8話  透明な罪悪感

 改めて思えば。


 ホワイトパーカーの少年はあの人とよく似ている。


 独立した雰囲気。武士のような毅然とした物腰。天才と変人は紙一重と言うが、この姉弟は鏡合わせのように曇りのない瞳をしていた。雲の運河に重ねる群青色の空を反射した水面みたいに、時が止まるほど果てしなく澄み渡っている。


 背中をなぞる影の囁きを物ともせず。


 希望に変えてしまう。深い幻想を現実の世界に引き戻す両者の意思の強さは未来の知らない景色を自分なりに見渡してきたことだろうか。


 あるいは特殊な家系の一族で。

 悪しき存在を調伏するような、奇跡を携えた現代の術者なのかもしれない。


 流石にそれは無いか。


「はい。お水」

「あの、……ありがとう、ございます」


 手渡されたペットボトルを貰って渇いた喉を潤す。彼女が隣に腰掛けていることを知らずに水で汚れた手を洗う。

 そしてハンカチで拭き取ると、彼女がもう一度尋ねてきた。


「どう? 文化祭楽しんでる?」


「それなりに楽しんでますけど……、あなたは誰ですか……?」


「や、私はただのOGだよ。卒業生。日比谷調って言うんだ。よろしくね」


「えっと、仙崎未来です」


 調は麗人の振る舞いで握手を交わす。

 一方で未来の表情が相変わらず硬い。むしろ驚いていた。


 カジュアルで清楚に整えた服装とは対を成す硬派な動作。それでも純真な微笑みは少女らしく、それでいて端麗な容姿は年相応の女性に変わる。


 不思議な人だ。


 前触れもなく姿が現れて、心境が優れない未来に言葉を投げる。彼女のお陰で沸騰しかけた感情が多少は穏やかに保っていることを。

 ハッと気付いて握手を交わした右手を見やる。理性を抑え込む為に胸元を掴んだ右手には伝う痛覚が何処にもなかった。


(あの時、もしかして、私は危なかったのか……?)


 なんて目を見張る様子に太陽のカラッとした調の笑顔は絶やさない。


「お、顔色が戻ってきたね。夜更かししたい年頃だと思うけれど、睡眠不足は美貌の敵だからね~。受験に没頭して自身を追い込んじゃうのはダメだぞ?」


「……なるべく善処します」


 当てずっぽうな苦笑い。心境を悟られないように未来は騙る。

 口は禍の門。感情のない言葉が呪いを生み出してしまう。幼少期に遭遇した奇蹟の光と呪いの影。非現実的な背景を形に表すことは誰かに話すことも至難だ。


 無駄だ。どうせ空振りに終わる。

 思春期の想像力。夢に浸りすぎだと馬鹿にされるだけだ。


 それに。


「というか、その制服姿……、雨上中のヤツだよね? 懐かしいなー。あの学校って夏休みの期間異様に少なかったよね!? 修学旅行も京都行ってないし、表向きはカリキュラムの向上って謳っているけれど、実際は建前だったのさ! 思い出したらなんかムシャクシャしてきたな! 肩書きだけで個人を判断していた給料泥棒の先公は懲戒免職になったかな!? あの頃は本当にひどい時代だよ!?」


「急になんですか!?」


 どういう訳か勝手に憤慨していた。


 話す云々以前として、積年の恨みを放つ獅子の咆哮の姿はどうすればいい。


 爪を尖らせ怒りを吐き散らす。過去の思い出を巡って美人の顔が台無しに。鬼の形相は誰かと似ているなと解決を放棄するどうでも良さそうな未来だったが、感情が豊富な彼女を見て、思う存分に毒を分解するのは正直羨ましいと思う。


 あまり近付きたくはないが。


 心底活力の糧にする姿に、ストレスなんて抱えていないように見える。


 まるで、昔話に花を咲かせているような感覚で。


 辛さが見当たらない。


 とりあえず話を進めようと未来は言葉の真偽を探ることにした。


「あの、勝手に話を変えますけど、調さんって雨上中が母校なんですよね」


「……あ! すっかり忘れてた!」


(この人ホントに女子大生なのかな……)


 ハッと我に返るOGの先輩。

 少々咳払いをし調は善美と勝るとも劣らない毅然とした様子に戻る。しかし話が脱線したことや奇形に走る不完全さな姿を見て、親近感湧いたような気がした。


 余計に冷静になって。何事にも動じなくなるほどに。

 

 歪に冴えていた。


「そうそう、何も隠そう、私は雨上中の卒業生でもあるんだ。先生ガチャは大失敗だったけど、学校生活に不満はなかったかなー」


「……それはなぜ?」


「んー? 勉強が出来たからって一応あるかな。けれど独りは駄目さ。机を囲んでする勉強の方がより達成感があるし、何よりも友の存在が心強いな。チープな言葉だけど、感謝している。しかし、改めて人間って生き物は時に何かを縋り、繋がりなしでは息絶えてしまう。相当弱い存在なのに、なんだが不思議だね」


