならない声が聴こえてくる。もう2度と声なんか出せぬようもう2回ほど刺す。刃先をながめる。そういえば、と鉄の香りの鋭さを思い出す。そしてすぐに、それが血の香りであることを思い知る。横たわるCAの目の焦点がどこにもあっていない。

 は?なんだこいつ。簡単に生きて、簡単に死にやがって。

 そしてあなたはこう思う。死ぬことは生きることよりも遥かに簡単だ。そしてそれが今自分自身の目の前で、手の平の上で、ものの数秒で、繰り広げられて、あなたは滑稽だと心から思う。口角が上がる。下がる。上げる。下がる。引き攣った表情筋に邪魔をされて、震えて、あなたは、果たして自然に笑えていただろうか。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ナンシェが、死んだ。 ぬぬぬ @jm0906

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