 然程親近感は変わらない。


 それでも、考えれば考えるほど、彼女の辿る岐路は全くの別物になってしまう。


 産声を上げた秋の風。紅葉の波が灰空市に訪れて。

 中庭にあるガーデンベンチに腰掛ける調の存在が際立つ。静かな目付きは濁っておらず、前を見定める美しい瞳に思わず未来は背筋が凍てついた。


 余裕を含む微笑が。多くを語らない調の姿が。

 乗り越えた場数の違いに、拳にできる冷や汗は動揺を促進させていく。


 この人は。日比谷調という女性は。背後に迫る骸の手をどう跳ね除けたのか。


 教えて欲しい。


「辛くは、なかったんですか……?」


 酷なことを言う。図々しくて本当に失礼だ。人の挫折を尋ねるなんて神経がどうにかしている。そんな切羽詰まる質問に対して調は整然を止めない。


「───いいや、正直辛かったさ。時折自分自身の矮小さに気付くんだ。上には上がいる。世界は広いと浅はかに勘違いしただけで。あの頃の私は都合の良いときに見ないフリをしていたんたよ。現実は理想を掛け離れているモノだって」


 彼女は呑気に追想をする。


 綻ぶ顔をしているのは過去の境遇を拒絶していないから。

 けれど、未来が知りたいのは思い出話にする感動物の境遇じゃない。全身にのし掛かる心の重圧を解いてくれるおまじないなのだ。


 痛みを伴う棘を。ショックで癒えない心の毒薬を取り除く方法を。


 楽になれる知恵を。


「……どうしたら、どうしたら、調さんは克服出来たんですか……!?」


 同じレールの上で走っていたのに。


 後ろを振り返れば。並走していたみんなが忽然と消えていた。


 あまりにも愚かだ。結局あの頃と同じじゃないか。自分の気持ちを告げられずに時間の針だけが刻み、霞んだ記憶がストレスになって遠回りを繰り返す。


 何かを約束したハズなのに。あの子の笑顔に雑音が走る。


 これは罰なのか。


 ───壊れかけの透明な罪悪感は『呪い』に転じて他人を蝕んでしまう。


 もはや金平糖ほどの幻想でもいい。惨めな自分を偽っても構わない。路頭に迷う未来に手を差し伸べる救いの言葉だけが欲しい。


「……お願いします。私にも出来るアドバイスを下さい!!」


「アドバイス?」


 強請る。可哀想な私を確立させる証明を。


 陶酔する悲劇のヒロインのように翼を畳んだ白鳥のジュッテは滑稽な様。鳥籠の中で明け暮れる退屈な毎日はもう散々だ。別に他人の諦めた夢を背負う必要は何処にもないじゃないか。所詮は絵空事。信憑性のない応援は要らない。未来が本当に必要としているものは、優しい世界に逃げる為の近道だけだ。


 打ち解けることのない、心の悩みを忘れてしまうような、甘美な原拠を。


 そんな身勝手に盲信しておいて。


 調の言葉を待ち望む影に惑わされた少女の笑顔は途端に消える。自身の見込みは外れ、繋ぎ止める証明の意味は何もかも履き違えていた。


「やっぱり勉強を怠らないことが一番でしょ!」


「え……?」


 肩を透かす。


 意味も分からずにリフレインを繰り返す真実に最も相応しい言葉。


 彼女は辛いと言った。間違いなく聞こえた。聞き間違えじゃない。矮小な自分に気付いた上で現実は残酷であると痛感していたハズなのに。


 どうして微笑む。


 どうして平気でいられるのか。


「個人的な主観だけど、受験は本当に辛抱をした。誰もが通る道だ。良き友の存在がなければ挑戦権なんて無かっただろう。何よりも共に机を囲んだ相手が相手だ、学業に関しては丞に一度も勝てなかったな。とは言っても身体能力は私の方が遥かに上だがな! ああ、ちなみに丞ってのは私の双子の兄なんだけど───」


「違う!! 私が聞きたいのは、水飴のような戯言じゃないッ!!」


 突発的な衝動で立ち上がる。衝撃で空洞のペットボトルは落ちて転がっていく。


 それ以上聞きたくない。


 未来が知りたいのは心の重圧を解いてくれるおまじないだ。

 起きているのは言葉の擦れ違いだ。皮肉にお互いの価値観が極端であり、他者の境遇など共感する訳でもなく、もはや道だけが逸れていたに過ぎない。

 

 冷静に考えれば。正気を取り戻していれば。


 歪に象る心の麻痺を自分自身で解決できたものなのに。血走る眼光と必死な赤面は憤怒に駆られている。強いて言えば仙崎未来らしくないというか。

 理不尽な本能に抗えず、暴走に走るその姿はまるで怨恨の炎を纏うように。


「私が本当に聞きたいものは……!!」


 目の敵にする、狂気に満ちた『憤怒』の感染は───。



「過去の自分に怒っているんでしょ?」



 突き付ける平常の眼差し。瞳は色褪せず今も輝いている。


 正しい未来を見定める眼に怖気付いて、葛藤を理解した一人の少女は、感情がぐちゃぐちゃになって、心の脆さと向き合わず、責任を他人に任せて、思春期の鬱憤をぶつけるだけの可愛げな罪悪感に猛省して。


 視界が微睡みに誘われる前に。


 二人の柏手によって、心の怒りは意識の海に冷やされた。

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